9話「記憶と名前と私」
私は
流行やテレビなんかには疎く、趣味や特技を尋ねられてもギターの一言しか返せない。そんな、郊外の女子高校に通う一年生だ。
父は物心がつく前に亡くなった。どんな人だったのか、私のメモリーにそれは記録されていない。それからは母一人で私を育ててくれ、感謝してもしきれないと思っている。
私には幼稚園の時からの幼なじみが二人いる。
小学校卒業当時の事だ。ずっと一緒に居た、一番で唯一の友達だったが、私だけ学区の都合で別の中学校になってしまったのだ。
母には、昔からあまり感情は出さない子だったと言われるが、同じ中学に行けない事を知った時には大泣きしたのを覚えている。
そんな二人と私は、小学六年生の終わり間際にバンドを組んだ。私がギターを、凛がドラムを、咲がベースを始めた。
離れ離れにならないために。中学校は別れても音楽は私たちの架け橋になってくれる。そう思ったからだ。
中学生になっても音楽のお陰かは分からないが、放課後になると二人はいつも私の家に来て練習をしていった。学校では正直言うと寂しく心細かったが、二人のおかげで幾度となく励まされた。
音楽は私にとって、遠く離れてしまっても繋がり続ける橋。
他のものはどうでもよかった。そんなだから、中学生時代は狂ったようにギターの練習に明け暮れたものだ。
だから私のテクニックは他の、楽しく色々な事をやってきたような学生に負けるはずがない。
少し前まで、そう思っていた。
「葵ってば! 咲誘って早く部活行こうよ!」
いつからだろうか、気が抜けていた。
確か……そうだ。今日の授業が終わって、担任が学校の連絡なんかをしていたはず。それは既に終わったのだろうか、私の周りには楽しそうに話す生徒の声と、窓からの鬱陶しい雨音が混ざっている。
顔を上げると幼なじみでバンドメンバーの凛が、目の前で手をひらひらとさせて私をのぞき込んでいた。
「あ、分かった。行こう」
葵まで上の空かよーと気の抜けた声が聞こえる。
五月の雨。ジトジトとしているからか、今日も調子は出ない。
あと一ヶ月もすれば文化祭があるが、それに対して緊張は感じていない。今まで私たちはライブハウスやイベントなど、人前で何度も演奏をしている。なので度胸は鍛えられたし、自信もついた。そのはずだ。
しかし最近になって、漠然と不安な気持ちになる事があるのだ。
「あ、葵ちゃんに凛ちゃん、迎えに来てくれたんだね」
少し湿っぽい色になったコンクリートの廊下。そこは家に帰る人や部活に行く人でごった返している。別クラスの教室から咲と大勢の生徒が一緒に出てきて、すぐこちらに気づいて話しかけてきた。五メートルほど先にいる彼女に私は近づく。
体に衝撃が走った。正面から人にぶつかってしまったらしい。体制を崩して尻から倒れ込み、肩に掛けていたトートバッグが腹の上に落ちる。手のひらとスカートが濡れた感覚がして、一層気分が落ち込む。
「あ、悪い、大丈夫か?」
視界の上から手が差し伸べられた。
咲のクラスには不良番長みたいな金髪ロングさんがいると聞いていたのだが、恐らく私がぶつかったのはその彼女だ。一目で分かるほどガラが悪い。
「大丈夫」
平気だと取り繕い、スカートの砂を払う。すらっとした長身とそれに映える長い金髪、そして派手なシルバーのネックレス。なるほど、咲が言わんとすることは分かる気がした。
大人しい外見の咲とは正反対な彼女は、じゃあ急いでるからと素っ気なく髪をなびかせて人込みの向こうに消えてしまう。
「ち、ちょっと葵ちゃん! 大丈夫?」
別に平気だよ。そう答えたが、咲を見るとあわあわと慌てており、凛も心配そうに様子をうかがってくる。
「ほんっと葵さん、最近ぼーっとしすぎだよ? なんかあった?」
理由は、何となくだが分かっているのだ。
そう、青山咲耶だ。あれに出会ってから私のギターが揺らいだ気がする。私には持っていないものを持っているような。早弾きなんかでは勝っている気がするが、なんというか、テクニック云々の話ではなくて。
あいつのギターには何か惹き込まれるものがある。そのセンスが羨ましく、妬ましい。
「葵ちゃん、もしかして、恋とか?」
「そんな訳ないでしょ」
低い声で即答する。あんな奴、好きなもんか。嫌いだ。
「ほぉーら! 二人ともとっとと歩く!」
凛が力を込めて背中を押してくる。分かったからと言い前のめりになって部室に向かった。
「お疲れ様です」
挨拶をしてドアを開ける。いつものように、こんちゃーと部屋の入口近くに座る先輩達が軽く挨拶を返してくれた。
