第13話 無駄な努力
その日は雨だった。国境都市ロザへは後一日の距離。もう少しで逃亡生活から逃れられる。相変わらず路銀は少ないから、国境を渡っても贅沢ができるというわけではないけれど、追手を気にしなくても良いというのはかなり気が楽だ。精神面に余裕がでれば体力的にもずいぶんと楽になるだろう。
そんな胸算用をしながら、しとしとと小雨の降る街道を進んだ。
「このまま街道を進んでいてよいのか?」
リリヤドールが馬の足元を見て尋ねた。
泥濘んだ地面に馬の足跡が後ろに続いている。雨でなくとも土の地面を進んでいれば必ず足跡はつく。今更気にすることでもないが、こうもあからさまに見せつけられると流石に不安になってくる。
だが追手も、数日はその足を止めることだろう。
「大丈夫だ。あの町に来ていたノルバレン大公国の兵士たちはほとんど片付いている。死んでないのはトーヤが眠らせてくれた一人だけ。他にも隠れていたのかもしれないが、あの状況で姿を見せなかったことを考えればせいぜい一人か二人だろう。それに睡眠の魔法はもう切れているはずだろう?」
「うむ。あれは眠りのきっかけを与えるだけで、眠ってしまえばあとはなんの効果もないものじゃからな」
「ならば尚更。奴らに追ってくる気があるのならば、もうとっくに追いつかれているはずだ」
そうか、と頷きつつもリリヤドールは背後に視線を向けた。実際に国境を越えなければ不安は拭えまい。それはしかたのないことだし、逆に皮算用を過信してそれが油断に繋がるのもまずい。とはいえリリヤドールはその子供のような見た目に反して中身はずっと大人である。兄とふたりきりで旅を続けてきたという実績もある。適度な緊張を保てるのであれば、無用な不安からは解放してやりたいと思った。
例によって夜営地は森のなか。仮に焚き火の明かりを発見され接近を許しても、エルフの魔力察知の能力で、機先を制することができるだろう。開けたところにキャンプして、狙撃手の的になるよりかはずっと良いはずだ。
湿気ていない薪を探してきてリリヤドールに生活魔法で火を点けてもらう。「灯れ」と呟くだけで重ねた薪の中心から煙が上がり、やがて赤々とした炎が姿を現した。木と木にロープを通し、雨で濡れた外套を干す。この程度の小雨であれば森が傘の役目を果たしてくれるだろう。
小さな雨粒がしとしとと静かに葉を打ち、時折乾きかけの地肌に滴り、それを手で拭った。
トーヤが狩りをしてくれている間に俺は食事の準備を進める。手頃な石を積み上げて即席のかまどを作る。適当な枝を拾い集め、ナイフで切っ先を作り串を何本か用意した。
しばらくすると狩りを終えたトーヤが戻ってきた。彼の右手には野うさぎが一匹。焚き火の傍に腰を落ち着けると、彼はそれをナイフで捌き始めた。この暗闇の中でよく見つけられるなと称えると、彼は得意げに鼻で笑った。
「ふふん、ニヤラでも俺は弓の名手だったんだ。それに夜目が効くから俺に狩れない獲物はいないぜ」
そう嘯きながら俺の用意した串に細切れにした肉を突き刺していくトーヤ。そして鼻歌交じりに次々に焚き火の傍に突き立てていく。だがそんなトーヤの鼻っ柱はものの見事にへし折られてしまう。
「嘘を付くものではないぞ、お兄さま。おおかた森の声を聞いたのじゃろうて、お兄さまに夜目が効くなぞ初めて聞いたぞ。それにニヤラでも弓の扱いは下手くそな方じゃったと言っておったじゃろう」
へし折ったのは彼の妹のリリヤドール。トーヤに目をやると、ギクリと硬直し手を止めてしまっている。どうやら図星らしい。
「お、俺は銃の練習をしていたんだよ。それに狩りには失敗していないんだから別にいいだろ!」
何とか取り繕おうと必死に弁明するトーヤだが、正直ぴんとこなさすぎて首を傾げるしかなかった。エルフの中で弓が下手な方でも、トーヤの言う通り、今まで彼が狩りに失敗して手ぶらで帰ってきたことはなかった。それが今日のような月明かりもない闇夜であってもだ。ヒトの基準で考えればトーヤは弓を司る雷神ザルラにも劣らぬ技量を身につけているといえるだろう。
だが気にかかることもある。
「銃の練習といったが、それはトーヤの持っているマスケットピストルの練習か?」
尋ねると、トーヤは「そうだ」と、これまた得意げに頷いてみせた。俺は思わず言葉に詰まってしまう。
ライフルと違って銃身内部に螺旋状の溝が刻まれていないマスケットは、その命中精度に重大な問題を抱えている。それ故、運用はもっぱら戦列歩兵での一斉射撃という形をとられている。これにより兵卒ですらない罪人でも、一端の戦力として計算に入れ込むことが出来るのだ。
戦術の話は置いておいて、つまり銃本体の命中精度がどうしようもなく悪いために、トーヤがいくら練習しようともそれは大した成果を生まないのだ。ライフルがある今となっては、無意味といっても良い。マスケットで百時間練習するならば、ライフルで一時間練習したほうが成果が上がるというもの。
「……それで、上達したのか?」
恐る恐る尋ねてみる。すると意外にもトーヤは満面の笑みで答えた。
「ああ、かなり苦労したが、風の魔法で弾道を修正できるようになってからは命中率がずいぶんと高まったぞ。百メートル先の人間大の的になら八割は当てられる」
マスケットの、ただ単に爆発によって押し出されただけの丸い弾丸は、空気の影響を大きく受ける。そして弾道の変化も不規則で、加味して偏差をつけて狙うことも不可能だ。だがトーヤはそれを魔法を使うことで補正に成功したらしい。三十年前ならいざしらず、ライフルが流通しているこのご時世になんて時代錯誤で無意味なことをしているのだろうと呆れる一方で、それを力ずくでねじ伏せる魔法の技量に唖然とした。
「で、でも目で追える弾速ではないだろう」
「弾がどんな変化をとっても矯正できるように最初から展開しておくんだよ」
これほど説明されてもぴんとこないことがあるだろうか。膜のようなものなのか、それとも銃口から的までを繋ぐ轍のようなものなのか、まったく想像もできない。俺にとって魔法とは銃で撃ち出すもので、それ以外の魔法は、アーグ教の儀礼で使うような小規模な古典魔法しか知らない。エルフの魔法は、どちらかといえばレギニアの古典魔法に近いものなのかもしれないが、魔法史を紐解いても銃弾の軌道を矯正する魔法など出てこなかった。せいぜいが炎を撒き散らしたり、氷柱を降らせたりする程度のものだ。
「その訓練、どれくらいかかったの?」
恐る恐る尋ねてみる。
「そうだな、今程になるまでには三十年くらいかかったかな。五十メートルくらいまではすんなりだったんだけど」
「……ちなみにライフルを触ったことは?」
ライフルが発明されたのはおよそ二十年前。三十年前はまだマスケットの時代だった。
「ないけど……そんなに違うのか?」
もう三百年以上、特に大きな変化もなくマスケットが主力武器として用いられてきた。発射機構の改良はあったけれど、劇的というほどのものではなかった。それがたった三十年でどれだけ変わったというのか。トーヤが訝しむのも理解できるが、百聞は一見にしかず。いや、百見は一触にしかずとでも言い換えればいいだろうか。夜が明けたら撃たせてやろうと思う。弾数は限られているが、シフォニ王国でも補給はできるし、一発くらいなら問題ないだろう。
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