Blütenblatt〜花売る女でも愛されたい〜

かぐらゆうい

前編「恋の訪れと戸惑い」

10月下旬。



雪虫が舞う様に飛び交う繁華街。そのとある雑居ビル内の風俗店で今日も白幡瑶子(しらはたようこ)は今夜も花を売る。



花を売るとは隠語で“体を売ること”、つまり風俗である。



甘い汁だけ吸って金銭を得ていると思われがちな風俗嬢だが、その実態は金銭を得る為、体を売ることにより性地獄の様なサービスを客に提供しているのである。



24歳の瑶子もその一人だ。彼女の場合は両親が遺した多額の借金を返済するため秋田県男鹿市から海を渡りこの繁華街にやってきたのだ。



昼間は花屋で花を売り、夜はファッションヘルスで自分という花を売って借金返済のためのお金と生活費を稼ぐという生活も4年になる。



もういい加減風俗から足を洗いたかった。しかしまだ借金苦から当分抜け出せそうにもなく、瑶子は頭を抱えていた。






18時に花屋での仕事を終えると、今度は19時からファッションヘルスで仕事である。



朝から瑶子には気を休める時間がない。



ナンバーに入っている瑶子はスタートの時間から常連客がついているのが当たり前で、途切れることもあまりない人気のキャストだ。また、この仕事は客優先で休憩らしい休憩というのが存在しないこともあり、特に週末や繁忙期は休みなく体を酷使され余計ストレスがたまる。



ストレスは忙しさだけではない。



個々の人間に違いがある様に、客にもそれぞれキャストに対する扱いが違うのだ。恋人と同じ様に優しくしてくれる者もあれば、キャストを性道具として乱暴に扱う者もいる。



そんな環境下で瑶子は毎度のことながら性サービスを提供し、その度に身も心も疲弊して病んでいく自分を感じるだけだった。しかし、両親が遺した借金によって失ったものを考えるとこの仕事を今辞めることができなかった。



瑶子が借金によって失ったもの、それは“家族の命”と“貞操”だ。



父親は失踪し今生きているのかも分からず母親は海で入水自殺した。同居していた祖母は借金取りによってピストルで口内から脳天を撃ち抜かれ亡くなった。



当時市役所勤めだった瑶子は夕方の帰宅途中、祖母が殺されるところを近くで見てしまった。幸い近所の人が軽トラに乗せてくれ、遠くまで逃げたのちしばらく匿ってくれたため瑶子の命は助かったが、思い出すたび祖母の死は胸が痛い。



家族の死によって瑶子には故郷から離れ借金返済のために自分の体を売るしか道はなかった。



今日もほんとうは本音を言ってしまえばこんな仕事はしたくない。始めてから一年ほどはこの仕事前になると体が怠く、気持ちを切り替えるのがとても難しかった。ナンバーに入ってからも瑶子は未だこの仕事を心から好きになれていない。



白幡家は代々続いた老舗旅館だった。瑶子も高校を卒業後若しくは一般企業に勤めてから若女将になる予定だったのだ。しかし、客足が遠のいてからというもの経営が上手くいかなくなり借金だけが残った。



幼い頃から女将として働く母親の背中を見て育った瑶子はいずれ自分も女将になってこの旅館を継ぐと心に決めていたし、何より風俗に身を堕とす前は女将になる身として貞操も守ってきた。だから余計この仕事は辛いのかもしれない。



しかし4年も続ければ容易いこと、今では店長やスタッフに源氏名を呼ばれれば気持ちも切り替わる。ここまで来るのに長い時間が必要だった。





「つばきちゃん、早速やけどいつもの“あのおっさん”なんやっけ…あ、『アンドウ』さんや。ほなお願いします」




「はぁい」




瑶子の源氏名は「つばき」。名前に困った店長に花の中で1番白椿(しろつばき)が好きだと伝えると、「ほな、『つばき』でいこか」と決めた。




つばきに心を切り替えた瑶子は店のセーラー服に身を包み、フロントとプレイルームに続いている階段を仕切る赤いカーテンをくぐり抜けた。





23時30分。




本日の仕事終了を告げるコールが鳴った。



ーープルルルル



部屋に備え付けの電話はカラオケと同じものだ。



『つばきちゃん、今日もお疲れ様でした。部屋の片付けして帰ろか』




「はぁい、お疲れ様です!」



瑶子は電話口で空元気な声を出したが、ほんとうは身の心もボロボロだ。




セーラー服を脱ぎ、個室に備え付けのシャワーで体を洗う。今日も何回シャワーに入ったんだろう…そんなことを毎度のことながらふと思う。



「あ…ローションついてる」



ワンレンの前髪の毛先に固まったローションがついていた。ローションは一度体や髪に付着すると落としづらく厄介だ。いつ付着したかなど、1日平均7本こなしている瑶子にはわからなかった。



