第33話 理不尽な世間
それからしばらくした後、僕らは研究室を出た。その足で、大学内にある立派な病院へと入る。先ほど言っていた通り、精神科の医者に診てもらうためだ。
脳波測定に始まり、脳のCTスキャン、精神鑑定などなど。様々な検査を一通り受けた結果。
「うん。今のところ、特に異常は見られんね。しかし、食後には必ず薬を飲むことを忘れないようにね」
「はい、ありがとうございました」
診察室内で、夕奈が丁寧に頭を下げる。それに対し、初老の男性医師は朗らかな笑みを浮かべ、太鼓判を押した。
「いやぁ、全くもって驚かされた。まさか本当に、人格が替わるとはのう」
男性医師は、正面の椅子に座る僕の方に向き直った。
「月夜君、じゃなくて朝斗君か。十四年も時間が経って、戸惑うことは多いだろう。だが、君には家族がいるんだ。今は存分に頼りなさい」
「ああ――いや、はい」
普通にため口を吐きそうになり、僕は慌てて言い直す。十四年経っても、悪いところは直らないものだな。夕奈が後ろで苦笑いを浮かべているのが、振り返らなくても分かった。
「ありがとうございました」
診察室を出る前に、夕奈が男性医師に向かってもう一度謝辞を述べた。それに倣って僕も会釈する。何も事情を知らない第三者が見たら、微笑ましい親子の姿におそらく見えるのだろう。
それから会計を済ませ、僕達は病院を出た。
「このまま真っ直ぐに帰るのか?」
「いいや、大事な用事が一つあるからね。それを済ませてからさ」
大事な用事か。何だろうか。
僕を後ろに乗せ、夕奈は自転車で街を走る。途中、十四年前にここを通ったときにはなかった、新しい家が立ち並んでいるのが見えた。今朝も同じことを感じたが、これも時の流れか。タイムスリップで未来に放り投げだされた過去人のような気分だ。
「それにしても、暑いな」
「そういえば君は、昔から暑いのが苦手だったね。これでも今日は涼しい方なんだよ」
ぬるい風が身体にまとわりつく。日差しも、今朝マンションを出たときよりも強くなっているようだった。早く家に帰りたい。
「なあ。車は買わないのか? さすがに自転車で大学まで通勤するのは疲れるだろ」
「んー、車かぁ。恥ずかしながら、この歳にもなって、まだ車の免許を持っていなくてね。この十四年間ずっと勉強漬けで、教習所に行く時間の余裕がなかったんだ」
そうして街の中心部にある一軒の店まで辿り着くと、夕奈は駐車場の脇に自転車を停める。そこは、全国チェーン店として名を馳せるケーキ屋だった。白塗りの看板に、赤色の文字で大きく店名が塗られている。へえ、十四年経っても立派に営業しているんだな。
夕奈は僕の手を引き、店の中へと入った。冷房が心地よく、体中の汗が一気に引いていく。加えて店内は、ケーキ独特の甘い香りに包まれている。正面のショーウィンドウに、二十種類以上ものケーキが並んでいた。こうして大量のケーキを視界に入れると、思わず生唾を飲んでしまう。幼児の視点で見ているからか、より一層美味しそうに見えた。
「いらっしゃいま――あっ」
女性店員は夕奈の顔を見ると、声を詰まらせた。まるで連続殺人犯を目の当たりにしたかのような反応だ。そのまま店内の空気が張り詰めるかと思われたが、女性店員はすぐに営業スマイルを貼り直した。どうやらプロ意識が高いらしい。そんな反応に、夕奈は慣れきった様子だ。
「チョコレートケーキのホールを、一ついただけるかな」
「はい、かしこまりました」
女性店員がショーウィンドウから、ホールのケーキを取り出した。ふんわりと柔らかそうなスポンジにチョコレートでデコレートを施した洋菓子は、見ているだけでますます唾がこみ上げてくるほどの見事な出来栄えだ。うずうずする僕に気付いた夕奈が微笑みながら、僕とショーウィンドウの間に手を差し挟んだ。まるで「待て」と指示された飼い犬のようだが、僕もここは欲望を堪えて素直に従うしかない。
「ケーキって、今日は何か祝い事でもあるのか?」
「何を言っているんだい。今日は、記念すべき『月夜』の誕生日さ」
そういえば、そんな話もあったな。
「お誕生日ケーキでしたら、お名前とお祝いのメッセージを乗せることもできますが」
「うん、お願いするよ」
店員の女性は店員としての顔を取り繕いながら、夕奈と言葉を交わす。夕奈よりも小柄な人だが、今の僕に比べればずっと大きい。
「お名前とお歳は?」
「名前は月夜、歳は五歳さ」
「はい、かしこまりました」
お辞儀をしてから店員の女性は、まだ少し硬さの残った笑みを僕に向ける。
「坊や。今日は君の生まれた日なのね。おめでとう」
「あ、ありがとう――ございます」
我ながら相変わらず、ぎこちなくて下手糞な敬語だ。十四年経っても、何度生まれ変わっても、まるで進化がないな。だが、店員の女性は気にした様子を見せない。
「あら。礼儀正しいのね」
しまった、かえって五歳児らしくなかったか。冷や汗を浮かべる僕の隣で、夕奈は動じた様子を見せず、僕の頭を撫でる。
「礼儀だけは躾けているんだ。でも、引っ込み思案なのが悩みのタネでね」
「五歳なら、そういうところは誰にでもありますよ」
それから数分後、ケーキの入った箱を受け取り、夕奈と僕は店を出る。そうして彼女が自転車の前のカゴに、ケーキの箱を慎重に入れようとしたとき。
「……父親があれだけのことをして、よく町を歩けるわよね。本当、面の皮が厚い」
