7.見付けたよ
人間には気が遠くなるような、昔むかしの出来事だった。
巫女エルーレが、その役目を与えられる前……。
まだ幼い少女だった頃、彼女の故郷にある男が滞在していた。
「綺麗なお花がたくさん咲いているでしょう? 今の季節はね、毎年この丘が真っ白な花でいっぱいになるのよ」
満足そうに、うっとりと花畑を眺めるエルーレ。
「まるでキミの美しい髪のように、全く穢れの無い白だね」
その男の名は、カルサノーラ・ルーク・フェルマリエ・エリオール。
代々続く、優秀な魔法使いの家系の若き当主である。
カルサノーラは、自分の腰程の背丈しかない少女に目線を合わせ、穏やかに微笑んだ。
彼がエルーレと出会って、まだほんの数週間。地方の小さな町を訪れていたカルサノーラと、町の宿屋の娘として関わりを持ったエルーレの二人が、確かな絆を育んでいたのは間違い無かった。
だからこそ少女は、男をこの丘へと連れて来たのだから。
「ねえ、ルークお兄さん。どうして私がお兄さんをここへ連れて来たのか、分かる?」
「うーん、そうだなぁ……」
カルサノーラにはその問いの答えが分かっていた。
分かっていたから、回答するのが躊躇われた。
この温かな時間を壊してしまう言葉を、自ら口にしても良いものなのか。
いつまで経っても悩んだままで返答しない男に、少女は頬を膨らませる。
「鈍い人ですね……本当に分からないんですか?」
「……そうだなぁ」
分からなければ、どれだけ良かったのだろう。
しかし、知らないままではきっと後悔した。
「……ここは私のお気に入りの、とっておきの場所なんですよ。とても落ち着ける場所で、心が穏やかになるでしょう? こんな綺麗な景色が見られるのはきっと、世界でここだけだと思うんです」
花を潰さないようにして、エルーレは仰向けに寝転がる。
カルサノーラもそれにならって隣に並び、彼女の瞳に映るのと同じ、果てのない空の青に目を細めた。
「知って……いますよね。私は明日、この町を出ます」
町の誰もが口にしていたのだから、嫌でも耳に入ってしまう。
彼にその話を黙っていたのは、宿屋の夫婦と娘のエルーレだけだった。嬉しい話題でもあるけれど、それはせっかく仲良くなったカルサノーラとの突然の別れを意味する。
だから、エルーレ達は一言も告げてはいなかったのだ。今の今まで、彼女から進んで口に出すまでは……
カルサノーラは悲しげに眉を下げ、しかし無言で少女の言葉の続きを待つ。
「ここからずっと向こうにある、孤島の神殿。その神殿に居る巫女様が、女神様からのお告げで私を呼び寄せているんです。私を、次の巫女に育てる為に。だから私は……最後にここに来たかったんです。お兄さんと、一緒に……」
不安が入り混じる小さな声は、少しだけ震えていた。
そんな少女を僅かにでも安心させられるようにと、男はそっと彼女の手を手繰り寄せ、優しく握ってやった。
「……最後にこの場所に来る相手が、本当にボクで良かったの? ボクはただの旅人だ。偶然キミの家の宿屋に泊まって、ちょっと仲良くなっただけの他人なのにさ」
心と行動とは裏腹に、言葉は変に歪んで伝えてしまう。
けれども少女には理解出来ていた。彼がそういう面倒な男であるという事を、幼いながらも感じていたのだ。
その証拠に、彼女の口元は弧を描いていた。
「ただの他人なのだとしたら、私のお気に入りの場所になんて案内していませんよ。貴方が特別な人だから、一緒に来たかったんです。優しくて面白くて、素直じゃないお兄さんだから──」
「──そういうのはもっと大きくなってから言ってよね。それも、ボクみたいなろくでもないヤツにじゃなく、ちゃんとした真面目な男に……さ」
これは、少女の初恋だったのかもしれない。
そして男にとっても、初めて抱いた感情だったのだろう。
「……もっと、一緒に居たかったです」
巫女は決してその身を穢してはならない。
誰とも交わらず、誰にもその想いを告げてはならない。
けれど、巫女となる前の今ならば──それはまだ禁じられてはいないのに。
「でも、でも……っ、私がならなきゃいけないから……」
我慢強いはずの彼女から、涙混じりの声が溢れ出た。
「本当はっ……素敵な大人になって、大切な人と……一緒に暮らしてみたかった……!」
留めきれなくなった器の中身が、少女の夢と一緒に眼から流れ落ちていく。
強いように見えて脆く、滅多にわがままを言わない彼女から本音が漏れる。
こんな姿を、彼以外の誰にも見せられなかった。
この町の人間は彼女の未来に期待しており、両親もそれらの重圧に逆らえず娘を明け渡してしまった。何十年かに一度しか現れない巫女の素質を持ったエルーレは、もしかしたら世界を救うかもしれない存在なのだから。
「……それが、キミの夢なんだね」
嗚咽混じりに泣き出した小さな身体を、カルサノーラは抱き締めた。
エリューナの花の香りと彼の香りに包まれた途端、エルーレはその腕の中で大声をあげて泣いた。泣いて泣いて、大泣きした。
この町と関わりの無い彼にだから告げられた本音だという事に、カルサノーラは確かな充足感があった。
他の誰でもない、自分しか知らない白の少女。
この世界で彼女に最も頼りにされた者は、彼しか居ないのだ。
「いつか絶対に叶えてあげるよ。魔王を滅ぼして、キミがただの少女に戻れるその時を……ボクが必ず……」