店に買い置きしているシャンプーで洗い流し、続けて体もボディーソープで洗い流していく。しかし、体の汚れは洗い流せても、心のなんとも表現し難い“穢れ(けがれ)”までは何度洗っても洗い流せないのがもどかしく悲しくなってくる。



(私…もう24歳じゃない。早くこんな生活から抜け出したい…)



24歳…未経験の新人を求める学園系ファッションヘルスではもう年齢的にはきつくなっているが、148㎝の身長と童顔、そして母親譲りのEカップのバストで瑶子はまだ救われていた。



4年かけての成果で借金はあと残り2割にまで減らした。が、自分は女だ。いずれは恋の一つでもして結婚そして出産…と行きたいのだが、借金のためとはいえ20歳からこんな仕事をしてしまったのでは貰い手はおろか、辛い性病も一度経験し将来妊娠できるかもわからない。



自分には女としての幸せは望めない…仕事終わりには必ずそう思い、涙を流していた。



少し崩れた化粧とともに涙をクレンジングで洗い流した。この涙は店の者に気づかれてはいけないのである…。





終電間際の地下鉄に飛び乗った。



なんとか今日も間に合った…マスクの裏で安堵し席に座る瑶子だったが、しばらくすると隣から黒のストッキングで覆われた太ももを鞄で隠しながら触るサラリーマンの手が現れた。



(うわぁ…隣から痴漢…)



これまでナンパは幾度も経験してきてきたが、身長が低いせいか痴漢は全く経験がなかった。そのため声が出せない程の恐怖が襲った。



(どうしたらいいんだろう…)



そう思っている間にも痴漢をする手は声が出せないとわかってか太ももをくすぐる様な手つきから今度は内側を撫でる様な手つきに変わった。つばきではない自分ではどうにも出来ず、瑶子はもう泣きそうだ。



(誰か…)



助けを求める様に視線を彷徨わせていると、目の前に座っている青年と目があった。その青年は髪をアッシュグレーに染め、顔の左半分を前髪で隠したうえ黒のマスクしてしている。



(…あれ…この人いつも見る人…)



見覚えがあった。



平日の朝花屋に出勤する際、または時々風俗勤務の後のこの時間にも彼をよく見かけていた。花屋が水曜日休みのため水曜日を除く平日は彼を見ない日はほとんどなかった。



アッシュグレーの髪に長い前髪、そして175㎝以上はあろう高身長は目立っていて。覚える気はなくても覚えてしまう。



瑶子はそんな青年に「助けて!」とアイコンタクトを送った。側から見れば変な奴に見られては終わりなのだが、今はそんなことを考えている暇は瑶子にはない。



(お願いお兄さーん!!このおじさんなんとかしてほしい!!!!!助けて!!!)



瑶子の目には涙が滲んでいた。あの人に伝わってほしい、ただそれだけ。



アイコンタクトを送り続けていると、青年は瑶子の助けを求める心の声に気づいたのか席から立ち上がり瑶子の目の前の立った。



(来てくれたぁ!)



瑶子の目の前に立った青年は太ももを触る男を鋭く睨みつけた。よく見るとその瞳は吸い込まれそうな程青く澄んでいた。カラコンではないとすると彼は日本人ではない様だ。



青い瞳で睨みつけられた男はその鋭く刺す様な恐怖に耐えられなくなったのか痴漢を働く手を引っ込めた。瑶子と目があった時は優しかったのに対し男に対する眼差しには温度差があった。氷柱の様に冷たく刺す瞳は男の隣で見る瑶子にもその恐怖が伝わってくる。



