1話「喫茶と私①」
「ありがとうございましたー」
肩にかからないくらいまで伸ばした青色の癖毛、重く眠たそうなまぶた、そして平均的な体格に少し猫背なライン。
「また来ます、じゃあ」
明るい茶のショートボブをした、付近にある中学校の制服を着た彼女は常連客だ。私も三カ月前まではこのセーラー服に腕を通していたので、一応私の後輩ということになる。まあ名前も知らないのだが。いつもコーヒーとココアを混ぜた飲み物、カフェモカを飲みながら、窓際の席でノートパソコンを触っているのを見かける。
爽やかな木の色をした店内。窓からは西に傾き始めた太陽が差す。小さなテーブル席が二つと四人がけ一つ、オレンジ色を反射して私の網膜にしみ込む。
入口の正面奥にはカウンターがありテーブル席とは別に、背の高い椅子が六つ行儀よく並んでいる。棚には真っ白のコーヒーカップ、コーヒーミル、ビンに入った豆などが、美術館の展示品みたく奇麗に飾られている。
フロアには鮮やかなジュークボックスがあり、その近くの壁にはギターやベース、レコードや古いポスターなどが掛けられている。この場所だけ切り抜けば純喫茶には見えず、その風貌は欧米のバーなんかに近いだろう。母は音楽家であり、その提案によってこのようなレイアウトになったと父からは聞いている。
店内に置かれたスピーカーから流れるジャズの旋律が、雨が落ちた水たまりの波紋みたいに優しく空気を揺らす。
母は海外出張中だ。とあるアーティストの全米ライブツアー、そのベースのヘルプとして加入してしばらくアメリカから帰ってこない。ある程度は凄い人である。
「ふう、一休みっと。」
腰ほどの高さがあるカウンター席の一つによじ登るように座り、脱力した様子で頬杖をつく。
「あと一時間だぞ咲耶、掃除でもしてろ」
カウンターの向こう側にいる無精髭をたくわえた四十代の男から、ノートに何かを書き込みながら低い声で注意を受けた。
私の父親だ。黒の短髪にモノクロで決めたネクタイとエプロン。私が言うのもなんだが渋いバーのマスターのような見てくれである。
ここは父が経営する喫茶店「アオヤマコーヒー」だ。詳しい収入は知らないが私と兄を食べさせていける程には儲かっているらしく、地元では名の知れた喫茶店だとかいう話をどこかで聞いた事がある。
口をとがらせ、渋々椅子から降りた。もう日は沈み始め、いつもなら部活動に明け暮れるか部屋で音楽とたわむれている時間。そんな私が、なぜ我が家の一階にある喫茶店で働いているのか、これには理由があった。
――時は今日、火曜日の朝に遡る。
「おはよーす」
朝日が当たらずに冷たい灰色をしたコンクリート製の廊下。私はいつもの様に、階段で四階に上がると教室のドア一直線に歩いて、気の抜けた挨拶をしながらそれを開けた。登校時間が終わる五分前、この時間になるとクラスメイトのほとんどが既に登校を終えている。
「青山さんだ!」
「おはよう青山さん!」
いつもなら入口近くにいる生徒から軽く挨拶を返される位だ。しかし今日は違った。普段はあまり話さない人から鼓膜が大きく振動するほどの声で挨拶をされ、私は反射的に後ずさる。
「ステージ見てたよ! ホント! 凄かったよ青山さん!」
一つ前の土曜日に文化祭、私が所属する軽音楽部のステージがあった。様々なハプニングがあったが、今振り返ってみれば自画自賛したくなるような、完璧な演奏であった。
日曜は当然休日、そして月曜は文化祭の代休だったので、火曜の今日は文化祭が終わって以来初めての登校日だ。先程、校門をくぐっていつも通りの無機質な校舎が目に入った時、文化祭が終わったんだなと改めて感じた。
「あ、ありがとね、わわわ」
