カルピス
「うわー、この景色懐かしい!」
車を走らせると、助手席にいる七海が歓喜の声を上げながら外の景色を眺める。
「ここにくる前、七海はどこに住んでいたんだ?」
「大阪! その前は福岡とか埼玉とかにも住んでいたよ」
沙苗さんが忙しく転勤が多いせいか、頻繁に暮らす場所を変えていたようだ。
年齢がもう少し上で男の子あったならば、一人暮らしするという手段もあるが、女の子だし小学生である七海はそうはいかないもんな。
「ところで、兄ちゃんはどうしてここにいるの? 会社の夏休み?」
そんなことを思っていると、不意に七海が振り返って尋ねてくる。
「んー、沙苗さんとか俺の母さんから聞いてない?」
「聞いてない。ただ忠宏兄ちゃんがいるっては聞いた」
おずおずと尋ねると、七海はふるふると首を振った。
どうやら本当に聞いていないらしい。
礼司に打ち明けて吹っ切れたつもりではあったが、こうも純粋な瞳をした子供に無職と伝えるのは心苦しいものがあるな。
とはいえ、一緒に暮らすのだし騙すのもカッコ悪い。
礼司に言われて言葉を思い出して、あくまで軽く告げる。
「なんでここにいるかと言うとだな」
「言うと?」
「会社を辞めたからだ」
「ええっ! じゃあ、忠宏兄ちゃん無職!?」
七海のような子供に無職と言われると不思議と心が痛くなるな。
だけど、悲嘆にくれるべきではない。俺はあくまで堂々と告げる。
「無職だな」
「……じゃあ、今何してるの?」
「母さんの家でゆったりと過ごしてる。俺はいっぱい働いたから少し休憩だ」
「ってことは、忠宏兄ちゃんはしばらくここにいるの?」
「おう! しばらくはいるぞ!」
それが一か月か三か月か、あるいは一年なのか自分でも決めていない。
ただ、七海と一緒に長い時間を過ごすことだけは確かだ。
「無職すごい! あたし、忠宏兄ちゃんが仕事辞めてくれて嬉しい! だって、しばらくは一緒にいられるもん!」
キラキラとした瞳を向けながら言うべき台詞ではないが、こう言われてしまっては嬉しくないはずがない。
「嬉しいこと言ってくれるじゃん」
「いひひ、あたしいいこと言ったー?」
「ああ」
無邪気に笑う七海を左手で軽く撫でてやる。
すると七海は猫みたいに目を細めて、気持ち良さそうな顔をした。
「あっ! 駄菓子屋!」
そんな風に車で喋っていると、七海が礼司の駄菓子屋を指さす。
「ははは、まずは家に帰るのが先な。あそこに礼司っていう友達がいるんだけど、覚えてるか? 昔、七海も遊んだことがあるんだが」
「覚えてる! 細い目した黒髪の人だよね?」
試しに礼司のことを言ってみると、何とそちらも覚えていた。
「おお、よく覚えていたな。でも、あいつ今は黒髪じゃないんだぜ? 髪を金色に染めてサングラスまでかけてるんだ」
「ええっ! チャラい!」
「そうだよな。礼司チャラいよな」
十歳の少女の口からチャラいという言葉が出たことに笑ってしまう。
やっぱり、そう思うよな。実際に見ると、もっとチャラく見えるけど。
「……礼司どうしたんだろう? グレちゃったのかな?」
「グレてはいないけど、今度聞いてみるか」
「うん!」
あいつのことだから深い理由hなさそうではあるが、一応俺も気になってはいた。
礼司には妹の綾香ちゃんもいたけど大丈夫だよな? 兄妹揃ってチャラくなっていないよな?