痴漢を働いた男は怯えながら鞄抱えると次の駅で降車した。



男がいなくなった席に青年が静かに座る。



「あ…ありがとうございます」



瑶子が礼を言うと先程の鋭い眼差しとは打って変わり、再び青い瞳に優しい光が灯った。



黒いマスクをそっと顎の辺りまで下げると「なんも」と優しい口調で返すと微笑み、再びマスクを小鼻まで持ち上げ戻した。



少しだけ見せたその顔は中性的に整っていてとても美しかった。鼻も細く高い。しかしそれでいて「なんも」と言う方言はネイティブな北国の人である。



黒の本革ボディーバッグを抱えて瞳を閉じた青年の横顔はなんとも淋しそうだ。男性の割には華奢な体を包んでいるのは髪色に近いグレーのパーカーと黒のライダースジャケットと黒いパンツ、そして黒革のブーツというファッションだ。それが余計に淋しさを強調させ、まるで彼だけが蕭然(しょうぜん)とした真冬の原野に取り残されている様に見えた。



(…あらやだ、私見過ぎちゃった)



瑶子は慌てて青年から目を逸らした。



普段主に30代から50代のいわゆるおじさまを相手にしている瑶子からするとかっこいい部類の若い男性は物珍し過ぎて飢えているのかもしれない…そう思うとそんな自分をとても恥ずかしく思った。



しかし、この人はただかっこいいだけの人ではない。彼が纏う蕭然としたオーラが瑶子の心を捉えて離さなくなっている。



男鹿で家族を亡くし、ひとり見知らぬ土地で生きる瑶子が時々ふと感じる様になった淋しさと重なっているだけなのかもしれないが…。



2つ先の駅で青年は瑶子に小さく会釈をし立ち上がった。その会釈に瑶子も小さい会釈で返すと青年はボディーバッグを背中に背負って降車していった。ぽっかりと空いた席には蕭然とした淋しさだけが取り残されている。



(すごく気になってしょうがない…あの人のことが…)



花屋でも風俗でも色んな人間に会って来たが、あんなに淋しそうなオーラを纏った人間には出会ったことがなかった。



そして何より、こんな短時間で自分の心を捉えて離さない人間には…。





翌朝。10時25分発の地下鉄。



少し混み合っていたが端の席が空いていた。瑶子は自分でもよくわからないが端の席が好きで、座れた日はその日はなんの根拠もないが良いことがある気がするのだった。



ふと隣を見るとあの蕭然としたオーラの人物と目が合った。




「あ…」



思わず声が出てしまった。




「ごめんなさい…昨夜は助けて頂いてありがとうございました」




淋しそうな青い瞳が少し細くなった。笑うと

とても優しい。


青年は黒いマスクを顎まで下げる。




「なんも礼なんていいんですよ。声が出せないくらい怖いんだってわかったから」




「ほんと助かりましたよ。あなたがいなかったら私どうなってたか…」




青年は小さく優しい微笑みを向けると、瑶子に質問した。




「今日はこれからお仕事ですか?」




「あ、はい。この後11時半から。お兄さんは?」




「僕もこれから仕事です。いつも見かけるけど、毎日この時間に乗ってるの?」




「ええ、水曜日以外はこの時間に。お兄さんもこの時間でしょ?私もよく見るからお兄さんのこと覚えちゃってたから助け求めちゃったんです」




「そうだったんだ。俺ハーフだしこの見た目だから目立ってたんじゃない?」




「やっぱりハーフなんですか?凄く眼を惹くし、昨夜初めて眼を見てあれ?って思って」




「ドイツと日本のハーフなんです。生まれも育ちもずっとここだからドイツ語なんて話せないですけどね。お姉さんは…ずっとここ?」



「ううん、私は秋田の男鹿です。なまはげってご存知ですか?」




「うん、5歳の時に男鹿に一か月くらい父親と滞在したことあってその時なまはげ館で」




その言葉に瑶子の脳裏にある記憶が一瞬蘇るが、幼い頃のものなのかうまく思い出せない。



「あら、男鹿に一ヶ月も?実家が旅館だったんですけど、もしかしてーー」




(…この青い瞳を実家の庭かどこかで…)



その時だった。iPhoneがアイボリーカラーのハンドバックの中で振動した。



「あ、ちょっとごめんなさい」



一度青年に断りバッグからiPhoneを取り出し、通知を見てすぐにひっこめた。風俗店の店長からのLINEのメッセージだったからだ。



(店長ごめんなさい…今はタイミングが悪すぎる…)



風俗店の客でもスタッフでもない男性に夜の仕事のことは今ここでバレたくはなかった。



「…大丈夫ですか?職場からだったら俺のことは気にしないで返事返しちゃっていいですよ」



(わ…気を使わせちゃった…この人いい人なんだろうな…)