──そんな日が来たら、キミはボクを選んでくれるのかな。
「ただのお兄さん代わりじゃなく、一人の男として約束するよ」
少女に恋をした男は、滅ぼすべき魔王と同じ魔族であった。
しかし、その男はこの日に誓ったのだ。
少女に仇なす者は、例え仕えるべき魔王であろうとも敵とみなす、と。
それは魔族にあるまじき行為であり、その事実が知られればどうなるか……けれどもカルサノーラは、魔王に敗れた時の事など微塵も考えてはいなかった。
ただ目の前の少女に幸福をもたらす為に、己に出来る事は何なのかを模索する。
あわよくば、自分にも僅かばかりの幸が転がり込めば上等だ。それ以上を求めるよりも、まずは彼女の事が最優先事項なのだから。
こうして魔族のカルサノーラは、光の道を行く少女と共に、反逆の吸血鬼として生きる覚悟を決めたのだった。
******
泥沼に沈められたような眠りから、引きずり出されるように覚醒した。
頭がぼんやりとするけれど、それでも自分が泣いていたのだというのは、すぐに分かった。
誰かの暖かな膝の上で、私は眠りに就いていたようだ。
「目が覚めたか。何か恐ろしい夢でも見ていたのか?」
眠った私を見守っていたのは、ウォルグだった。
彼の膝に頭を乗せ、仰向けに寝かされていた。
「……知らない男性と、お別れをする少女の夢を見ていました。それが何故だか、自分の事のように悲しくて……」
語っているうちに、今の状況が何やらおかしな事になっていると気が付いた。
まずは、ウォルグさんの眼の色だ。エルフの血で緑色になっていた彼の眼は、普段通りの深い青に戻っている。ひとまず、彼の血の暴走は治ったのだろう。
ゆっくりと起き上がり辺りを見回すと、何かを囲んでいる騎士達の姿を見付けた。
「ウォルグさん、それよりあの男はどうなりましたの? 姿が見えないようですけれど……」
「あいつはルークや騎士達と共に退けた。あれが逃げてからすぐに霧が晴れたが……どさくさに紛れて、副団長を連れ去っていった」
「か、カナリアさんが!?」
「お前の奪還にばかり気を取られていた、俺達の落ち度だ。すぐに東の団長達も駆け付けたんだが、あの速さでは追い付くのは困難だ。魔力の痕跡を分析して追うにも時間が掛かる。ルークの話では命を取られはしないだろうとの事だったが……」
あの失礼な金髪ロン毛に、カナリアさんが攫われてしまった。
私がすぐに防御魔法なりを使っていれば、こうはならなかったかもしれない。顔が整っているからと、無意識に油断でもしていたのだろうか。
あれが団長のような強面の大男だったら、触れられた瞬間に迷わず炎魔法をぶちかましていたのに。もっと危機意識を持たなければ、私!
「それで、ルークの事なんだが……今、あそこで治療を施している」
「お怪我をなさっているのですか……?」
「外傷自体は大したものではない。問題なのは、魔力の消耗による衰弱だ」
それを聞いて、私は居ても立ってもいられず立ち上がった。
「ルークさんはどちらに!?」
「そこの騎士達に治療されてはいるが、持ってきたポーションでは焼け石に水だ。専門の魔術師でもなければ完治は難しいだろう。普通のエルフならばまだしも、ハーフエルフの俺には手に負えない。何十人もが交代で魔力を供給して対応しているが、あいつの容体に大きな変化は見られない」
では、あそこで囲まれているのがルークさんで間違い無いのだろう。
私は急いで彼の元へ走り、騎士達の間を縫って中心へと辿り着く。
「ルークさん……!」
気を失った彼の顔色は、死人のように真っ白で呼吸も浅い。
魔力が枯渇しかけた者はこうなるのだと聞かされてはいたけれど、こんなに酷い状態になるだなんて……!
そこまで無理をさせて戦わせてしまったのね……私の為に、死と隣り合わせになってまで。
「すみませんルークさん……。私なんかの魔力では、どうにもならないと分かってはいるのですが……それでも、せめて受け取って下さいませ」
他の騎士達と同じように、私も彼に向けて両手をかざし、彼に魔力を送り込む。
他人の魔力を注いだところで、本人の魔力として変換されるのはごく僅か。
送り続けた側まで魔力不足で倒れてしまっては意味が無い。だから彼らは交代で魔力を送っていたのだ。
──私の魔力が注がれ始めて数分、変化が起こった。
「おい、生徒さんの身体、光ってないか?」
そんな声が聞こえて、私は自分の身体を見回す。
「ほんとだ、白く光ってるぞ!」
「何の魔法だ?」
「今度はそっちの男の子まで光り出してるぞ!?」
「おい見てみろよ! 何だか分からんが、坊主の顔色が良くなってきたぞ!」
見る見るうちに私とルークさんは明るい光のベールに包まれて、彼らの言う通りルークさんの状態は格段に良くなってきているようだった。
特別な魔法なんて掛けてもいないのに、どうして……?
「……この光、懐かしいなぁ」
か細い声だったが、私の耳に確かに届いた。
ルークさんの声だ。間違い無い。彼が意識を取り戻したのだ。
「ルークさん! すぐに良くなりますから……もう少しだけ待っていて下さい!」
私は彼に呼び掛けながら、更に魔力を送り続けていく。
ルークさんは薄っすらと目を開けて、切なげに眉をひそめて空を見上げていた。
まるで……夢に出て来た、あの男性のように。
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