ヨアン王子の幸福な逃亡

ふじさわ嶺

第1話 巡り逢った

 標的と照星を照門に捉える。

 グリップを握り込み、魔力を銃身へ。

 息は吐ききって止める。

 流し込んだ魔力が弾丸へ伝わるのを感じ、俺は引き金に指をかけた。





 アーグ歴一八四六年八月。夏も盛りを迎えた頃、イニピア王国は南に隣接するノルバレン大公国から宣戦布告を受けた。彼の国の宗主ノルバレン大公は、もともとイニピア王国王家であるヴィゼルグラム家の分家だった。国として袂を分かったのは何百年も前のことだが、互いに国難の際には助け合ってきた長い歴史がある。

 だが、いや、ノルバレン大公曰く、だからこそ、近隣諸国が工業化し力を蓄え、列強と呼ばれるようになった今、ヴィゼルグラムの血をひとつにまとめ上げ、強大な列強となるべきなのだそうだ。だが俺には、己の領土欲を満たすための戦争を始める方便にしか聞こえなかった。

 大公の野心。それはイニピア・ヴィゼルグラム家にとって許されざるものだった。


 イニピア王国第三王子である俺、ヨアン・オーライン・ディナ・ヴィゼルグラムも、王国を侵す慮外者を撃退するべく、四十騎からなる魔道騎兵小隊を率いて出陣することになった。先月十六歳になったばかりの俺の初陣に、フロランシア姉さまは心配を隠そうともしなかったが、彼女の不安げな顔を思い出すと、戦争などさっさと終わらせて早く安心させてやりたいと、心が勇んだ。



 初戦、ヴァン・フォールレインの戦いは、広大な平地での会戦となった。両軍、万全を期しての戦いだった。とりわけイニピア王国は、戦場が領内ということもあってノルバレン大公国軍十万の倍の、二十万の兵を動員することができた。加えて地の利もある。勝利は確実だと、誰の目から見ても明らかだった。俺も、一度も発砲することなく初陣を終えられるのではないかと内心では安堵していた。だが現実は真逆だった。


 早朝、朝霧とともに戦端が開かれる。後方で待機していた俺の耳には、遠くで響く砲声が聞こえてくるくらいだったが、昼過ぎには司令部がやけに慌ただしくなって、ひっきりなしに飛び込んでくる悪報に戦況が悪転したことを知った。


 悲惨な一日目をなんとか耐えきったイニピア王国軍は作戦の変更を迫られる。数に物を言わせた戦術は使えない。ならばと、魔道師たちに白羽の矢が立った。



 古来、魔道師は杖を持ち、呪文を唱え、神の加護を受け、奇跡を発動させた。だが時代が進み、戦場で猛威を奮った魔法も銃の登場によってその影響力を弱めていった。当時活躍した魔法は、今や古典魔法と呼ばれ、神殿で儀礼に使われる程度のものしか残っていない。

 だが魔道師が潰えたわけではなかった。魔法を石に封じ込めた魔法石というものが発明され、魔道師はその冗長な詠唱を破棄することに成功したのだ。歩兵が弓矢から銃へと武器を持ち替えたのと同じように、魔道師も杖を魔法石に代えて戦場に立ち続けた。

 次に劇的な変化が起こったのは、今からおよそ五十年前。高い魔導性を持つミスリルと鉛の合金である真銀鉛が発明されたことにってもたらされた。

 それまでも魔法陣を刻み込んだミスリル製のナイフなどは存在していた。だがミスリルだけでは軽すぎてとても弾丸として使うことができなかったのだ。魔法弾に適正のある真銀鉛を材料に、魔法陣を転写した魔法弾が即座に開発された。魔力を流し込むだけで魔法を発動することができる魔法弾は、魔道師の名誉を著しく損ねたが、強大な戦力となり得るその兵科を、各国はこぞって育成し始めたのだった。

 それから魔法陣の研究開発が進むことで魔法弾の機能が向上し、ライフリング技術の実用化と金属薬莢の開発によって銃の性能が格段に向上した。そして、魔法陣の転写技術に革新が起こり、当初魔道師がひとつひとつ手作りしていた魔法弾が、工場で大量生産されるようになった。

 かくして魔道師は、再び戦場の覇者として君臨することとなった。



 ヴァン・フォールレインの戦いの二日目。総司令官の第一王子――つまり兄上は、大量の魔道騎兵を前線へ配置した。俺も部隊を率いて小高い丘の上に駆け上がった。眼下に広がる草原では、先日同様に両軍が睨み合っている。一日目に魔道騎兵がほとんど投入されていなかったことを考えると、今度の大量投入は戦況に大きな変化をもたらすことができるのではないだろうか。そう期待して俺は銃を構えた。



 標的と照星を照門に捉える。

 グリップを握り込み、魔力を銃身へ。

 息は吐ききって止める。

 流し込んだ魔力が弾丸へ伝わるのを感じ、俺は引き金に指をかけた。

 人に向けた初めての射撃。臆すると?