「…大丈夫ですよ、お友達登録してる◯二家からLINEがきただけなんでーー」



明らかに瑶子の今の態度は何かに動揺している様にしか見えない。瑶子は嘘が得意ではないのだ。しかし、恥ずかしながら甘いもの好きの瑶子が◯二家の公式LINEアカウントにお友達登録しているのは本当だ。



しかし、青年はそこには全く触れず、瑶子を違う視点で見ていた。



「…お花屋さん、とかですか?」



「え…あ、まあ…」



「手が…ちっちゃくてかわいい手なのになんだか痛々しいから…」



花屋と風俗を掛け持ちしている瑶子の手は元々敏感肌なのもあってあかぎれと絆創膏でいっぱいなのだ。そのため薬用のハンドクリームが手放せない。



「ごめんなさい…こんな手、お見せしちゃってお見苦しいですよね…」



瑶子はバッグの中に手を引っ込めようとするが、青年が言葉でそれを止める。



「自信持ってください。美しいものを売るために頑張ってお仕事されてる“職人の手”なんですから。俺よりずっといい仕事してる」



“職人の手”…これまで褒められることがなかった瑶子には一瞬嬉しく思ったが、花屋以外に風俗もやっていることを思うと褒められたものではなく複雑だった。



「そうでしょうか…お兄さんは何を?」



素直に喜べないまま、失礼ながら青年の職業を聞いてしまった。心が痛い。



「俺はギターとベースのリペアマンです。楽器屋の作業場に篭って依頼された楽器直してるのが主な仕事です。お花屋さんの方がずっといい仕事されてると思いますけどね」



「そうですか…?初めて言われたなぁ。でも、リペアマンさんだっていいお仕事ですよ、お客様の大切なものにもう一度命を吹き込めるお仕事って素敵だと思います。

お花は命が短いから一度お客様の手に渡ってしまったらもう会えない。買ってくださったお客様ともまた会えるどうかわからないからいつも一期一会で…。その買って貰うまでの過程が私達の仕事だし、お花に囲まれて仕事できるのは幸せなことなんですけどね」




一期一会…それは人に言えることで、また同じ人に巡り会えたらそれは奇跡的な尊いこと…。しかし、それをわかりつつも、最近それが瑶子には少し寂しい気がしていた。



花は人と同じく生き物だから枯れてしまえばもう生き返ることはない…男鹿で亡くした家族を思い出すのだ。壊れても直せる楽器とはそこが違う。



「優しいんですね」



「え…」



「商品に対して一つの“命”として向き合うーーこれって楽器屋にあるのかなって。

特にうちの店はとにかく売らないといけないから押し売りになっちゃっている現状があるんです。それを作業場から時々見るんだけど、俺には“単なる高価な商品”としてしか彼らには見えていない気がしてて。ただ見に来ただけだろうっていう人に5年、10年のローン組ませて楽器を押し売ってるから俺は見てられない。

楽器だって元は木なんだ。持ち主の扱いによっては生きたり死んだりする。俺もたまにバンドでベース弾くからわかるけど、練習いっぱい重ねて持ち主といい関係になればその楽器の性能以上に上手く鳴いてくれる。そんな生き物に高い価値付けて売るんだから、買うまでの少し考える時間をもう少し与えてあげてもいいんじゃないかってね。

お姉さんの話を聞いて余計そう思ったよ」



「押し売りかぁ…確かに押し売りはダメですよね。私も同感です」



青年の話に瑶子は風俗スタッフが売れないキャストの高い時間料を客に上手いこと言って丸め込み押し売っている実態を重ねた。楽器関しても同じなのかもしれない。



「同感を得られて嬉しいよ。もう次降りるね。じゃ、気をつけて」



「はい、お兄さんも気をつけて」



「うん、ありがとう。“またね”」



「また…って、え!?」



瑶子の動揺に気づかず青年は目的の駅で降りてしまった。扉が閉まり地下鉄は再び瑶子を乗せて動き出す。



(『またね』って…私達まだ名前も知らないのに…)



