6日前……甘えていいよ
約束の時間まで、気づいたらあと少しだった。別段、何をしていたわけでもなくインスタントラーメンを食べて、大きめの袋を用意した。足りなかったらどこかで段ボールをもらえばいい。
オレの部屋と由芽の部屋は実はかなり近いので、早足で歩く。こんな日に限って遅刻なんてありえない。約束していたコンビニまであと少しだ。
「由芽! ごめん、待たせた?」
最後は走るのに近い勢いで来たので額に汗をかいている。真冬なのに情けない。
「ううん、そんなに待ってないよ」
「よかった。思ってたよりうち出るのうっかり遅くなって、ごめん」
二人で食べるために中華まんを二つ買う。待たせてしまったお詫びも兼ねてだ。袋をうれしそうに持って、「あったかいね」と彼女は笑った。由芽の部屋までほんの5分もない距離だけど、ふと、二人の手が触れた。そんなことをしても許されるのか迷ったけれど、そっと手を握る。初めて手を繋いだのはいつだったっけ? ……忘れるわけもない、告白した後、すぐだ。今は何故か、あの時と同じような気持ちを感じている。彼女のことは、よく知っているのに。
「勝手に持っていくのかと思ってた」
「そんなことしないよ」
こそこそと持ち出すという手もあったけれど、泥棒のようで嫌だった。
「……新しいとこには慣れた?」
一瞬、由芽の言ってることがわからなくて頭を使って考える。オレの帰るところはオレの部屋だ。
「……新しいとこ? ああ、玲香のところには行かないよ。知ってると思うけど、彼女、交友関係、派手だし、行きたいって言っても断られると思うよ。自分の部屋に戻っただけ」
「そうなんだぁ……」
由芽がほっとした顔を見せる。玲香とは学校でしか会ってないと知ったら、こんな状況になった今でも、笑顔をもっと増やしてあげられるのかな、と思った。
「あ!」
いきなり由芽が素っ頓狂な声を出して、鍵を開けたドアの前で立ち止まった。
「どうしたんだよ」
彼女は明らかに動揺していて、何かを隠そうとしている。昨日、原田と会った証拠でもあるのか、慌てていた。もしそうなら。そうだとしてもオレには何かを言う権利はない。
「ちょっと待ってて……散らかってるの」
「大丈夫だよ、由芽はいつもキレイにしてるじゃん。大体、何年一緒に暮らしたと……」
由芽が塞いでいたドアをくぐり抜けて玄関に入ると……そこはまるで由芽の部屋とは思えない有り様だった。数日前まで一緒にいたのに、こんなことになってるなんてどうして気がつかなかったんだろう? まさにオレの目は、自分のことしか見えていない節穴だったんだ。
「ちょっと、サボっちゃった……」
由芽の部屋はいつでもキレイに片づいていて、2年間、それが当たり前だと思っていた。男友だちの彼女がだらしない、という話を聞いても由芽は違うから、と笑って流した。でも今、そうじゃないことが初めてわかった。
由芽はオレの見てないところですごく努力して、時間をかけて家事をしてくれてたんだ。当たり前だと思っていた快適な生活は、由芽が作ってくれてたんだ。そんなことに気がつかなくて……。
「由芽、今日は帰らないからさ、一緒に片づけよう? 手伝うよ」
彼女はもう泣く寸前だった。彼女にしてみたら、決してオレにだけは見せたくないものを見せてしまった気分なんだろう。
「……ごめんなさい」
よし、今までの分も手伝おうと心を決める。泊まりがけで今度はオレが由芽を助ける番だ。
「まず洗濯からね」
「え? いいよ、ほら、下着とかあるし」
「今更だろう?」
本当に今更だ。照れる由芽がかわいい。洗濯カゴは洗い物で溢れていた。由芽は恥ずかしがったけれど下着の柄まで覚えている。
「次、洗い物やるね」
「ああ! シンクがヌメッてたらごめん」
「今まで2年間、ヌメらなかったことのほうがすごいよ。……由芽にもこんなとこがあるのかって、悪い意味じゃなくて安心した」
「?」
「あんまりオレに弱みを見せないじゃん」
そうだ、つき合い始めてからずっと、由芽は優等生だった。気の弱そうな線の細い女の子だと思っていた彼女はつき合ってみたら家事も完璧で、勉強だって苦労している様子は見たことがなかった。四六時中、一緒にいてそれだ。だからオレはいい気になって彼女に甘えていた。玲香いわく脆そうな由芽に甘えていたんだ。
