第36話 世界に刻まれた爪痕

 昼食後を食べ終え、一息つこうとしたところへ、玄関のチャイムらしき音が鳴り響いた。夕奈が、居間の壁に取りつけられたインターフォンの受話器を取る。


「はい、どなたでしょうか……あ、村上さん……え、はい。それはかまいませんけど」


 受話器を戻したところで、僕は夕奈の足元に寄る。


「来客か」

「うん。村上さんっていう女性でね。うちの二階下の部屋に住んでいる人さ。息子の太一君が、月夜と同じ保育園に通っているんだ」


 その歯切れの悪さから、僕は何となく事情を察した。


「月夜とは、あまり仲が良くないみたいだな」

「うん……保育園の先生の話では、よく苛められているらしい」

「それならより一層、僕がいたら邪魔にしかならないな。席を外そう」

「ごめんね、朝斗。ありがとう」


 そう言い置き、夕奈が居間を出て行く。僕は寝室に引っ込むことにした。


 それから少し遅れて玄関の扉を開ける音がし、新たな人間の気配が入って来る。滴る水を思わせる、艶のある女の声が聞こえて来た。おまけに、ドアを通してこちらの部屋にまで漂ってくる香水の匂い。男の本能に枝垂れかかるかのごとき、エキゾチックな香りだ。だが、ちょっと強すぎるのではないだろうか。


「仕事の方は、今日お休みなの?」

「ええ。息子が誕生日ですので、一日一緒にいてあげようかと思いまして」

「いいわねえ。仕事を自由に休めて。私なんて明日の朝には、仕事で成田に行かなきゃいけないのよ」

「テレビをいつも拝見しています。女優として、ご活躍中ですものね」

「そりゃぁ、二流大学の講師なんかとは比べるのもバカバカしいわよ」


 寝室から廊下を挟んだ先にある居間の様子を、直接覗くことはできない。だが、村上氏が完全に夕奈を見下していることだけは、彼女の声から察することができる。夕奈のご近所付き合いの苦労が窺えた。


「それで、今日は何のご用でしょうか。保育園の行事の件でしたら、保護者会で作ったプリントを昨日、ポストに入れさせていただきましたけど」

「そのプリントなら、目を通したわよ。あなたも大変ねえ、保護者会でも居場所がないんでしょう」

「ええ。皆さんの輪の中に入ろうと、努力はしているのですが……なかなか上手くいかないものですね」


 夕奈は保護者会でも孤独なのか。しかも、どうも「村上」という女の含みのある話し方から、彼女が一枚噛んでいるように思える。邪推だろうか。


「ねえ。あなた、『重い女』って言われたことがないかしら」

「え?」

「あなたと別れた男がどんな奴だったのか知らないけど、未だに再婚せずに息子を一人で育てる。その男に操を立てているのかしら。健気よねえ。男向けの安っぽいマンガにでも出てきそうで、いかにも童貞臭いガキが好みそうな女。悲劇のヒロインでも気取っているつもり? 惚れた男が目の前から姿を消しても、いつまでも尻尾を振って。見苦しすぎて、反吐が出るわ。もしかして、それが本当の愛情だとでも思っているの? ただの依存を、愛情と勘違いしているだけじゃないかしらね。そういう女は、同姓から見たらこの上なくイラつくわ。それが、あなたが未だに保護者会に馴染めない理由の一つよ」


 何だ、この女。夕奈を罵倒するために来たのか。さすがにむかっ腹が立ち、寝室を出て行きそうになる。……いや、待て。ここで僕が殴りこんでも、夕奈が困るだけだ。


「どうせ今までの人生、ずっと女に嫌われていたんじゃないの? 男にはモテそうだけど。私があなたの同級生じゃなくて、本当に良かったわ。あなたが馬鹿な男に媚を売っている姿を、毎日見せられなきゃいけないんだもの」


 村上氏の下卑た指摘が、僕の脳裏で遠い昔の記憶を再生させる。同じクラスの男子生徒達から口説かれていた夕奈。そんな彼女を、女子生徒達は蛇蝎のごとく嫌っていた。まさか、全て村上氏の言う通りだったのか? 