そんな出会いがあってから瑶子は水曜日以外の平日の朝はほぼ毎日、終電時はたまに会って話すようになった。




2人が話すようになって一ヶ月。



季節は冬になった。



辺り一面は銀世界が広がり、真っ白な粉雪が舞う。



この時期は朝晩の冷え込みで地下に潜るまでが寒くてしょうがない。雪があればまた多少は違うのだが、街の中心部には豪雪地に比べて雪が少ないのである。



寒がりな瑶子にはカイロが手放せず、服の下に着る下着に貼るカイロを貼ってようやく外に出られる感覚だ。



家から徒歩10分圏内の最寄りから地下鉄に乗ると青年が声をかけてくる。



「おはよう、白幡さん」



「おはよう、三島さん」


今日は混んでいて扉の横に立っていたようだ。瑶子が隣に並んで立とうとすると「そこじゃ危ないからこっち」と扉と青年の間に立つように促した。彼は背が小さい瑶子のことをよく気遣ってくれる。



青年の名は三島由紀(みしまゆき)。初めてその名を聞いた時は正直「女の子みたい」と思った瑶子だったが、次第に優しい彼にぴったりな名前だと思った。



今は亡き日本人の父親とドイツ人の母親との間に生まれ、10歳離れた弟が一人いたが、父親が自殺した際由紀は父方の親戚の元へ引き取られたために生き別れだという。



彼の人生も苦労の連続だった。それでも瑶子の前では明るく、優しい笑顔を振りまく。かなり辛い人生を送ってきたはずなのに、彼は笑っている、それは最近まで笑えていなかった瑶子にとって彼を尊敬する長所だった。



「ねぇ、白幡さん」



「はい?」



「…白幡さんってさ、彼氏いたり…するの?」



唐突な質問に瑶子はドキッとした。由紀は恥ずかしそうに頭を掻いている。



これまで2人はたわいのない日常的な会話からお互いの趣味などの会話をしていたが、少し好意を持ち始めていた由紀に彼氏の有無を聞かれたのならば彼をさらに異性として意識せざるを得なかった。



しかし、瑶子は自分の夜の仕事のことを考えると仮に由紀の方にも自分と同じく好意を持ってくれていたとしたらこのまま素直にいないと答えて期待させてしまったらと思い、胸が痛くなった。自分は“普通の女の子”とは少し違うのだ…。



悩んでいると由紀は不安そうな表情を浮かべた。



「いるなら、ごめんね…変なこと聞いちゃった」



自分が悩んで答えないうちに変な気を使わせてしまった…瑶子は慌てて素直に答えた。



「ううん、いないよ?!そ…そうじゃないの…なんか、ドキっとしちゃっただけなの…」




「え、いないの…?」



「へ…う、うん」



「あ、いや、その…白幡さん、モテそうじゃん」



確かにおじさんには…そう思ったが瑶子は飲み込む。



「も、モテないよーー」



その時、地下鉄が急停車した。お詫びのアナウンスが流れている間、2人の距離は目と鼻の先ほどにもないほどに近づいていた。急停車の衝撃によって由紀の手が小柄の瑶子の頭上にドンと突き、いわゆる“壁ドン状態”になってしまったのだ。



しばらくすると再びアナウンスが流れ地下鉄が動き出した。どうやら何らかの原因による緊急停止だったようである。



「ごめん…大丈夫?」



「うん、大丈夫だよ…」



先ほどの会話とこのアクシデントにより2人は互いを完全に意識してしまい、何を話したら良いかわからぬまましばらく無言が続いた。



「「あっ」」



何か言わなくちゃ…そう思い瑶子が発声した。しかし由紀も同じことを思ったのか同時に口を開いてしまい、どうぞどうぞと譲り合いになってしまった。



「そ、そっちからどうぞ」



「いいの…?」



譲り合いの結果、由紀が発言することになった。



「あの…もしよかったらでいいんだけど、LINE交換しない?」



「ら、LINE…」



「うん、…ダメかな?」



瑶子は悩んだ。このまま了承すれば由紀と連絡を取り合う関係になってまたその先の一歩踏み込んだ関係になれるかもしれないが、夜は風俗で働いてる身だ、バレてしまえば由紀を傷つけてしまうだろう…。しかし、心の中では地下鉄の中だけで会話する関係から脱したい自分がいた。



(…三島さんのこと…もっと知りたい…)