ベッドの上の衣類はどうやら、今日、着る服を迷った残骸らしい。由芽はせっせとたたみ始める。
「? そのストライプのシャツ、新しいね。まだ着てるとこ見たことない」
見慣れないシャツに目が行く。いつもは絶対、売り場で手も触れない柄のシャツだ。
「この間買ったんだけど……どうかな?」
「うん、似合うけど、由芽じゃないみたいだな。いつも、白か生成りしか着ないじゃん」
由芽は今日も生成のシャツにアイボリーのセーターを着ていた。由芽の白いシャツは、告白したあの日のことを思い出させる。彼女自身、白いシャツが好きなんだろうけど、言葉にしたことはないけど、オレも由芽の白いシャツを着た姿が好きだ。今もそうだし、今日の彼女もかわいい。
洗い物をしながらそんな彼女を見ていると、急に声をかけられる。
「泊ってくなら、夕飯、食べるよね?」
「冷蔵庫、何もないじゃん。買い物に行こうか? ひと段落ついたしね。あ、今日は気張らなくていいから」
「うん?」
由芽が変な顔をする。いつだって彼女は手間暇かけて料理をすることに力を入れていたから、手を抜くことをたぶん知らない。
「いっそオレが作ろうか?」
「え? いいよ、働いてもらったし」
「いいじゃん、たまには。よし、由芽のために料理しよう」
実を言うと、まったく出来ないわけでもなかった。つき合い始めてすぐに同棲したわけじゃなかったし、実家にいる時も長男だったのでわりと母親にこき使われて家事を少しは身につけていた。
ただ、由芽は家事を完璧にすることに喜びを感じているようだったので任せているうちに、オレはすっかり怠け者になってしまった。
部屋を出ると、音もしない程度の弱い雨が降っていた。冷蔵庫にはほとんど食材がなかったし、行かないわけにもいかなかった。一人で行ってしまおうかと考えると、部屋の中から上着を着てパタパタとエコバッグを持った由芽が現れて、一緒に行くことになる。オレはパーカーのフードを被って、由芽が濡れないように斜めに傘をさす。由芽が当たり前のように手を繋いできて、その手をぐっと握る……。7日後には終わる自分たちがこんなんでいいのか戸惑いながら、彼女の手をいつも握っていたむかしの自分に嫉妬する。つくづくオレはバカだ、と思う。
スーパーに着くと、中は暖房が効いていて一気に雨に濡れた体も温まった。
「何がいいかな?」
「今まで、カレーとインスタントラーメンくらいしか作ってくれたことないじゃん」
「そうだっけ? まぁいいや。見てから決めよう」
簡単に出来て美味しいものがいいかな、と考える。だとしたら、レトルトや液体状の「~の素」を使うというのはいいかもしれない。由芽は使ったことがないだろうし、オレは実家で使い慣れている。具材の火の入れ加減なんかを気をつければ、十分美味しく食べられる。
豚肉と「生姜焼きの素」、つけ合わせにキャベツを買った。
「……本当にそれを入れれば生姜焼きになるの?」
「なるよ」
不安げな由芽が本当にかわいくて、早く食べさせてあげて驚かせたい気分になる。
オレの料理を疑惑の目で見ながら、由芽が余り物で味噌汁を作ってくれる。タレを入れてジュージュー焼いていると、
「そんなに簡単にできちゃうの?」
と聞いてくる。
「うん、うちのおかん、いつもこれだけど。むしろ由芽が初めて作ってくれた時、『本当に生姜、入れるんだ』って軽く感動した」
「本当? 話、作ってない?」
「本当、本当」
「生姜焼きの素」ひとつに驚く由芽に笑っていると、彼女は後ろから腰に手を回して背中に頬を寄せてきた。……甘えられている。
「由芽、今日は無理してない?」
「うん、してない。楽しい」
その小さな温もりが、かつて当たり前にあったものが特に大切なものに思えて逃したくなくなる。このまま彼女を捕まえていいのか、迷う。何故ならオレたちは1週間後には別れることが決まっていて、その原因は自分で、虫のいいことをするのはためらわれたからだ。
「キス、してもいい?」
拒まれると思った。由芽には原田もいるし、もう何もかも遅いような気がしていた。