 夕奈はけっして、不特定多数の男に媚を売るような少女ではなかった。自惚れじみていて恥ずかしいが、あいつが見ていたのは僕だけだったのだから。……それを依存と呼ぶのだろうか? 僕も、夕奈を生きがいにし、彼女に寄りかかって生きていた。僕達の関係は、共依存というやつなのか。僕が夕奈を大事に思う、この感情が依存であると?


 だが、そんな夕奈の姿を見た男達は、「いじらしさ」とか「純情さ」を感じ取り、虜になってしまったのかもしれない。一方の女子生徒達は、無意識のうちに男を引き寄せる夕奈のことが鼻についていた、ということなのだろうか。


「そういえば、あなたの息子も保育園で子ども達に苛められているんですって? 親が親なら、子も子よねえ。まるで怯えた野良猫みたい。見ていて、吐き気がするわ。ああいう木偶みたいなガキは、普通の子の玩具にされるくらいしか存在価値がないのよ。死ぬまでね」


 侮蔑と冷笑の混ざり合った声を転がす村上氏。だが、それまで落ち着き払っていた夕奈の気配が、一気に密度を増した。


「村上さん。あの子は関係ないでしょう。いくら親の出来が悪くても、その子どものことまで悪く言うのは、大人としていかがなものかと思います」

「あら、そうかしら。卑しさっていうのは、遺伝するものよ」


 夕奈の声は震えている。腹の中から込み上げる灼熱を、理性の蓋で無理やり押さえこんでいる様子が、寝室で聞いているこちらにまで伝わってきた。月夜を愚弄されるのは、さすがに母親として我慢ならないらしい。そんな夕奈に対して、村上氏は動じた気配を発しない。夕奈の怒気さえも、鼻で笑っているようだ。


「そうそう、さっきの保護者会の件だけれどね。私が協力してあげてもいいのよ」

「……本当ですか?」


 感情がすぐには冷却されていないのだろう、夕奈の相槌には疑わしげな色が濃い。自分の息子を堂々と虚仮にされ、その上で甘い言葉で誘われても、信じられるはずがないか。


「でもねえ、一つ条件があるわ」


 村上氏の声には、絡みつく蛇の牙を思わせる毒がある。どうやら、そちらが本題らしい。


「ねえ、神楽崎さん。あなた、父親の居場所を知っているでしょう」

「いいえ。父とは、十四年以上前から顔を合わせたこともありませんから。それに、私が持っている父についての情報は、全て警察の方へお話しています。居場所が分かったら、すぐに通報しますよ」

「嘘を言わないで。娘のあなたが知らないはずがない。でなければ、あなたみたいな小娘が大学の講師になんて、なれるわけがないわ。父親に伝手を教えてもらったんでしょう」


 大学の講師の職に就いていることについては、本当に凄いことだと思う。だからといって、目の前で露骨に否定される筋合いはないだろう。


「正直に言いなさい。知っているんでしょう」

「反対にお聞きしますが。村上さんは、父の居場所を知って、どうなさるおつもりですか」

「ふん。話す義理はないけれど、まあ、いいわ。あなた、秘密は守れるの?」

「はい」

「『螺旋の会』に接触したいの」


 尊大に、そして率直に言う村上氏。おいおい、話が予想外の方向へ展開してきたぞ。さすがに夕奈も、言葉を一瞬詰まらせた。


「接触するだけ、というわけではなさそうですね?」

「当たり前よ。あなたなんかに言われなくても、『螺旋の会』と関わり合いになるリスクは知っているわ。何しろ、信者の居場所を警察に密告するだけで、報奨金がもらえるほどだもの。私みたいな有名女優が信者と話す現場なんて、週刊誌が放っておかないわ」