LINEを交換すれば今以上に彼のことを知ることができるーーそう考えが及ぶと口を開いていた。



「…いいよ」



誰かのことを知りたくなる日がまた来るなんて思ってもいなかった。高校生の時以来だ。



LINEを交換しまたいつものように由紀が先に降りて別れた。



『LINEするね』



そう言ってくれたが、してくれるとしたらいつなんだろう…。風俗の時間ならすぐに出られないな…など、頭の中でぐるぐる考えていた。



177㎝だという身長に中性的で端正な顔立ち、青い瞳ーー。先ほどの急停車した際のあの距離感…。


(息が止まっちゃいそうなほど…かっこよかった…)



瑶子は思い出してドキドキしていた。


キスしそうだった。キスなんてほぼ毎日おじさん達としているのに、由紀相手だと自分はどうしたのだろう、キスしてないのにしたかのようにドキドキしているではないか。



身体が火照るのを感じた。


瑶子は気づいた。自分は完全に由紀を異性として好きになってしまったのだと。



女になっていくーーそう感じながら最寄り駅で降車し花屋に向かった。







「…いたぁ〜い…」



花屋での仕事中、左の親指の腹に白薔薇の棘が刺さった。



ここは働いて約2年ほど(働くまでの2年間は昼夜問わず、寝る間を惜しんで風俗店を掛け持ちしていた)が経つ。だが、未だに薔薇の管理は苦手な仕事でよく棘が刺さってしまうのだ。



絆創膏を貼るのには皮肉にも慣れっこだ。

慣れた手つきで貼り、再び作業の取り掛かる。


しかし、白薔薇は一瞬由紀を想起させた。



「三島さん…」



白薔薇で想起できるほど由紀は苦労人とは思えないほど身の心も美しい。彼と一緒にいると自分の方が僻んだり怖じ気付いたりしてよっぽど醜いことを気づかされる。



(三島さんのように私も優しく笑えるようになりたい…作り笑顔じゃなくて心から…)



由紀の優しい笑顔を思い出しながら作業に取り掛かっていると、背後から誰かの足音が聞こえてきた。



ーーヒタヒタヒタヒタ…



足音は早足でこちらに向かってきている。


瑶子は急ぎのお客様かもしれないと振り向いて挨拶した。



「いらっしゃいませーー」



ーーバッシャアア!



突然瑶子を目掛け水がかかった。



瑶子は一瞬自分の身に何が起きたのか分からず、ずぶ濡れのままその場に立ち尽くしてしまった。



「楽しそうに作業してんじゃねーよ!最近のあんた見てると超むかつくんだよこんちくしょう!!」



女の怒号が飛んできた。


床に勢いよく叩き捨てられるプラスチック製のバケツとぶちまかれた水ーー。


犯人はここ一ヶ月前に3年付き合った最愛の彼氏に浮気され、ゴミのように棄てられたという同僚だった。


ずっと話を聞いてやっていた瑶子は悪いことしてしまったなぁと思いながら床に転がるバケツを拾い、まかれた水をモップで処理する。



時間が経つにつれ濡れた身体は暖房が使えないただでさえ寒い室内で芯まで冷えていく。

更に水で濡れた手荒れがぱっくり割れて痛み出す。



「痛ぁ…」



いつもならば厳しくも優しいこの店の女店長がいるのだが、今日は社長に呼ばれて本部に行ってしまった。今現在店番をしているのは瑶子と水をかけた同僚だけで、彼女がいなくては店を任せて交代することもできない。



同僚はどこかへ行ってしまった。


瑶子は着替えることもできないままとりあえずタオルでささっと拭き、残りの作業に取り掛かった。



18時。



結局同僚が戻って来ないまま瑶子の終業時間がきてしまった。


店長に電話で事の一件を説明すると、とりあえず彼女のことはもういいからと店は閉めて今日は帰るよう指示された。


指示どおり店を閉め瑶子は店を出た。


瑶子は歩きながら風俗店の店長に出勤確認の連絡を取ろうとハンドバッグからiPhoneを取り出し電源を入れた。ホーム画面には三島由紀の名が表示される。



(三島さん…!)


