26–2 死ぬほど嫌い、殺したいほど好き②
志村がいきなり千恵に抱きついた。
「ぎゃ」
千絵が叫んだ。なにが起きたのかわからない。そして、鼻から右頬を、す、となにかが引かれた。生ぬるいものが垂れた。痛みはしばらくして唐突にあらわれた。千絵は倒れ、のたうちまわる。
いたい、いたい、いたい、なに、顔が……。言葉は文としてまとまることなく零れていく。そのさまを、西脇はただ呆然と眺めることしかできなかった。なにが起きたのか。千絵の向こうに、女が立っている。目がおかしい。なにも見ていない。ただ、ぶつぶつと、聞き取れない言葉を呟き続けている。千絵は顔を抑えながら、呻き続けた。誰か、誰か……。その誰かは自分だ。なのに西脇はどうしたらいいのかわからない。
「どうせえ、男にい、股ひらいてえ、生きてきたんだろおっ。何人とおやったんだよっ! あたしはあっ、あんたなんてっ嫌いなんだっ。あんたのことなんてっ嫌いなんだっ。嫌いなんだよおおおおおおお!」
志村はいった。まるで、自分自身で言葉を噛みしめるかのようだった。そうだ、こいつは、わたしをずっと軽蔑してきたんだ。わたしを「ないもの」として扱ったくせに、なのに! なにもかも奪い、笑い者にしたんだ!
「あんたがさあ、滝でレイプされたのはあ、わたしがやってやったんだあ。ざまあみろお。わたしはあ、お前があ、不幸になれえ、不幸になっちまえええって毎日祈ってたんだあっ。わたしのお願いをっ、神さまがあ、聞いてくれたんだあ、ざまあみろお、ふふふっ、ふははははっ!」
西脇は志村の言葉なんて聞いていなかった。救急車を、救急車を呼ばなくちゃ。千絵が、俺の希望が……。あまりに震えていたものだから、スマホを草むらに落としてしまった。スマホ、スマホ……。千絵の叫び声。志村の手には、ごっそりと髪の毛の束があり、それを雑に捨てた。無理やり千絵の髪を持っていたカッターでぶちぶちと切ったのだ。千絵はけだもののような咆哮をあげつづけていた。西脇は、小便を漏らした。この異常事態になにもできない自分を恥じ、そして恐怖で声がでなかった。
「股なんてひらいてねえよ……」
千絵が立ち上がろうとした。思い切り志村が蹴りつけ、再びどさっと、倒れ込んだ。
「千絵……千絵!」
千絵の顔の半分が真っ赤に染まっていた。こんなに暗いのに、血は、なんでこんな鮮明なのだ。西村が絶望するには充分の赤さ。
「お前え、こいつとお、何回やったんだよお」
「救急車を、はやく救急車」
「いえよお! やりまくってんだろおがああ!」
「救急車!」
スマホが見つからない。どこだ、どこだ……。
「いまから電話してもしばらくこねえからあ。ざまあみろお。いいから言えよお、何回やったんだよおっ!」
思い切り、深町の背中を志村は斬りつけた。ぎゃあ、と西村は間抜けな声を張り上げ、転げ回る。何度も、何度も、切り続けた。志村は嬉しかった。なんでこんな簡単なことを、これまでしてこなかったんだろう。草原に入るのとおなじだ。してはいけないといわれていたからしなかった。それだけだ。でも、もうしてしまった。ならばやり尽くす!
「やってねえよ……」
志村の足が掴まれた。千絵だった。ぜってえ殺してやる、こいつを殺してやる……。
「ぶっ殺す」
「殺せるもんならあ、殺してみろおっ」掴まれた足を思い切り千絵の顔めがけて蹴りつけた。千絵が転がる。自分にこんな力があるだなんて。志村は驚きだった。そして興奮し続けていた。西脇が志村に思い切りタックルをした。二人が倒れこむ。
「西脇さん、あんた最高だよ」
最高のマネージャーで、最高の理解者だよ。あたしたちのこれからをめちゃくちゃにしたクソ女を、わたしたちは倒さなくてはならない! 千絵は起き上がる。足元に西脇のスマホとカッターがあった。どちらを選ぶか。千絵はカッターを拾った。そばで、誰かが見ていた。千絵は気づかなかった。
「死ねこのブタ……」
「待てよ」
声のほうを向くと、そこに幸次がいた。知るか。志村の前に千絵は立つ。おしまいだあ、おまえはもうおしまいだあ、ざまあ、ざまあ、ざまあ……。西脇に押さえつけられ、暴れながら、志村は騒ぎ続けている。完全に狂っている。セートーボーエーだよね。こいつだけは絶対に許さない。顔や、身体中の痛みなど知るものか。そんなものを味わう前に、やらなくてはならないことが、眼前にある。
幸次は、千絵の肩を思い切り引っ張り、倒れさせた。そして、西脇の首根っこをつかみ、志村から無理やりどけさせた。
「あんた、まさかこいつを守るつもりっ!」
千絵が叫んだ。
幸次は、寝転がった志村の腹を思い切り踏みつける。げえ、という素っ頓狂な声を志村はあげた。そのまま馬乗りになって殴り続ける。あまりのことに千絵と西脇は見ていることしかできなかった。ただ、殴りつける音だけが、聞こえた。千絵は、その音を聞きながら、笑いそうになった。なんだこれ。なんだこれ。なんだこれ。
しばらくして幸次が振り向いた。
「あんたらが手を汚すことはないよ……」
「なにいってんのよあんた……」
志村は、死んでいた。
「何人殺したところで、おんなじだ。一人殺したら、もう何人殺したって」
「幸次、あんた、マジでなにいってんのよ」
頭がおかしいやつを、頭のおかしいやつが殺した?
「もうお前ら、ここから出ていけよ……、次に会ったら、お前を殺すかもな」
そういって、幸次は、草原のなかを、歩いていった。
西脇のほうへ、千絵は這いずりながら向かう。白いシャツが真っ赤に染まっている。千絵は手を伸ばす。幼い頃、母の背中をさすってやった。母は、「ああ、すごく良くなった。手のひらっていうのはねえ、すごい力があるんだよ。辛くて痛くてもね、あんたが優しく触ってくれるだけで、元気いっぱいになるんだよ。あんたはね、わたしにとって、そういう存在」といった。西脇さんの痛みを、わたしは払ってあげられるだろうか。きっと、できる。しかし、西脇に届くまえに、千絵は気を失った。西脇もまた……。
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