第35話 たった一人の父親

 ……すると、再び脳裏を映像が過ぎる。


 居間の床に、夕奈が正座をしながら裁縫をしている。幼児用の服に糸を通すその表情は、とても愛おしげだ。


 そこへ「僕」が歩み寄ると、夕奈は顔を上げた。


(おや。それは何かな、月夜)


 夕奈が「僕」が右手に持っている画用紙に気付く。「僕」は恥ずかしそうに俯きながら、画用紙を夕奈に渡した。


(これは、ボクとお祖母ちゃんを描いてくれたのかい?)


 夕奈の問いかけに対して、「僕」は遠慮がちに頷く。夕奈は感極まった様子で頬を緩ませ、「僕」の頭を撫でた。その手の熱を感じると同時に、「僕」の胸に温かいものが込み上げてくる。


(ありがとう、月夜。お母さん、この絵をずっと大事にするからね)

 

 ◆◆◆


「……っ!?」


 僕ははたと我に返った。すぐ目の前には、すすり泣く夕奈の顔がある。その手には、画用紙を持っていない。となると、今のは白昼夢か。おそらく、あれもまた月夜の記憶だったのだろう。


 居間を見渡すと、テレビが置かれたその隣の壁に、あの絵が飾られているのが見えた。笑顔の二人の女性。夕奈と母さんだ。


 夕奈は、月夜を悲しませてばかりいる、と考えている。

 だが、月夜自身はどう思っているのだろうか。


 アルバムの中の月夜は多くの写真で、控え目ながら笑顔を浮かべ、夕奈や母さんの傍に寄り添っていた。辛い思いをたくさん味わっていても、それらと同じか、あるいはもっとたくさんの楽しい思い出も、その小さな胸に刻み込んでいたのではないだろうか。あの絵が、その証なのだと信じたい。


 それともそう感じるのは、ただの僕の願望なのか?


「月夜は、僕について聞いたりしないのか?」

「……あの子は時折見るデジャヴや夢を、朝斗の記憶だと何となく気付いているようだった。でも、君と会ったことがないから、君への想いが強まっていったんだろうね。そうしたある日、寝室にある君の写真を持ってきて、尋ねて来たことがあるんだ。『おとーさん、ってどんなひと?』って」


 話したこともない父親に、どれだけの希望を抱いたのだろうか。


「ボクは、君との思い出をいろいろと語り聞かせたよ。今朝君が言った、ボク達だけの秘密は、とっておきとして残してあったんだけど。話を終えると月夜は、『おかーさんは、おとーさんのこと、すき?』って質問した。ボクは『君と同じくらい、好きだよ』って答えた。そうしたら、月夜は遠慮がちだけど笑ったんだ。『おとーさんと、おかーさん、しあわせだったんだね』って。最後に、『ぼくも、おとーさんにあいたい』って漏らした」


 幼い子どもの無垢な望みに対し、僕は奥歯を噛みしめる。仮にもしも会えたとしても、かけてあげる言葉が僕には見つからない。きっと何もできず、傷つけてしまうだけだろう。


「朝斗。君は父親である資格がない、と思っているようだけれど。月夜にとっては、たった一人の大事な父親なんだ。あの子の想いを分かってあげてほしい」


 たった一人の、か。


「それはお前も同じだろ。お前は、『月夜』の人格を取り戻す研究を続けてくれ。一日でも早く、その手で抱いてやってくれ」

「朝斗……」

「お前がどんな重い罪を背負っていようと、僕はお前の味方だ。お前のたった一人の兄貴だからな。そして、お前は月夜の母親だろ。月夜の一番の味方なんだろうが」


 できる限り力強く言ったその言葉が、夕奈の心に届いたのだろうか。彼女は、弱弱しくも微笑んでくれた。僕をもう一度優しく抱きしめる。


「そう、だね……ありがとう、朝斗」


 そう言うと夕奈は気合を入れるためか、自分の両頬を叩いた。乾いた音が何度も、台所に響く。自分の迷いを消し飛ばそうとするかのように。


 もちろん、空元気であるのは明らかだ。それでも今のこいつの顔は、まぎれもなく一人の母だった。


「うん、君の言う通りだ。月夜を取り戻す。それが、今のボクがあの子にしてあげられることだね」

「ああ。僕も応援する」

「まったく、我ながら否定的な考えに浸ってしまった。ボクがしっかりしなきゃ、あの子を救えないのにね」


 夕奈は壁にかけられたあの絵を見つめ、拳を握りしめる。


 僕の中で眠っている可能性がある、僕の現世であり息子でもある幼子。まるで実感がないが。それでも僕としては、早くこの身体を月夜に返してあげたかった。僕は、この身体の本当の持ち主ではない。前世で罪に塗れた「朝斗」の人格が、新しい命までも汚すべきではないのだ。そのためにも、僕は再び眠りにつかなければいけない。今度こそ永遠に。それが今の僕ができる、何よりのことだろう。


 そうして、改めて思う。

 月夜は、どんな子なのだろうか――と。


 夕奈がこれほどまでに愛情を注ぐ相手には、僕も興味があった。もちろん置かれている状況が状況なので、会えるはずがないことは分かっている。それに、仮に会ったところで、どう接すれば良いのか分からない。

 それでも、できることなら声を聞いてみたい。そんな想いが、心の端にそっと結びつけられた。

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