 いいや、覚悟はとうに済ませた。


 狙うのは土色の軍服を着た慮外者ども。ノルバレン大公国の戦列だ。

 銃身がぶれないようにゆっくりと引き金を絞る。動作した撃針が雷管を叩き、魔法の込められた銃弾が耳をつんざくような音をあげて白煙とともに発射された。弾丸に込められているのは爆裂魔法。敵戦列で爆発し、敵兵士の四、五名を死傷させた。

 一丁では大したことがなくても、それが四十からなる騎兵隊からの一斉射撃であればどうか。俺たちは、突撃を敢行していた敵戦列の一翼を見事に混乱せしめることができた。白煙の霧が引かぬうちにすぐさま次を装填し、射撃する。四発撃てたところで、混乱していた敵戦列に、こちらに対応する動きが見られた。


「ヨアン殿下!」


 魔道騎兵は強力な兵科ゆえに、敵も警戒を怠らない。機動力が高く神出鬼没であるから対処は後手に回りやすいが、だからこそ損害を受けた指揮官には迅速な対応が求められる。そして今度の敵はそれができる相手のようだ。


「わかっている! 障壁展開!」


 現代の魔道師の三種の神器、そのふたつがライフルと魔法弾であるとするならば、もうひとつは障壁魔法の魔法陣を刻印したミスリルの指輪だ。指輪に魔力を流し込むことで、自身の前方に障壁を展開することができる優れもの。障壁は、無数の銃撃を受け止めるには不安のある強度だが、射線に斜めになるように展開させて跳弾を誘えば十分に被弾を防ぐことができる。


 数箇所で攻撃と離脱を繰り返し、敵に混乱をもたらすべく戦場を駆け回った。


 だが、それでも数の少ない魔道師にできるのは、局所的な優勢を作り上げることくらい。大局を覆すことなど、できやしなかった。


 相変わらず数では圧倒しているし、その差が有利に働きやすい平地での会戦だというのに、どうしてこのような差がでる?


 眉間に皺を寄せたその時、突然、雷のような爆音が身体を揺らした。まさに青天の霹靂。だがここが戦場であれば降ってくるのは雷ではなく砲弾だ。ライフルの発砲音に慣れさせた頼もしい愛馬だったが、流石に砲撃に晒されることには耐えられなかったらしい。悲鳴を上げ大きく前足を踊らせて、その弾みで俺は無様にも落馬してしまった。


「で、殿下!」


 俺を気にかける部下の声が聞こえるが、無事だった者も、すぐは馬をなだめるので精一杯らしい。顔をあげると俺の他にも落馬してしまった者たちがいた。


「砲撃か!?」


 流石に魔法障壁では砲弾を弾くことさえできない。狙われているならばすぐに退避しなくてはならない。だがそれは杞憂だったようで、


「いえ、流れ弾のようです」と、頭上から返答が返ってきた。


 無事だった厳つい副隊長の視線の先を追うと、眼下に広がる草原で両軍が今まさに激突しようとしているところだった。何の変哲もない、想像した通りの戦場の光景だ。だが、すこし、奇妙だった。この違和感の正体がわからないまま俺は、副隊長の後ろに跨って一時退避を指示する。


 副隊長の背中で馬に揺られながら戦場に目を遣る。怒号は砲声と銃声に掻き消され、土色の点と深緑の点がごちゃごちゃに入り乱れている。実際の戦場を目にするのはこれが初めてだが、兄上たちからの話に聞いていた光景と、迫力こそ違えど字面の上では相違ないように思えた。


 さっき感じた違和感はいったい何だ?


 と、数百メートル先で味方の戦列に砲弾が落ちた。戦場の騒々しさのなかで、被弾した者たちの悲鳴が辛うじて聞こえてきた。爆発の衝撃で足が飛んだ者、砲弾の破片で腕が引き千切れた者、飛び散った石礫で目玉が抉れた者たちが呻き声を上げ地面に身を投げだしている。それでも突撃のラッパが鳴り続ける。咆哮を上げて果敢に走り続ける者たちのなかに、負傷者を助けることを理由に足を止め、物陰に避難している者たちもいる。だがそれが生還に至る最善手とも限らない。常に戦場は敵の砲撃の雨に晒され続けているのだから。

 イニピア王国軍の、深緑色の戦列に容赦なく砲弾が降り注ぐ光景を目の当たりにして俺は、ようやく違和感の正体に気がついた。あまりに信じがたいことだったために、一度逸した目をもう一度戦場へ遣って確かめなおした。だが砲弾が、イニピア王国側にしか落ちていないという事実が覆ることはなかった。