由紀からLINEメッセージが来ていたのである。


すぐさま歩きながらLINEのアプリを開き、メッセージを表示した。



『お仕事お疲れ様。

今度一緒にご飯に行けたらと思って早速連絡しました。白幡さんの都合のいい時間にこちらが合わせるので空いてる時間を教えてくれたら嬉しいです。それではまた。』



メッセージは15時16分に来ていた。



好きな相手からのご飯のお誘い。声を大にしてこの場でスキップしたり飛び跳ねたりと大喜びしたいところだが、先ほどの同僚の件に加え、夜は風俗嬢という身分から複雑な思いでいっぱいだ。



花屋と掛け持ちしているのだから隠し通せばいいと第三者からは言われるだろうが、瑶子にはなんとも表現し難い後ろめたさが付きまとうのだ。



先日瑶子は風俗4年目で店のナンバーワン嬢になった。店の看板として風俗雑誌の取材やHPの宣材以外にも写真を使わせてほしいと店長からお願いされ、仕事を受けてきたところだ。


断ることも可能なのだが、今まで店の看板を背負って来た現役大学生のキャストが学校の同級生内でバレてしまったらしく店を辞めてしまったのだ。



『つばきちゃん、お願いや!身内がおらんのはあんただけやねん!この通りや!』



小太りで丸いフォルムの店長が更に丸くなって頭を下げたのでは断れなかった。



『ここで腹括って仕事受けたら、その分借金も早く返し終わると思うで?…どうや?』



店長の言う通り、リスキーだがここで腹を括って雑誌の仕事などを顔出しで受けて今以上に自分を売り出せば今以上にお客様がつき、早い借金完済も可能だ。今までお世話になったこの店にも貢献できる。



瑶子にはこのリスキーな仕事を受けるしか道はなかった。



『…店長、私やります。このお店にもっと貢献させてくださいーー』



つばきに扮した瑶子の写真はHPから順にそろそろ載り始める頃だろう…。



瑶子はコンビニやネットを通して由紀の目に入らないでほしい、そう願うばかりだった。



しかし、由紀からの誘いをどうするべきか…。由紀のことは好きだ。しかしこのままOKして仕事のことは黙って付き合いを続け、進展するならば進展させてもよいものか…。



瑶子の中で更なる葛藤が始まった。





20時30分。



客足が途絶えた。給料日前は厳しい。



瑶子は出勤してから2人常連客がついたが、他のキャストに関しては1人または全くついていない者もいる。



待機室で自販機で買ったお茶を飲みながら呼び込みの日記を書いていると、浮かない表情の店長がタバコとライターを持って入ってきた。



「お疲れ様です、どうぞ」



店長の前にガラス製の灰皿を置く。客足が途絶えると決まってここにタバコ吸いに来る。キャストと親睦を深めることも視野に入れているのだろう。



「ありがとう。さすがわかっとるな」



店長とは4年の付き合いだ。仕事のみの仲だが、夫婦の様に店長が今何が考えているか、何をしてほしいかわかるようにきた。



それは店長も同じようで。



「つばきちゃん、最近なんか悩んどるんちゃうんか?」



「バレちゃってましたか…」



「そりゃ4年もおりゃわかるわ。仕事上の付き合いとはいえ、あんたのことはようわかっとるつもりやで。…男やろ?」



この人の目にはお見通し、嘘つくことはできない相手だ。



店長はタバコに火をつけ、かりんとうの様な濃い眉毛をクイっと上げる。



「つばきちゃんは嘘が苦手なタイプやからいい奴おってもそいつを傷つけたない思って次に進めんのやろ?なんとなくそう思うわ。」



「はい、その通りです…」



「で?今どんな状況なん?他の子おらんから今のうち楽になろう?仕事に影響するで」



今年30歳になったばかりの店長は25歳の時結婚式当日に花嫁に逃げられ全て借金になってしまったという痛い過去を持ち、瑶子とは同じ借金苦や大切な人を失う痛みがわかる間柄だ。


瑶子は由紀とのことを話した。



「ーーそか…なるほどな」



店長は瑶子の話を真剣に聞いてくれた。


この人に私は何度助けられるのだろう…そう思う。店長は瑶子がこの店に来た当初から仕事のことはもちろん、マンション探しなどにも協力してくれた。知らない土地で今日まで生きてこられたのはこの人のおかげだ。



