第二章:里は燃えて

「キャッキャッ」

 おぶわれた赤ん坊は小さな手に握っていた風車を地面に投げ落とす。

「あっ」

 たちまちひしゃげた玩具を目にすると、赤子を背負う九歳の太吉たきちは桑の実を採る手を止めて顔を曇らせた。

「これ、元は俺のなのに」

 潰れた風車を拾い上げてぼやく。

「ウフフフフ」

 背中の赤ん坊は小さな手足を振って笑い続ける。

新吉しんきちは何でも壊しちまう」

 用を成さない玩具を、しかし、捨て去ることはしかねて小籠に入れる。

 籠の桑の実はまだ疎らで、壊れた風車を埋めるには足りない。

「じゃ、行ってきます」

 行李を背負った十五歳のおゆきは川で洗濯している母親に声を掛ける。

「気い付けるだぞ」

 老け込んだ代わりに穏やかになった母親はすらりと背の伸びた娘の後ろ姿に微笑む。

「お父と何度も往き来した道だから大丈夫」

 母娘の見返す視線にふと潤んだものが交じる。

「姉ちゃん」

 太吉はおゆきを呼び止めるとひしゃげた風車を示す。

「町で新しいおもちゃあったら買ってきて」

 九歳の小さな肩には背負った赤子が早くもうつらうつらと半ば目を閉じつつ寄りかかっている。

「新吉、おもちゃがねえと俺の髪引っ張ったりしてうっつぁしいんだ」

 口調は一人前の大人を真似ているが、壊れた玩具を眺める目は寂しかった。

「分かった」

 おゆきは姉というよりむしろ若い母親のように日焼けた顔を微笑ませて頷いた。

「姉ちゃん、傘と草履売り終わったら、もっといいおもちゃ買ってくる」

「ほんと?」

 弟の目がパッと輝いた。

「だから、頑張って子守りと木の実取りしな」

「うん」

 すっかり寝入った末の弟をおぶった太吉は頷く。

 また、桑の実を採り出した弟を尻目におゆきは山道を下り出した。

 と、その足が止まる。

「太吉」

「なに、姉ちゃん」

 桑の実を口に入れた弟はぎくりとした風に振り向いた。

「上の方に行っちゃ駄目だからね」

 姉は口の周りに赤黒く汁の着いた弟に苦笑いする。

「この山の上には神様が住んでるんだから」

「分かった」

 弟は慌ただしく口を拭う。

 背中の赤ん坊の安らかな寝顔がそれに合わせて揺れる。

 おゆきは今は亡き父親の形見となった行李を背負い直すと今度は足を速めて緑の蔭差す山道を降り始めた。


 *****

「ねんねんころりよ おころりよ」

 日の赤く暮れ始めた夏の山道を行李を背負った娘が戻っていく。

 片手には真新しい二段作りの風車を持っていた。

「坊やはよい子だ ねんねしな」

 おゆきがふっと息を吹き掛けると、大きな藍色の風車とその上の小さな朱色の風車が幽かな音を立てながら回る。

 その様を眺める小さな面には母親じみた微笑が漂った。

 荒れた手の指先で二輪の風車をそっと撫でて歩みを進めていく。

「坊やのお守りはどこへ行った」

 行く手では夕日が赤々と燃えながら向こうの山の稜線に沈んでいく。

 おゆきは風車越しにその眩しい光に見入った。

 茜色の丸い炎は黒い影と化した山の背後に隠れて消えていく。

「あの山越えて 里へ行った」

 と、黒い山の線の内側にぽつりと新たに橙色の光が点る。

 おゆきは覚えず目を丸くした。

 視野の中で橙色の光は揺れながら大きくなっていく。

 黒い煙の尾を引きながら。

「火!」

 か細い肩をびくりと震わせると、娘はまるで燃え広がる炎に飛び込むように山道を駆け出した。

「お母、太吉、新吉……」

 まるで呪文のように呟きながら日暮れの山道を駆ける。

 カラカラカラカラ……。

 片手に握った二段の風車が乾いた音を立てて回る。

「太吉、新吉……」

 小さな朱色の車輪と大きな藍色の車輪が奥の景色を透かしながら兄弟の生き物のように回転する。

 煙たい臭いが鼻と喉の奥に入ってきたが、おゆきの足は立ち止まれない。

 桑と山桃の木が青々とした葉を揺らす、いつもの道に差し掛かった。

 赤々とした火と黒い煙がもうすぐそこまで来ている。

 その向こうから複数の叫び声も聞こえた。

 いや、うちはまだ燃えていない。

 暗い入り口の奥から人影が出てきた。

 不意におゆきの足が止まる。

「お母!」