「……父親と同じ研究をしているんでしょう? 例の新興宗教と通じているかもね」
「……警察は何をしているのかしら。逮捕すればいいのに」
店先で井戸端会議をしていたオバさん達が、こちらを見ながら心ない言葉を交わす。こちらにわざと聞かせるつもりで話しているのだろう、ヒソヒソ話にしては声量が大きい。
(神楽崎さんは、たくさんの敵意を向けられて生活しています。白鷺幸太郎が指名手配されてから、彼女は家の外ではずっと嫌がらせを受けているんです)
研究室での長瀬の話を思い出す。彼女の話によれば、父さんの犯した罪は十四年前に数十人を被験者にし、僕を殺したことだけではない。現在も見知らぬ人々を、恐ろしい研究の犠牲にしているのだという。そのせいで、この国中の人々が父さんを忘れることなく、父さんの血縁者のことまで蛇蝎のごとく忌み嫌っているらしい。
「……あの子ども、胤親が誰なのか分からないんでしょう? よく産む気になれたわよね」
「……でも、あの犯罪者の血を引いているのよ。卑しい人間に育つに決まっているわ」
「……胤親も犯罪者なんじゃないのかしら」
これには、さすがの夕奈も動きを止めた。その顔を下から覗くと、悔しそうに唇を噛みしめているのが見える。そこへ、一人の若い少年が自転車の前に立ち塞がった。
「あんたが、神楽崎夕奈か」
「そうですけれど。あなたは?」
相手の持つ剣呑な雰囲気から何かを察したのか、夕奈は僕を庇うようにして少年の間に立つ。すると、少年はいきなり夕奈の胸倉に掴みかかった。
「この人殺し! あんたの親父のせいで、兄ちゃんが殺されたんだ!」
その声が、鞭のように夕奈の頬を打つ。だが、対する夕奈はその言葉の意味に気付いたようだ。突然の修羅場に動じた様子を見せない。顔を背けずに、少年の怒りを正面から受け止めようとする。全くもって状況が読めないぞ、人違いじゃないのか。だが、このまま放っておくわけにもいかない。間に割って入ろうとする僕を、夕奈が抱えて後ろへ下げる。
「君は下がっていて。危険だ」
冷静な夕奈の態度が、神経に障ったのか。目を血走らせた少年は、感情の勢いに身を任せ、拳を握りしめる。だが、その後ろからさらに別の男が現れ、少年を羽交い絞めにした。
「やめなさい、孝平」
「でも親父、こいつはっ!」
「もうあの子は死んだんだ。何をしても生き返りはせん」
少年にというよりも自分に言い聞かせるような口調で、その男は少年を夕奈から引き剥がす。少年は悔しそうに顔を歪め、涙で頬を濡らした。
「すまんな、お嬢さん。この子は、二か月前に死んだ兄に、とても懐いていてな。犯人が逮捕されないことに、憤りを隠せんのだよ。そのせいで、八つ当たりをしてしまった。真に申し訳ない」
頭を下げた男と傍らの少年は、どうやら親子らしい。夕奈は顔を強張らせたまま、静かな口調で問いかける。
「お身内の方が亡くなったのは、『螺旋の会』が原因なのですね?」
「ああ、そうだ。お嬢さん。うちの息子は、『螺旋の会』とかいう頭のイカれた新興宗教に誘拐されたんだ。次の日に、頭の焼き焦げた死体がゴミ捨て場に捨てられていた。警察は『螺旋の会』に入信していたんじゃないかって疑ったが、息子はそんな怪しいところに首を突っ込んだりはせん。何もやましいことはしていないのに、ある日突然命を奪われた。これを理不尽と言わずして、何と言うのか」
「それは」
「勘違いするな。別に、お悔やみの言葉をもらいたいわけじゃない。同情してもらおうとも思わん。だがな、お嬢さん。俺達は絶対にあんたの親父さんを許さない。『螺旋の会』とかいう新興宗教を許さない。そのことだけは、忘れないでほしい」
そう吐き捨てて去っていく親子に対し、僕達は背中を見送ることしかできなかった。
「ああいう人間は、珍しくはないのか?」
「……うん。お父さんの娘ということで、ボクは世間でけっこうな有名人らしくてね。特に『螺旋の会』の活動が活発化し始めてからは、彼らのような人が時折来るんだ。ああやって、ボクに直接文句を言いに来る人はまだいい。でも、月夜にまで怒りの矛先を向けるかもしれないのが怖いんだ」
被害者の親類は父さんに直接恨みを言えず、鬱憤を父さんの縁者にぶつけているのか。それでは、理不尽ではないか。そう言いそうになるが、夕奈の声が遮る。
「さあ、帰ろう。あ、こら朝斗。またムスッとした顔になっているよ。美味しいケーキを買ったんだから、もっと笑って」
夕奈は僕を抱き上げ、自転車の補助席に座らせた。座席に腰掛け、ペダルを踏み出す彼女の背中が、僕には傷だらけに見えてしまう。
十四年前、父さんの実験の危険さが露呈したとき、クラスの皆が揃って僕達に対する態度を変えた。きっと、僕が死んで父さんが姿を消してからは、それらの目はより一層冷たいものとなったのだろう。現在も指名手配されているのは父さんなのに、直接関係のない夕奈やその息子が虐げられている。ここにいない母さんも、おそらく同じような仕打ちを受けていると思われた。
理不尽。そんな言葉一つで片づけられるような辛さではない。それなのに、どうしてそんな笑顔を作ることができるのだろうか。
「さあ、出発っ」
夕奈のわざとらしいほどに明るい掛け声が、かえって痛ましく聞こえた。
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