慌て惑う私にかまわず五人ほどの束に取り囲まれて移動を始める。教室の様子を必死になって確認すると人の塊が教室前後に別れている。もしかすると片方が夕維と萌佳、そして向こう側は葵と凛なのだろうか。
足が止まる。その片側に合流したのだ。予想通りの二人が、ヒーローインタビューのように取り囲まれて質疑応答を受けている。
「あはは、まぁーね! 才能っていいますか!」
桃色の頭から垂れる小さなツインテールを指でくるくるといじりながら、
「お、ヒーローのお出ましだ! おはよう、さくちゃん!」
「ん、おはよ」
一メートルも離れていない距離から大袈裟に手を振って朝の挨拶をされ、私はヒーローってなんだと指摘しながら目の前にある机を見る。
人だかりの中心、ここは私の机だ。状況が理解できないが、私の席を中心として人だかりができていたのだ。何故か脱力感に襲われながらリュックを机に置き、重力にゆだねて椅子に座った。
「おはよ、さくやちゃん。人気者やなぁ」
彼女は
教室前方のドアが勢いよく開かれた。担任が教室に入ってくるのと同時にチャイムが鳴る。席につけと通る声に反応し、砂糖に群がるアリの様な塊が散り散りになっていく。
朝から口々に褒められ、演奏の感想を言われ、悪くはない。嬉しくないといえば嘘になる。しかし、この疲労感はなんと説明すればいいのか。
「ほんとー! 大変だったね今日ー!」
昼休みのチャイムに慌てて反応し、私は暗殺任務についた忍びのような足取りで教室を抜けた。そして今は中庭の端、目立たない場所にある木製の古いテーブルベンチに腰掛けている。
後から夕維、萌佳と合流して一緒に弁当やらパンやらを広げた。今日は朝からずっと騒がしい。しかしここは花壇や木などに囲まれていて、人気も少ないしとても落ち着く。遠くからは学生がはしゃぐ声が聞こえるが、それは木々や花壇のフィルターを通ってごく小さなボリュームである。
「ユイちゃんは楽しそうやったけどなぁ。ってきたきた、ともちゃんや」
指先の方向に視線をやる。すらっとした長身に背中まで伸ばした金髪。顔にはいつも力が入っていて怖いと評判だが、私は整っていて綺麗だと思う。首元ではシルバーのネックレスが優しい太陽の光を反射しながら揺れている。
「おう、遅くなって悪いな」
「こんちゃ、そんでともみんの方も大変だった?」
彼女を座らせながら私は問いかける。それに大しては疑問符が返ってきた。
「何が、いつも通りだけど」
「あはは、ともちは顔怖いからねー! みんな話しかけれないんだよー」
夕維が腹を抱えて茶化した。悪かったなとそれを睨みながら、少々乱暴になって紙袋からパンと紙パックを取り出す。
そんな朝海を見て、私から笑みがこぼれる。二か月と少し前からか、縁あって見かける度に立ち話をする位の仲だったが、今の彼女は生き生きとした表情である。嬉しいな、と彼女の保護者でもないのにそんな気持ちになったのだ。
「日曜と月曜せっかく休みだったのに、打ち上げ出来なくてごめんねー? バイトのシフト変えれなくてさー」
土曜日にあった文化祭。私たちの中でそれは大成功で幕を閉じた。そして必然的に打ち上げをする話になったのだが、夕維のスケジュールがなかなか合わなかったのだ。
「しゃあないわ、んで今日の放課後やるんやろ? 火曜日やったやんな」
萌佳の上機嫌な言葉に頷く。部長に話をし、今日は部活動も早めに上がらせてもらうことになった。そして、その場所はというと。
「楽しみだよな、サクヤの家。喫茶店なんだろ?」
私の家、その一階にある喫茶店。そこが文化祭打ち上げの開催場所となった。営業時間は朝から夕飯時までなので、閉店後に店を貸してもらうのだ。
経営者である父との交渉、それは二つ返事で終わるものではなかった。
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