実家暮らし


 窓から差し込む光で、俺の意識はまどろみの中から引き上げられる。

 瞼を擦りながら傍に置いている目覚まし時計を見ると、時刻は九時半。

 それを見た瞬間、俺の中の意識が瞬時に覚醒する。


「うわっ! もうこんな時間! 会社行かないと!」

「なに寝ぼけてるの。会社ならもう辞めたでしょ?」


 焦った声を上げながら立ち上がると、廊下から母さんらしき呆れた声が響いてくる。

 周囲を見渡すと幼少の頃から過ごし慣れた和室に布団があり、東京から送った段ボールがいくつか摘まれている。壁際には本棚があり、古いゲームソフトや、漫画が収納されている。

 そう、ここは東京にある狭い賃貸部屋ではなく、田舎にある俺の実家の部屋だ。


「……そうだった。会社辞めて実家に帰ったんだった」


 会社を辞めたという実感があまりないせいか、つい焦ってしまった。

 というより社畜魂が染みついていたというのかな?

 一人そんなことを考えていると、母さんが部屋の扉を開けて入ってくる。


「今日天気いいから布団干したいんだけど?」

「ああ、うん。わかった」


 俺が急いで布団の上から退くと、母さんがあっという間に布団を抱えてしまう。


「なにボーっとしてるの?」


 誰かが目の前で家事をやってくれるという光景が久し振りだったからな。ついマジマジと眺めてしまった。


「手伝おうか?」 

「なに言ってるのよ。このくらい一人でやった方が早いわ。それよりも朝食、リビングに置いてあるから食べちゃいなさい」

「……わかった」


 俺は布団を抱える母さんの後ろをついていくように部屋を出て、階段を下って一階のリビングに入る。

 リビングの丸テーブルの上を見ると、ご飯、味噌汁、鮭の塩焼き、卵焼き、肉じゃが、ほうれん草の煮浸し、切り干し大根が並んでいた。

 朝起きるだけで美味しそうな朝ご飯が、食卓に並んでいるという現実に感激しそうだ。

 とても一人暮らし時代では到底できないメニュー。

 一人の時は食パンとハムとか、コンビニのおにぎりとか、胃が固形物を受け付けない時は、ゼリーだけとか酷いものだったよな。

 それが朝からこんなに豪勢に食べられるなんて。

 料理を眺めているとお腹が空腹を訴えてきたので、俺は席に座る。


「いただきます」


 食材や作ってくれた母さんに感謝して、俺は箸を手に取った。






「ごちそう様」


 朝食を食べ終わった俺は、空いた皿を流し台に置いて水に浸す。

 すると、ちょうど母さんがリビングに入って来た。


「朝ご飯食べ終わった?」

「うん、美味しかったよ。ありがとう」


 俺が素直にそう言うと、母さん驚いた表情をする。


「忠宏が朝からそんな言葉言うから驚いたわ。もしかして、一人暮らしして私がどれだけ偉大かわかっちゃった?」

「……まあ、東京では全部一人でやらないといけなかったから、嫌でもわかるよ」


 働きながら家事をこなすことが大変か身に染みてわかる。ましてや家族全員分のものを毎日のようにぬかりなくこなしていた母さんは偉大だ。


「ふふん、それがわかっただけでも十分に行った価値はあったわね」


 俺は母さんの生暖かい視線から逃れるように、話題を逸らす。


「父さんは?」

「畑よ」


 安国家は農家であり、米やら野菜やらを育てている。

 俺も昔から手伝わされていたし、ここは俺も手伝うべきか?


「別に手伝わなくても大丈夫よ。まだ収穫時期でもないし。久し振りに実家に帰ってきたんだからゆっくりしときなさい」


 そんな俺の心境を見抜いたのか、母さんが諭すように言いながらスポンジを手に取った。

 食器洗いくらいはしようと思ったのだが、今日の母さんは俺に何もさせないつもりだな。

 何となくその事を理解した俺は、母さんの優しさに甘えてリビングで寝転んだ。

なんとも言えない畳の匂いと、クッションがとても懐かしい。

 窓から涼しい風が入り込んでくるので、暑い気温の割にそれ程息暮らしを感じない。

 不規則に鳴る風鈴の音が、とても涼やかな気分にさせてくれた。

 さて、記念すべき休活初日であるが、何をしようか?