ギターは登校時に防音室に置いている。そこにはたくさんのギターケースが並んでおり、その中から私の黒い革製のカバーを持ち上げた。そして、まばらに人が座っている音楽室の椅子に荷物を置いて座る。EPS社のM-2ミスティックという名のギター、カラーは迷彩のように波打った深い青。
このギターは二本目。今年の一月に高校の合格祝いとして、今まで貯めていたお金全てで買った。口座からは二十人の諭吉が蒸発した。私くらいの歳が持つにはあまりにも高価だが、音を聞く前にその外見に一目ぼれしてしまったのだ。こればかりは面食いと言われても反論できない。
自分の手元に来た時は嬉しい気持ちもあったが、こんな上等なギターを私が持っていいのだろうかという罪悪感に近しいものも少しはあった。
今では相棒だ。自分を受け止めてくれる相棒。
アンプに繋いで音を出すまでまだ時間がある。それまでの間、いつもの様にギターに何も繋がずウォーミングアップを始めた。アンプに繋ぐと派手に歪ませた音にする分、今の小さくてか細い音とギャップがある。
「こんにっちはー!」
「こんちはー」
声のする方に目をやる。同じクラスの青山咲耶と小名夕維だ。自分のいるクラスには軽音楽部が多い。数えると五人もいるのか。
青山と目が合い、慌てて手元に視線を戻す。言葉に表現するのは難しいがなんというか、肺に砂が詰まった気分だ。治す方法も分からずにただ苛立つ。
私は誤魔化すように、乱暴に弦をかき鳴らした。
「どしたの、さくちゃん?」
夕維が私の顔を覗き込み、変な顔してたよと心配をしてきた。確かに、そんな顔になっていた自覚はある。
「いや、栗江さんになんか避けれれてるっていうかさ」
なんでだろ? 小さな声が口から漏れた。
「不思議だよねー。
しょうもない事を言って一人でぷぷぷと笑っている。面倒になりながらも色関係ないでしょと投げやりなツッコミを入れた。
栗江を見ると、いつもみたいに背中を丸めて一人で体を揺らしている。
「お、リーダー来てたんだ、もう本番まで一ヶ月弱だねー」
凛がこちらに歩いてきた。隣では夕維が拳を上げて私たちに応援を送っている。
入学してからもう一ヶ月ちょっと経つのか。学校に慣れてきたのに比例して、最近は時間が経つのが早く感じる。
「だね、つめていきますかぁ」
文化祭用の三曲。形にはなっているが、更に練習すればまだまだ良いものになるはずだ。
時間が過ぎ、軽音楽部がほぼ全員揃った第二音楽室。もう少し経つと、あらかじめ決まっている順番でバンドごとに防音室を使っての練習が始まる。
小さなギターの音と笑い声が飛び交う部室、その扉が勢いよく解き放たれた。視線が集中する。
「みんなぁ! バンド名の! 書類! 書いて!」
コウさんが飛び込んできた。肩で息をしながら、くしゃくしゃになった紙束を持って。
どうやら、文化祭のステージで演奏をするための書類を書き忘れていたそうだ。その提出期限は今日まで。授業が終わって部室に行こうと廊下を歩いていると、先生から催促が来て慌てて部室まで走ってきた。そんな話だった。
それにしてもバンド名か、すっかり抜けていた。今まで萌佳や凛とはそんな話していなかったし、私も全く気にしていなかった。
改まって三人で机を囲んで座り、紙を睨みながらペンを回す。
「リンはこっちの会議でよかったの?」
私は栗江と上島の方向を見ながら尋ねた。
「あーもう決まってんだよね。キリマンジャロって言うんだー。アルファベットでね」
「キリマンジャロ……コーヒー?」
違う違うと手を横に振られて笑われた。それは山の名前の「キリマンジャロ」から取ったそうだ。確かアフリカにあるすごく大きな山だ。
「さくやちゃんはバンド名の案とかあるん?」
萌佳に尋ねられる。自分たちのバンド名か。私の頭の中をのぞき込むと無意識に、前から準備していたみたく一つの名詞が思い浮かんだ。
「……トアルコ、とか?」
トアルコ? と二人に聞き返される。
小さい時に母に連れられてそのライブに行ったことがあり、それから今まで私の一番好きなアーティスト、大ファンだ。アルバムやシングルだってコンプリートしている。音楽を始めた理由も、母が音楽家だからというよりトラジャの影響が強かったのかもしれない。
そんな彼らの名前の由来は「トアルコトラジャコーヒー」という、コーヒー豆の品種のトラジャから取っているとどこかで聞いたことがある。
なら私が名前を付けるとすれば。
――トアルコ。
「なんか分かんないけど響きはいいじゃん?」
「やね、それで行こか!」
こんな簡単に決めてしまったがいいのだろうかと呆気に取られる。
まあ気に入らなくなれば後から変えればいいか。そんな軽い気持ちで、部長から貰った書類にバンド名を書いた。「
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