 押していると勘違いして、実は引き込まれていた? いいや、もしもそれほど容易いことであれば、一日目の劣勢はなかっただろう。作戦レベルの問題ではないとすれば、考えられるのはひとつ。大砲の性能差だけだ。

 剣と弓で戦っていた中世でさえ、超射程のロングボウが弩を持つ軍を圧倒した記録がある。弓は一射で一人射るのが限界だが、それが大砲となればどうだろうか。ノルバレン大公国の大砲はイニピア王国のそれよりも射程に優れていて、そのせいで夥しい量の砲弾がイニピア王国軍兵士の頭上に一方的に降り注ぐことになったのだ。


「兄上はこのことに気がついているのか?」


 しかし、慄くのはまだ早かった。


 突如、戦場から赤い光が差した。驚いて振り向くと、遥か遠くのイニピア王国軍の戦列のなかで、赤い炎が立ち昇っているのが見えた。かなり距離があるのにまるで積乱雲のように大きくおどろおどろしい紅蓮。俺は何が起こっているのか確かめようと目を凝らした。その瞬間、壁のような突風が突き抜けた。とっさに足をよろけさせてしまう。体勢を立て直しているなか、雷が空を裂く時のような轟音が響いた。


 俺は魔道師だ。だからあの爆発の正体が魔法によるものだと瞬時に理解できた。だが、イニピア王国では配備されていないものだ。砲弾に真銀鉛を使い魔法陣を転写させたのだろう。それ自体は難しいことではないし、我がイニピアでも作られたことはある。実現すれば強力な兵器になることは誰もがわかっていた。にも関わらず実用化に至らなかったのは発動できなかったからだ。

 あれほどの爆発を起こすために必要な魔力となると、複数人の魔道師で魔力を充填しなくてはならない。だが、他人同士の魔力の親和性の低さという特性を克服しなければ、魔法陣に転写された魔法を発動することはできない。

 例えば、魔法陣を分割して複数の魔法陣でひとつの現象を起こすようなものにするとか、あるいは、ひとりで発動できるように魔法の魔力効率を上げてみたり、様々な手が尽くされたらしい。だが、それでもイニピアでは実用に耐えうるものは作れなかった。

 だが、ノルバレン大公国は完成させていたらしい。


 次々と戦場のあちこちで大爆発が起こり、その度に風の壁が突き抜け、空が引き裂かれた。もうイニピア軍の戦列からは怒号すら聞こえない。似て非なるもの。戦場には悲鳴だけが響いていた。その惨状を見て俺は、敗北を確信した。


 ノルバレン軍の圧倒的火力の前に総崩れとなったイニピア軍は、即座に退却を開始した。兄上も馬鹿ではないらしい。だがこれが統一戦争とあれば、白旗を揚げ、城下の盟を結び、不平等条約を締結して賠償金を支払えばそれで終わり、というわけにはいかない。少なくとも王位継承権保持者は皆殺しにされるだろう。正直、国の趨勢など俺にとってどうでもいいことだったが、フロランシア姉さまを傷つけることは許されなかった。

 王子というだけで王位継承争いの中心に置かれ、暗殺者の影に怯えていた幼い俺を、自分の立場を危険に晒してまで庇ってくれたフロランシア姉さま。保身を考えるならば兄上たちの派閥に入るべきだというのに。俺は、ずっとフロランシア姉さまの背中に守られてきたのだ。だから今度は俺が姉さまを守る番だ。


 だが、思いの強さだけでは戦力差をひっくり返すことはできない。王都セントレントへ至るまでの二度の戦いに破れ、俺の部隊は壊滅した。部下を失い孤立した俺は、それからどうなった?

 最後の記憶は、王都へと伸びる街道で、夏の太陽に熱せられた砂の大地に、崩れ落ちるように倒れ込んだ時のもの。倒れたのは空腹のせいか、それとも何日もろくに寝ていないせいか。泥だらけの身体で懸命に手を伸ばしても一ミリも動かない。無力という取り返しのつかない絶望のなか、俺は気を失ったのだ。




 母親譲りの燃えるような赤毛を撫でる小さな手に気づき、俺は意識を取り戻した。撫でられた頭がとても気持ちよかったのと、小川の涼し気なせせらぎが聞こえてきて、自分は死んでしまったのだと思った。あまりに安らかだったので、俺はしばらく目を瞑ったまま頭を撫でる手に身体を預けていた。すると、そんな俺の気配を察したのか、”彼女”は「む、目覚めたのかの」と、鈴の音のような声で言った。その声が言葉遣いのわりに幼すぎて、俺は気になって瞼を開けた。

