第三章 花はどこへいった Ⅰ
「長い話になっちゃった……ごめんね」
わたしは、カップの底に残って冷たくなった紅茶を見つめた。
ぜんぶ、話しちゃった……。
紅茶にぼんやり映るわたしの顔は、困惑ととまどいの中でゆれていた。
うまく話せたかどうかは、わからない。でも、表面を言いつくろったり、自分の気持ちをごまかしたりはしなかったと思う。ずっとわたしの胸の中にあったことを、すべてありのまま話したつもりだ。
だけど、それでよかったのだろうか。
なにをどう話したらいいかもわからなかったのに、いざ話しはじめると、次々に思いがこみあげてきて、言葉がとまらなくなった。
だれにも話さず、自分の中に封じ続けてきた言葉が、堰を切ったようにあふれて止まらなくなった。そんな自分に驚き、うろたえながら、それでもわたしは、無我夢中で話し続けた。
話している間は、よけいなことなんてなにひとつ考えなかった。
でも、心の“がらくたボックス”にしまいこんだものをすべて開放するように、なにもかも話しつくしてしまうと、あとに残った静けさからは、後悔に似た想いしか沸き起こってこなかった。
ミュウは、今日ここで会って、言葉を交わしたばかりの女の子。その女の子に、彼女とはなんの接点もない美鈴さんや母のことを、延々と話し続けるなんて……。
ミュウだって、きっと、あきれたよね。たぶん、“なんなんだ、こいつは”って思ってる。
ティーカップから顔をあげ、わたしは、恐るおそる、ミュウを見た。
いきなりふたりの視線がぶつかり、あわてたわたしは、目をそらすタイミングを失った。ミュウは、静かにほほえんでいた。
「おもしろいな、そのチェストおばさん」
不意に発せられたミュウの言葉に、わたしは、「ほえ?」という間抜けな声を返してしまう。
「あ、チェストおねえさん、っていうべきか」
そうか、美鈴さんのことを言ってるんだ、と、ようやく気づく。
「知ってるかい? ちぇすと!っていう不思議なかけ声は、鹿児島から広まったらしい」
「そうなの? 知らなかった」
「ただ、発祥については、薩摩藩の古武道に由来するとか、いくつか説があるみたいだね」
「ミュ……深雪って、鹿児島出身……てわけじゃないんだよね」
「先祖や親戚縁者を十代前までたどっても、たぶん、九州圏内にはたどりつかないと思う」
それなのに、わたしより鹿児島のことにくわしいって、どういうこと……?
「好きだったんだね、美鈴さんのこと」
ミュウのその言葉に、わたしは、素直にうなずく。
「うん……大好きだった」
「ぼくも、好きになったよ」
「あ……ありがと」
「なんていうか、まじ、ぱねえっす、って感じの人だね」
あの、だから、そういう言葉をどこで仕入れてるのよ、きみは……。
それはともかく――自分が好きな人のことを、「好き」と言ってもらうのって、やっぱりうれしい。もっとうれしかったのは、ミュウが、わたしの言葉をちゃんと受けとめてくれていた、ということ。
ふっとまた、なにかを思いだしたようにミュウがクスッとする。
「シロクマ効果の話もおもしろかったね」
「あ、アイスをあげない、って言われると食べたくなっちゃうっていう?」
「うん。美鈴さんがただの思いつきでそれを口にしたのかどうかはわからないけどね、シロクマ効果っていう言葉はほんとにあるんだよ」
「え!? そうなの!?」
思わぬミュウの言葉に、わたしは目を丸くする。
「きみは、旧棟には立ち入り禁止だと先生に釘を刺されていたにもかかわらず、なぜか今日、ここに足を踏み入れてしまったんだよね」
「うん……」
「禁止されることで、かえってそれをしたくなってしまう心理的傾向を、『カリギュラ』という映画のタイトルに引っかけて“カリギュラ効果”と呼ぶんだけど――」
「へえ、びっくり……ちゃんと名前がついてるんだ」