 女優、というところを強調する村上氏。それはまあ、置いておくとして……報奨金か。「螺旋の会」は相当、国内で危険視されているんだな。それほど危険な組織と、コンタクトを取りたがるとは。ろくな目的ではなさそうだ。


「私ね、正直言って今の生活に疲れちゃったのよ。たまたま番組で知り合った冴えない新人俳優と、その場の勢いで身体を重ねて。そうしたら、運悪く妊娠しちゃったんだもの。今思うと、あれが全ての原因ね。ようやくドラマのメインヒロインを張れるようになったのに、その矢先に産休を取るハメになったわ。私に目をかけてくれていたスタッフは、私が休んでいる間に若い子を起用するようになったし。ようやく仕事を掴み取っても、ろくでもない役ばかりだし。仕事の後、酒を飲んで帰って来たら、家では息子が愚図っている。……もう、そんな生活が心の底から飽き飽きなの」


 投げやりな口調で、村上氏は自分の半生を語っていく。彼女の体験は、よくある話。そう切り捨てることもできる。だが、もちろん本人は他人事で済ますことができない。精神的には、崖のすぐ傍まで追いつめられているのだろう。


「『螺旋の会』が言う『幸せな来世を迎えるための活動』なんて、私だって本来なら一蹴するわよ。いかにも新興宗教が並べそうな宣伝文句よね。でも、あそこはどうも他とは違うみたいだわ。何しろ、あなたの父親が研究を進めているんでしょう。あなた達も同じ研究をしているけど、あの男にまるで手が届かないらしいじゃないの。それに比べ、警察に捕まった信者が、『もうすぐ研究が完成する』って供述していた話を、ワイドショーで見たわよ。これは、もしかしたら本当なのかもしれないわね」

「だから、『螺旋の会』に入信なさる、と?」

「いいじゃないの、別に。私はもう、この世界が大っ嫌いなの。今までの人生を、全て清算したいのよ。あなたにも私の気持ちが分かるでしょう? 胤親の分からない息子を育てるのに疲れたんじゃない? ねえ、お願い。協力してくれるわよね」


 好き勝手なことを言い散らす村上氏。家族や自分の人生を、まるでゴミ捨て場に放り捨てるかのような態度だ。少し間を置いて夕奈は、彼女にしてはひどく冷たい声を発した。


「……今のお話は、聞かなかったことにします。ですから、今日のところはお引き取り下さい」

「何よっ、あんただって父親と同じ研究をしているんでしょう。父親と違って、成果が出ていないみたいだけれど。親子でも才能が違うのね。講師になれたのも、どうせコネに違いないわ。ひょっとして、大学の上層部と寝たんじゃないの?」


 自分の願い出を断られるのが、村上氏はよほど腹立たしいようだ。忌々しげな口調で、癪に障る言葉を投げつけた。しかし夕奈は直接反論することなく、彼女を居間から追い出していく。その様子を、僕は寝室の扉をほんの少しだけ開け、盗み見していた。


「こんな腐りきった世界を見限って、新しい人生に夢を見る権利が私にはあるはずよっ。そうでしょう!」


 その捨て台詞を最後に、村上氏の気配が香水とともに消えた。玄関の扉が閉まる音がしたので、僕は寝室を出る。


「朝斗。やっぱり今の話、聞いていたんだね」


 玄関の前に立つ夕奈は、重い荷物をまた一つ背負うかのような溜息を吐いた。


「これが、お父さんが世界につけた爪痕さ。自分の人生に疲れた人が、来世に勝手な希望を抱く。十四年前までは、それがただの夢物語で済んでいた。だけどお父さんは、夢を現実に変える力を手に入れようとしている。そこに群がるのが、『螺旋の会』だ。警察がいくら末端の信者を捕まえても、駆逐するどころか年々増え続けていく」


 世界中の生物を巻き込み、今もどこかで暴走を続ける父さん。一度つけられた大きな爪痕を、夕奈達が必死に修復しようとしている。だが、早く父さんを止めなければ、本当に世界が壊れてしまうかもしれない。

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