 すると小さな丸眼鏡をかけた幼い少女が俺の顔を覗き込んでいた。

 そして、とっさに上げた頭が彼女の顔にぶつかって、その痛みで俺はここが現実であることを知った。


 痛みに我に返った俺は、とっさにライフルを探した。弾はベルトのポーチに入ったままのようだが、肝心のライフルがなければ俺なんてただの兵卒か、あるいは王族という身分を知る者にとっては、葱を背負った鴨のような存在だろう。

 周囲を見渡すに、森に臨む河原のようだが……どこの森だろうか。街道から離れているのなら、ノルバレン軍に見つかることはないだろうけれど。

 

 少女はどこかの民族衣装のような服を着ているがイニピア王国のものではない。もちろん、城下で最近流行りの洋服でもない。だが彼女が市井の者とはとても思えない理由は別にあった。


 ……エルフ?


 彼女の耳からはヒトが持たざる長い耳が生えていたのだから。彼女が浮世離れしているように見えたのは、エルフだからというだけではない。大きくて円な空色の瞳には、小川の流れが映り込んでいるかのようにゆらゆらと光が揺れて、淡い色の金髪は陽の光に透けてふっくらした頬に影も落としていない。派手にぶつかったわけではないのだが、彼女の鼻先が思ったよりも赤くなってしまって見えるのは、肌の異常な白さのせいか。あまりにも儚げな少女が、人並みに痛がっているのがひどくちぐはぐで可笑しかった。


 だが、自分のせいで負傷した少女を笑うなど、これほどの無礼もない。なぜこんなところにエルフが? などと疑問は尽きないが、今はおそらく恩人である少女に礼を尽くすべきだ。俺は彼女の具合を窺うべくまだだるい身体をおして彼女に這い寄った。


 そういえば、いつかの剣の稽古の後、打ち身をして青くなっていた箇所をフロランシア姉さまが撫でてくれたっけ。


 その時、痛みが引いたことを思い出して俺は、眼の前の少女にもいつかのフロランシア姉さまと同じことをしてやろうと考え手を伸ばした。レディにそれは軽薄だが、十歳にも満たないような、それも貴族でもない子供にそのような気遣いは不要だろう。


 だが俺の伸ばした手が、彼女の雪肌に触れることはなかった。その直前で彼女が、突然顔を上げたからだ。本当に綺麗な空色の瞳だった。眼の前にいる俺が映り込んでいるのがわからないくらい淡い。見つめ合ったのはほんの数瞬だった。


「だいじょう――」


 大丈夫? と尋ねようと口を開いた時、すぐそこの茂みから物音がして、ひとりの少年が姿を現した。彼の手に銃が握られているのを見て俺は、夢から冷めるように現実に引き戻された。

 少年も、少女と同じ柄のケープのようなものを纏っている。そして耳が長い。エルフだ。よく考えてみれば、こんな幼い少女がひとりで旅をしているわけがないのだ。では一体なんのために?

 不足した情報と、自身の危うい立場と、なすべきことの優先順位が、俺に少女を拘束させ、そして携帯していた短剣を彼女の白くて細い首筋に突きつけさせた。


 今が平時であれば、きっとこんなことはしなかっただろう。深々と礼をして、王宮へ招き、然るべき謝礼をしたはずだ。けれど今は戦時、それも敗走中で、俺は王子なのだ。この者たちに害意がなかったとしても、倒れていた俺を介抱してくれたのだとしても、見知らぬ人間を信用するほど俺は迂闊ではない。


「それ以上近づくな! 銃を置け!」

「リリヤドール!」


 少年は心配そうに少女を見つめる。この幼い少女も、俺と同い年くらいの少年も、ふたり揃って金髪に青い瞳だ。兄妹なのだろうか。


「妹を離せ!」


 相手も引く気はないらしい。脅しに屈すれば相手の思うつぼだというのはどこの世界でも同じらしい。彼にとって俺は粗暴なならず者なのだ。いや、本当に鴨だと思われている可能性だってないわけではない。


 両者の間で緊張が走るなか、ふと、長いブロンドがさらりと俺の腕を撫でた。


「う……ぐ」


 手元から聞こえてくるのは苦しそうな呻き声。幼い身体を拘束するには力を込めすぎたか。息をすることさえままならない彼女の様子に俺は、少し腕の力を緩めた。

 そして無事呼吸を許されたエルフの少女が、乱れた呼吸を正す間もなく、突きつけられた短剣に当たらないように器用に振り返り、そして俺の胸に縋りながら円な青い瞳をさらに丸くさせて言い放った。


「わしにお主の赤ん坊を孕ませてくれぬか!?」


「…………は?」

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