わたしがそう言うと、ミュウは「どんなことにでも律儀に名前をつけるのが、人間の習性だからね。そこはぼくも感心するよ」と笑った。
「まあ、『カリギュラ』っていう映画自体、きみみたいなネンネには見せられないしろものだけどね」
「ネンネ!?」子ども扱いには慣れているわたしも、さすがにむうっと頬をふくらませるる。「そんな言いかたはないんじゃない?」
ミュウの目が、してやったりというように、きゅっと細くなる。
「で、きみは今、『カリギュラ』をちょっと観たくなっただろう?」
「あ……」はっとして「うん」とうなずく。
「つまり、それが“カリギュラ効果”ってわけさ」
うう……そしてわたしは、いつでもそれにまんまと乗せられてしまうチョロい人間ということか……。
「それと似た心理実験で、『シロクマについて考えないでください』と指示された人は、『シロクマについて考えてください』と指示された人よりも、シロクマのことを多く考えてしまう、というのがあるんだよ。これをシロクマ効果っていうんだ」
「……それ、ほんと? テキトーなこと言ってない?」
さすがに半信半疑でたずねてしまった。
「ぼくは、思いつきでテキトーなことは言わない」
少しだけムッとしたようにミュウが答える。
「ぼくが言いたいのは、アイスをあげないと言われてかえって食べたくなってしまうのも、新種のシロクマ効果と認定してかまわないんじゃないか、ってことさ」
なんなの、新種って。やっぱりすごくテキトーっぽい……。
「さて……じゃあ、少しずつ考えてみようか」
「え? 考えるって?」
「なに言ってるんだい。自分で言ったことを忘れちゃったのかい?」
「あ……それじゃ」
「クチナシとアカシヤ、だよ」
「考えてくれるの!?」
ミュウが、「だから」と苦笑する。「そうしてくれ、ってぼくに言ったのは、きみじゃないか」
そうだった。クチナシとアカシヤの意味を教えて――最初にそう言ったのは、わたしだ。
それは、わたしがミュウのことを信じたからじゃないか。目の前にいる女の子を信じたから、だれにも話したことのない、わたしの中のすべてを打ち明けたんだ。
わたし、一番大切なそのことを、いつの間にかどこかに置き忘れてた。勝手にゆらいで、決心して伸ばしかけた手を、自分から引っこめようとしてた。ああ、やっぱりわたしは、バカだ。
ミュウを信じよう。そして、この出会いを信じよう。
「あれ、急に目が輝いたみたいだね」
「だって、深雪が考えてくれたら、それだけで百人力って気がするもん」
わたしは、ぎゅっと両こぶしを握ってみせた。
「ほめても、もうお茶の追加はないからね」
「もう! そんなこと言ってないよ!」
ミュウが、くすくす笑う。
「なにがおかしいの?」
「きみって、いちいちぼくの言うことに反応してくれるからさ」
う……それって、母や美鈴さんにさんざん言われてきたことだ。
「しょうがないじゃない。そういう素直な性格なんだから」
「そういうの、ええと、なんて言うんだっけ――そうそう、イジりがいがある」
「なに、それ! ちょっとひどくない?」
……結局また、反応してるわたし。ミュウと美鈴さん、ぜんぜんタイプはちがうのに、自分のペースに相手を引きこんでいくところは似てる。いや、単にわたしが、相手に巻きこまれやすい単純人間だってことなのか。
「見方を変えれば、それは、いい生徒の資質だともいえる」
「え? わたし、生徒?」
思わず、自分で自分を指さしてしまった。確かにわたし、聞きわけのいい生徒、ということでは、それなりの自負があるけれど……。うーん、なんだかなあ。
「ほめたんだよ。それこそ、素直に喜べばいいのさ」
「ははは……じゃあ、そうします、深雪先生」
自分の中の優等生のサガが、ちょっと恨めしいわたしだった。
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