「うん、いいよ……して」
コンロは止めて、向かい合う形になる。彼女の小さな声に胸が震える。こうなることを望んでいたかもしれない自分に嫌気がさす。でもそれより今は……。
彼女の唇に唇を寄せる。小さくてかわいい由芽を、怖がらせないキスを何度も何度も繰り返す。由芽もそれに応えてまたキスが増えていく。
そっと、片手で彼女の顎を持ち上げて、もう一方の手で彼女の手を握る。指と指が絡まって、まるで恋人同士のようだ。その姿勢のまま、由芽を求めて深く潜り込むようなキスをする。
理性はどこかに置き忘れて、ベッドに倒れ込む。キスはまだ長く続く。
「こんなことするの、もう嫌だったら言って。今なら止められるから」
「嫌じゃないよ、要に抱かれたい気持ちでずっといっぱいだったもん」
「お前、そんなんじゃ彼氏できない……」
由芽が、玲香に爪を立てられた背中にぎゅっとしがみつく。思い切り力を込めて。彼女の小さな手のひらの感触だけがあって、爪が刺さることはない。由芽はオレに痛い思いをさせない。
「いらない。一生、要じゃなきゃいらない……」
きつく抱きしめられて、離れようとしない。体を重ねたまま、ずっと抱き合っていた。
「今日の由芽、すごいかわいい」
「だって、要が好きだって、今じゃなかったらいつ言うの? わたしにはその権利がもうすぐ無くなっちゃうのに」
由芽は大粒の涙を見せた。オレなんかのために泣くことはないのに……。彼女は我慢することなく次々と止まらない涙をこぼしてしゃくり上げた。一度だって「行かないで」と、外泊した時だって言わなかった由芽がこんな気持ちでいたなんて。思っていたよりさっぱりしてるんだな、と思った自分がバカだった。彼女のことは自分がよく知っている。小さくて、臆病で、か細い。何を見間違えてきたんだろう? 由芽の涙を期待していたのか?
「こんなに泣いてるの、初めて見た……」
頬に手をやって、彼女の涙を舌で掬う。
「別れを切り出されてから毎日泣いてるよ? うちでも、学校でも。心が、ちぎれそうに痛いんだよ」
彼女はオレにとってよく馴染んだ少し小さな、形の良い胸にオレの手を導く。
「ここのところがね、毎日きゅーって痛くなるの。あの人と一緒のところを見るともっと、きゅーって痛くなる。そういうの、わかる?」
「……わかると思う。オレも、由芽に声をかけられなかったとき、そうだったよ。でも由芽とつき合えるようになって、安心できるようになって、それがなくなったんだよ」
そう、由芽に声もかけられず毎週月曜日のその講義の時間、彼女を目で追っていた。胸がその度に軋んだ。味わったことのなかった胸の痛みを持て余していた。
「わたしにはもう、未来はないもん。痛みから解放される日はないもん。もう、毎日が終わりに向かって進んで行くだけ……。あと6日しかないし、日付が変わったら、残りは5日だね」
言ってしまったら、狡いだろうか? 彼女を、例え数日でも腕の中にもう一度しまっておきたいと願ったら許されないだろうか? たった5日だけなら、見逃してもらえるだろうか……。
「やっぱり、まだ約束した日までこのままここにいてもいい? まだ予定では5日残ってる。その5日間を由芽と過ごしたい。虫が良すぎるかな? その間、玲香には今度こそ個人的には絶対会わないって約束するから」
由芽は黙ってしまった。こんなに傷つけておいて追い打ちをかけるように、やっぱり狡い言葉だった。「ごめん、有り得ないよね」と言いかけて口を開こうとした。
由芽の唇が、その時、ゆっくりと動いた。
「その間は何もかも忘れていい……?」
「忘れて、それでもっと甘えて。オレ、たぶんもっと由芽に甘えられたかったんだよ。寄りかかってほしかったんだと思うよ。……明日のゴミ出しも、オレがするから」
本気だったのに、由芽が大きな声を出して笑った。心外だった。
彼女の涙は笑いとともに止まり、そのかわいい顔の上で留まった。ティッシュを持ってきて、顔を拭いてやる。その間も由芽はけたけた笑っていた。――ようやく、由芽に笑顔をあげられた。
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