 叫んだのは、泣きわめく赤ん坊の弟を背負った太吉だった。

 見知らぬ男たちから先に引き摺られるようにして出てきた母親の、衣の裂けてはだけた胸に小さな手を伸ばす。

 虚ろに目を開き口の端から血を流している顔つきで、お母は既に事切れていると知れた。

「お母!」

 弟たちの背後から新たに出てきた男の一人が槍でおぶわれて泣き声を放っている新吉を突く。

 赤子の泣きわめく声は一瞬で嘘のように止まった。

 刺した男が鮮やかな赤に染まった槍の刃を引き抜くと、その弾みで弟をおぶった幼い兄の薄い体も仰向けに倒れる。

「お母……」

 小さな手を虚空に伸ばした太吉の首を既に血にまみれた槍の刃が切り付けた。

 か細い両腕はぱたりと倒れる。

 何も掴まぬ小さな掌を半ば開いたまま。

 おゆきは目を見開いたまま、その場に凍り付いていた。

 三人の亡骸を前にした男たちに他の家からそれぞれ家財を手にして出てきたまた別な男たちが合流する。

「これで全部か?」

「実入りの少ねえ村だな」

 焦げ付くような煙の漂う中で手を赤黒く汚した山賊の男たちは嘯き合う。

 つとその内の一人が桑や山桃の木々の並ぶ山道に目を向けた。

「まだいたぞ」

 髭面の目が光ってぞっとするような笑いが浮かんだ。

 男たちが一斉に目を向けた。

「娘っ子だ」

「俺が先に見つけたんだぞ」

 おゆきは火が点いたように再び駆け出した。

 今度は緑の暗く生い茂る山の上に向かって。

 桑や山桃の木々の並ぶ、どこか甘酸っぱい果実の匂いの漂う山道をおゆきはひたすら駆け上る。

 火を目にして走ってきた草履は既に破れかけていたが、そんな足元を確かめる余裕すらない。

「あはははははは」

 背後から響いてくる複数の笑い声は遠くからのこだまなのか、すぐ迫っているのか、振り向くことすら恐ろしい。

 磨り減った草履の足裏にゴツゴツした石が当たる気配が始まった。

 ガシャン、ガシャン。

 一歩ごとに視界が揺れ、町で買った鎌や鍬が背中の行李から転げ落ちて石にぶつかる音が背後に響いた。

 背が軽くなると同時に武器に出来る物を持っていたのにみすみす落としてしまったと震えが走る。

 ザワザワと夜の迫る木立を風が吹き抜けた。

「あはははははは」

 木々のざわめきに混じって男たちの笑い声が数を増して鳴り響いてくる。

「そっち行くと化け物に喰われるぞぉ」

 さっきの髭面らしい声が耳を刺した。

 しかし、おゆきは足を止めることは出来ない。

 ここはもう青女峰の中だ。

 女神様の住む山だ。

 入ればバチが当たるとお父もお母も言っていた。

 でも、逃げなければどっちみちあいつらに取っ捕まって嬲り殺される。

 どうせ死ぬなら一刻でも長く生きられる方がいい。

 いつの間にか両方とも裸になった足に山道の石がぶつかるというより半ば刺すように当たってくる。

 一歩ごとに血が流れ、激痛が走るが、だからこそ、立ち止まることが叶わない。

 鬱蒼とした木々の並んでいた視界がパッと開けて満天の星空が頭上に広がった。

 おゆきの足が止まる。

 もう、山賊たちの追ってくる気配はない。

 そう思った瞬間、膝から力が抜けてがくりと岩場に倒れた。

 まだ、青女峰の頂上には遠いはずだが、それでももう吸い込む空気が薄い。

 剥き出しの手足を浸す夜気も、村なら秋の終わりに当たる冷え込みだ。

 このままここで寝入るのは危ないと察しつつ、起き上がるだけの力はもう湧いてこない。

 岩と岩の間にうっすらと雪を乗せたような花々が仄白く咲いているのが目に入った。

 それとも、岩間にひっそり解け残った雪の欠片なのだろうか。

 ふと、すべらかな絹じみた感触が鼻先を過ぎる。

 おゆきが見上げると、純白の衣を纏った、長く垂らした髪もまた雪白に輝いた、しかし、滑らかな面差しはまだ若い女が岩場の上に立っていた。

 いや、端麗な顔立ちが女に見えるだけで、広い肩からすると男だろうか。

 とにかく冷たく蒼い、雪の影そのもののような目がこちらを見下ろしていた。

 おゆきの意識はそこで途絶えた。

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