 このまま風の涼しさと風鈴の音色を聞きながら二度寝も悪くないが、十時間以上眠ったせいですっかりと目を冴えているな。

 それにこれ以上寝ても、夜に眠ることができなくなりそうだし。

 かといって、ここでは基本的に母さんが家事をやってくれるので、やるべきこともない。

 だったら、自分の好きなことをするべきだろう。

 さて、何をしようかな。

 ………………。

 …………。


「あれ? 俺ってば前まで休みの日に何をしていたっけ?」


 自分の好きなことをしようと思っても、何をしたらいいかわからない。それに昔に何をして過ごしていたかも思い出せないくらい。

 思い出せ俺、社会人の時は、月曜日から土曜日まで働いて、日曜日は家事や残った仕事をして、余った時間は月曜に備えて睡眠に当てていて……。


「もしかして、俺なにもしていない? 社畜時代の弊害がここまで浸食していたとは……!」

「何もすることないなら先に荷解きしちゃいなさい」


 過去の自分に恐れ戦いていると、台所から母さんのそんな投げやりな言葉がとんできた。

 む、確かにそうだな。ここには段ボールでいくつもの荷物を届けているし、昨日持って帰ったスーツケースやリュックの中身すら空けていない。

 まずは自分の生活を整えるために、荷物の整理をするべきであろう。

 やるべき事を見つけた俺は、立ち上がって自分の部屋へと向かう。

 部屋の中は布団やタオルケット、枕などが根こそぎ干されているために、どこか広々と感じる。

 積み上がった段ボールを開封して、整理するなら今のうちだな。

 俺は腰を下ろして、近くにある段ボールを開封する。


「おっ、漫画だ!」


 一個目の段ボールには社会人になって買ったが、一度も読むことなく積み本となった漫画が入っていた。

 社会人になると、漫画ですら読むのが億劫になるんだよなぁ。小説なんてもっての他だ。

 ちょっとした楽しみなんて惰性で流していたアニメくらいだっけ? でも、それも途中で見逃してからは見なくなったような気がする。

 しかし、今なら追いかける気力も時間もあるな。


「ちょっとだけ読んでみよう……」


 そんな軽い気持ちで漫画を手に取る。大学の頃から大好きな長期連載バトル漫画だ。

 俺が追いかけていたところはどこまでだっけな……。





 本の世界に意識を没入させていると、不意に階下から電話の鳴る音がした。

 それにより俺の意識が現実へと帰ってくる。

 壁にかけられた時計を見ると、もう十四時半だ。

 十時にはこの部屋に入ってきたから、もう軽く四時間半は漫画を読んでいるではないか。

 辺りを見渡してみると、部屋の中は変わらず読み終わった漫画だけが積み上げられている。

 荷物の整理をしようとしたが、漫画を読んでいただけで何も進んではいない。

 その事実に愕然としたが、階下から未だに電話の音が響いているのに気づいて仕方なく階段を下りる。


 すると、ちょうど外にいた母さんが駆け込むようにリビングに入って、電話を取ってしまった。

 せっかく、俺が出ようとしたけど無駄だったようだな。

 このまま引き返すのもつまらないし、喉が渇いていたので、俺は麦茶を用意するためにそのままリビングに入ることにする。


「あら、沙苗じゃない。久し振りねー!」


 電話で嬉しそうな声を出す母さんの前を通り過ぎて、冷蔵庫へ。

 沙苗さん、母さんの妹に当たる叔母だ。

 世界を飛び回るほどのバリバリのキャリアウーマン故に、滅多に顔を合わせることのない人だ。

 記憶に残っていたのは大学生の頃に、娘である七海を連れて顔を見せにきた時だろうか?

 忙しい人なのに電話なんてしてきてどうしたのだろうか? また夏に帰ってくるとかだろうか?


「え、えー? 別にいいけど、母親なんだしどうにかして一緒にいてあげられないの?」


 しかし、母さんの声音は次第に困惑したものとなり、何だかきな臭い言葉が出ている。

 大丈夫なのだろうか? 心配しながら冷蔵庫に入っている麦茶を取り出して、コップに注ぐ。


「そうなの? わかったわ。それじゃあうちでしばらく預かるわ。今はしばらく忠宏もいるから寂しくならないと思うし」


 預かる? 俺がいるから寂しくない? 

 状況からして、もしかして、しばらく叔母さんの娘の七海を預かることになったのか?

 戸惑いを麦茶で飲み下しながら待っていると、五分程で電話は終わった。


「もしかして、従妹の七海を預かることになったの?」

「ええ、沙苗がしばらくの間、海外で暮らすことになってね。そこに七海を連れていくのは難しいから、しばらくの間預かってほしいって」


 海外によく出張に行く人だとは知っていたが、遂に暮らすことになるとは。


「一緒に海外で住むって、ならなかったの?」

「七海ちゃんが、どうしても日本に住みたいって。まあ、十歳の子供に、いきなり海外で二人暮らしっていうのも難しいものね。せめて、旦那さんがいれば良かったんだけど……」


 沙苗さんは旦那さんと離婚している。そのせいか七海は母子家庭だ。

 母親が忙しくて滅多に面倒を見られない中、海外での生活は難しいだろう。

 だったら、姉である母さんのところに一時的に預けて、面倒を見てもらう方がいいってのも一つの選択肢なのだろう。

 それが本当にいいことなのかは、俺には判断がつかないが。


「ということで、一週間後に七海ちゃんがくるから面倒見てあげてね」

「はーい」


 七海か。前に会った時は、五歳だったけど彼女は俺のことを覚えているのだろうか?

 無邪気な少女だったことは覚えているけど、顔とかは少しおぼろげだな。 

 というかもう、五年も経っているのだし、過去の記憶もあんまりあてにならない気がするけどな。子供の成長は早いもんだし。


「ところで昼ご飯は?」

「冷蔵庫の中に朝の残りがあるわよ。何度も呼んだのに生返事しかしないで。漫画読むんだから」

「あはは、ごめん」

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