「つばきちゃん」



「はい」



「そいつのこと、ほんまに心の底から好きなんやろ?」



「好きです…こんなに好きになったことがないってくらい…」



「この仕事のことは黙っとくか、次のデートで打ち明けた上でこれからも付き合うか決めてもらい」



「…受け入れてくれるかなぁ」



「大概の男は悪いけどそこまで根性ないで。自分の彼女が仕事で不特定多数の男と肉体関係持ってるのにプライベートでセックスすんのは無理ってなるからな。

まぁ、打ち明けたら、そんときは断られるって思った方がええな」



わかってはいたが瑶子ににとって苦しい結果になりそうである。



「相手のこと思い遣るなら、別れの苦しさを選んだ方がええかもな。店としては男は悪いけどはっきりいうて邪魔な存在やから。

ま、付き合う付き合わないは自由やから無理に愛し合ってるとこ引き裂いたりせんけどな」



瑶子は頭を抱えた。由紀との関係に良い選択肢となんなのか…。



店長が2本目のタバコに火をつけた。



「とりあえず、ご飯の誘いはのったらええ。案外一緒に飯食ったら冷めるかもしれんよ。飯の食い方に育ちが出るからな。向こうももしかしたらつばきちゃんがどういう食い方するか見たいやろうし」



「…私の?」



「せや。案外男いうんは人によるけど細かいとこ見とる生き物やから。些細な仕草ひとつで好きにも嫌いにもなれる。そこはつばきちゃん大丈夫やと思うけど」



「私マナー悪くないですか?男鹿の田舎とこっちじゃーー」



「大丈夫、大丈夫。俺らいろんな女の子見とるけど、つばきちゃんはさすが次期若女将だった子はちゃうって思う。俺が保証するで」



ーーキーンコーンカーンコーン…



学園をイメージしたチャイムが鳴った。客が来た合図である。



「来たなぁ。つばきちゃん、あんま表情に出さんようにな。あんたすぐ悩みが顔に出るから」



タバコを揉み消し、店長は客の元に走っていった。



色々問題はあるが、瑶子は由紀にLINEの返信を書き始めたーー。







12月に入り、街はクリスマスムード一色に包まれていた。



花屋も風俗もこの時期はイベントが目白押しで一気に忙しくなる。由紀が勤める楽器店も同じかもしれない。



そんな中、2人が食事デートする日が決まった。



12月20日。


客商売の2人にとってクリスマスは避けなくてはならず、かと言っていつでもいいわけでもなく、ようやく一致した日にちだった。



当日。



花屋の仕事を終え、店を出た。



いつものマスタード色のロング丈ダッフルコートの下は、淡いピンク色の膝丈ニットワンピースと濃茶色のショートブーツである。そして茶髪のワンレンロングにつける髪留めは…ーー



「…ばんこ…(ばあちゃん)」



亡くなった祖母が殺されるその瞬間まで愛用していた小振りな白椿の花を模したつまみ細工のバレッタである。これを身につけている間はどんな結果になろうと由紀の前で泣いてしまうことはないだろうと…。



お守り代わりのバレッタを身につけ待ち合わせ場所に向かって歩き出した。



待ち合わせ場所である噴水の前にやって来た。



由紀の姿はない…時計を見ると約束の時間の20分前だった。



結果を気にして怖かったはずなのに、いざ好きな人に地下鉄以外の場所で会えるとなると本心では少し浮かれている自分がいることに気づいた。



噴水の前で由紀が現れるのを待つ。



(落ち着け…落ち着け私…)



会う前の緊張…。


瑶子は掌の真ん中にあるツボを親指で滑らせる様に軽く指圧した。これは指圧師であった祖母が教えてくれた“あがり症”に効くツボだ。



そこへ聞き慣れた優しい低い声が瑶子を呼んだ。



「白幡さん」



「あっ、三島さーー」



由紀の元へ駆けよろうとした瞬間、2人の間にからっ風が吹き、由紀の前髪を乱した。黒いマスクを外していた彼は慌てて顔の左側を手で覆った。



「三島さん…それは…」



風が乱したことによって何か傷跡の様な赤いものが一瞬見えた。



「みえ…ちゃったかなぁ…」



隠していたものが見つかってしまった子供の様に俯き、手櫛で前髪を直す。



瑶子は静かに「うん」とうなづいたが、それに続く言葉が見つからず由紀の目を見ることができない。



「…怖い…よね?」



一歩、二歩と由紀の方から後ずさり距離を開けていく。それを見て瑶子は思わず抱きついた。



「行かないで…行かなくていいから…!」



自分でも何をやっているのかわからなくなっていた。しかしこのまま誤解されたまま終わりたくなかった。



「顔、見せて…?」



それは瑶子が初めて由紀の心の奥にある扉をノックした瞬間だった。

































































































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