「あっ! 家だ!」
なんてことを心配していると、七海が元気よく指をさして叫んだ。
指の先には我が実家の姿が見える。
家が大きくなっていくにつれてテンションの上がる七海を微笑ましく思いながら、走らせて家の庭に駐車。
すると、七海がシートベルトを外して元気に降りていく。
車のエンジン音を聞きつけたのか玄関から母さんが出てくる。
「あっ! おばさんだ!」
「あらあら、随分と可愛らしくなったわね? 本当に七海ちゃんなの?」
勢いよく走ってきた七海を抱き留める母さん。
その表情と声は、さっきの俺のように驚きが含まれていた。
「うん、七海だよ!」
「本当ね! この元気の良さは昔と変わらないわね。ほら、暑かったでしょうし、おうちに入って」
「うん、お邪魔しまーす!」
母さんがそう促すと、七海は嬉しそうに玄関をくぐる。
俺も車のカギをしめて、玄関に入ろうとすると母さんから声がかかる。
「忠宏、沙苗は?」
「来てないよ。どうやら仕事が早まったらしくて、新幹線のある駅までしか見送れなかったみたい」
「ええっ? それじゃあ、七海ちゃん新幹線に乗って一人で来たってこと!?」
「そうみたい。本人は慣れてる感じで気にしてないみたいだったけど……」
「あのバカ! 道理でメールが曖昧な訳よ。昔から都合の悪い時はこう。後で電話で説教だわ。十歳の子供を一人でこさせるなんて。それにしばらく会えないっていうのに」
俺がそう伝えると、母さんは怒った顔でスマホを操作し始める。
早速妹である沙苗さんを電話で叱りつけるつもりなのだろう。
俺は怒りが飛び火することを恐れて、さっさと家の中に入る。
廊下を進むと七海は既にリビングに入っているようだ。
中を覗いてみると、背負っていたリュックを畳みに置いて寝転がっている。
「畳の匂いが懐かしい。ここに来たって感じがする」
どこかリラックスした表情で呟く七海を見て、俺は笑う。
俺も帰ってきた初日に、荷物を放り出して同じように寝転がったっけ。やっていることが同じだな。
「麦茶飲むか?」
「飲む!」
七海のリクエストに応えて、俺は麦茶を取り出してやる。
コップには氷も入れてやり、冷たい麦茶を注ぐ。
俺が麦茶を持っていくと、七海は元気よく起き上がってコップを手に取った。
こくこくと喉を鳴らして、麦茶が一気になくなる。
どうやら結構喉が渇いていたようだ。
俺が麦茶ポットを持つと、七海が嬉しそうにコップを突き出してくる。
そして、再び麦茶を注いでやり、七海が半分まで飲むとようやく落ち着いた。
七海が美味しそうに麦茶を飲むので、俺も無性に飲みたくなった。
自分のコップを口つけて、一気に傾ける。
香ばしい麦の風味が一気に広がる。冷蔵庫でキンキンに冷やされているお陰か、火照った身体に染み渡っていくようだ。
「ぷはぁ、夏は冷たい麦茶が美味しいな」
ビールや炭酸飲料もいいが、落ち着いて飲めるのは麦茶だな。
「カルピスも美味しいよ?」
七海に言われて、俺はここで飲んでいたカルピスの味を思い出す。
あの濃くて甘い原液を、冷たい水で好みの味に調節する。
そして爽やかな甘みでスッと喉に通す感覚。
「むっ、それも悪くないな」
想像してみると思った以上に美味しそうで飲みたくなってきた。
試しに冷蔵庫の中を探してみたが、残念ながらそう都合よくなかった。
「残念ながらカルピスはないみたいだ」
「そっかー。麦茶も美味しいし別にいいよ」
俺がそう言うと、七海は特に気にした風もなく麦茶をちびちびと飲む。
しかし、突然カルピスを勧めてきた事からカルピスが大好きなのだろう。それくらいは俺でもわかる。
できれば七海のために用意してあげたい……というか、自分がカルピスの気分になってしまってカルピスしか飲みたくない。
「どっかねえのかな?」
「冷蔵庫漁って、何か探してるの?」
再び冷蔵庫を探していると、母さんがリビングに入ってきて尋ねてきた。
「いや、カルピスとかなかったかなーって」
「カルピス? また急ね」
「さすがにないよねー」
「……いえ、確か下の収納棚に置いてあった気がするわ」
さすがに諦めかけた俺であるが、母さんがそのような事を言い出した。
試しに下の収納棚を確認してみると、積み上がった鍋の端にひっそりとカルピスが置かれていた。
「お! あった! しかも、瓶のやつ!」
ペットボトルではなく、自分で甘さを調節するタイプのものだ。
「えっ! 本当!?」
俺がカルピスの瓶を掲げると、七海が嬉しそうな声を上げてやってくる。
「なんだー? 別に七海は麦茶でよかったんじゃないのか?」
「そ、そんなこと言ってないもん! 忠宏兄ちゃんの意地悪!」
からかうように言うと、七海が頬を膨らませながら拗ねる。
よっぽどカルピスが好きとみた。これ以上からかうと本当に怒られそうなので、このくらいにしておこう。
「悪い悪い。それじゃあ、カルピス飲むか!」
「うん!」
「私もお願いね」
俺と七海が頷き合っていると、さり気なく母さんも自分のコップを差し出した。
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