8日前……自分の居場所

 由芽を抱いた翌朝、いつものようにオレの方が早く目が覚めた。由芽は、余程しあわせな夢を見ているのか、うっとりした顔をして丸まっていた。見ているこっちの方もつられて笑みがこぼれる。頬をつつくとまた微笑んだ。まだまだこんなんじゃいけないな、と思いつつ、つついた頬に軽く口づける。

 布団をしっかり掛け直して暖房を入れる。しばらく床に座り込んで2年間暮らしたこの部屋を眺めた。由芽にとって大事なキッチンや、ごろごろしてみかんばかり食べたこたつ、「絶対一緒に入るのは嫌だ」と由芽が言い張った狭い風呂、……ガラスの靴はテレビ台の上で日光を反射して輝いていた。

 バカだな、オレ。あの靴を持って由芽に誰を探せって言うんだ? 物語では王子様があの靴を手がかりにシンデレラを探す。……ガラスの靴は、今更だけどずっと由芽のものだったのかもしれない。オレの探していたものは由芽だったのかもしれない。とにかく、遅すぎる。

 着替えて、少しの大切な資料やデータ、真冬の服を持って部屋を出る。

 由芽に分けてもらったしあわせな気持ちのまま部屋を出たので、真冬の屋外でもほんのり暖かい。

 これは、由芽がくれた温もりだ。 




『出ていくよ。今以上、狡くならないうちに』


 1枚のメモ用紙を置き手紙にする。……由芽は泣くかな? きっと泣くだろう。でもこれが不誠実だったオレから贈れる唯一の誠実さだ。

 由芽と玲香の間でふらふら揺れているオレは、とうとう玲香を抱いて、由芽も抱くようになってしまった。最初は17日目までは由芽が彼女で、玲香と個人的に会わないというのが由芽へのケジメのはずだった。

 けど、自分が引いたラインを易々やすやすと越えてしまった。オレはバカなんだな……と思うことが最近、めっきり増えた。




「それで由芽ちゃんのとこ、出たの?」

「出たよ。いられないだろう? ……オレだって由芽を泣かせたくないんだよ」

 原田が片方だけ頬杖をついて、オレを横から見る。その目線は何か言いたげでいやらしい。

「お前は大島玲香と遊んでろよ」

「なんだよそれ?」

「僕、今日は講義終わったら鍋パーティーだから」

 原田はよくわからないけど誇らしげにそう語った。

「鍋」

「そう。秋穂ちゃんと僕で、お前が出て行って傷心の由芽ちゃんを慰めるんだよ」

「それってどうなの? 支度はほとんど由芽がやるんじゃないの? 秋穂ちゃんてあんまり料理できないって聞いてるけど」

「……確かに、読み違えた! なぁ、要、お土産に甘いもの買っていこうと思うんだけど、由芽ちゃん。何が好き?」

 一瞬、教えてやらないにしようかと考えた。でもそんな意地悪は意味がない気がして、どっちかと言えば、由芽が例えオレがいないところでも笑顔でいてくれる方がいいだろうと考え直す。

「由芽は……すごく甘いものは苦手なんだよ。だから、甘さ控えめのにしてやって。生デコよりレアチーズとかアイスケーキとかさ。アルコールはほとんど飲めないから、女の子がよく飲んでる度数の低いジュースみたいなの、買っていくといいよ」

「要、お前は本当に友だちなんだな。見直したよ、ありがとう!」


 原田と一緒に学食を出て、歩いていると図書館前で「秋穂ちゃん」に呼び止められる。オレよりも原田の方が「やれやれ」という顔をした。

「森下くん!」

「由芽の友だちの『秋穂ちゃん』だよね?」

「……」

「秋穂ちゃん」は喋るべき言葉を見失ってしまったようだった。下を向いて、唇を噛んで何かを耐えていた。

「森下くん、さ。もう由芽に関わらないで」

「……由芽のとこは出てきたけど、それだけじゃダメなの? 実質的にはこれでもう接点がないと思うんだけど」

 ただし原田と由芽がつき合ったりしなければ、という条件つきだけども。

「秋穂ちゃん、要を庇うというわけではないけど、それはすごくデリケートな問題だと思うんだよ。由芽ちゃんと要にしかどうにもできないことがあると思うんだ。だからさ、僕たちはできることをすればいいんじゃない? とりあえず、今日は由芽ちゃんを、さ」

「原田、さっきも言ってたけど、由芽、なんかした?」

「あー」

 やっちゃったな、という顔を原田はした。秋穂ちゃんも、原田の顔をじっと見た。そうして彼女は言わなかったつもりのことを言わなければいけなくなったという顔をした。

「由芽、どうかした?」

「……学校に来なくなっちゃったの、とうとう」

 という言葉が重くのしかかる。そこまで来るのに相当、積み重ねた何かがあったのかと思う。

「でも、オレの前では由芽はほとんど泣かなかったし、玲香と別れて欲しいとも言わなかったし……」

「言われなくてもわかることってあるじゃない? 言われるまでわからないのがバカなのよ! 行こう、原田くん。こんなのとつき合ってても時間の無駄」

「待ってよ、秋穂ちゃん。オレ、要とゼミ一緒だから……」

 秋穂ちゃんは慌てる原田を無視して、オレをしっかり見て周りの人に聞こえるのもかまわないという度胸でこう言った。

「由芽の代わりに言ってあげる。『大島玲香なんて大っ嫌い!』、……、わたしは本望じゃないけど、帰ってきてあげて。お願いだよ」

 秋穂ちゃんは泣いていた。あれは由芽の涙だと思った。彼女は走り去って、結局、原田も一緒に行ってしまった。あとに残されたオレは、図書館前を通りすぎるけっこうな数の学生に指をさされた。




「何だかわたし、すごく嫌われてるみたいじゃない? いろんな人に言われたんだけど。わたしのことを嫌いだって大声で叫んだ女の子がいたって。……汐見さん?」

「いや、違う」

 オレも原田も玲香と同じゼミだった。避けたくても一緒になる。

「汐見さんなら、ちょっと見直すところだったのにな。彼女、見るからにもろそうだもん。何にしても図書館前なんてキャンパスの中心すぎて笑える」

「……由芽が脆そうだと思うなら、なんでかまうの? 放っておいてやってほしいんだけど」

「汐見さんを庇うの? 散々、要が傷つけてきて? ……ケンカは止めよう? わたし、今日は抱かれてもいい気分だからうちに来ない? お友だちも今日は来ないし」

 玲香の顔を見る。いつもベッドで見る時と同じ顔をしていた。

「それよりさ、たまにはベッドから出て、何か二人で……」

「抱かれたいから誘ったのに」

「鍋とかどう? オレが作るよ」

「わたし、和食苦手なの。もうわかってるでしょう? 意地悪言わないでよ」

「もう今日はいいよ」と彼女は言って、その後は口をきかなかった。

「ねぇ、玲香。オレたちセフレなの?」

 彼女がオレに求めているものは何なのかな、と思う。考えるまでもない、ベッドの相手だ。

「何それ? セフレでも彼氏でも、要の好きな方にしておけばいいんじゃない?」

 ……自分がひどく薄っぺらな人間になったと感じた。




 一人の部屋に帰る。

 元々、自分の部屋だったところだ。講義の合間に寝られるくらいまでは掃除しておいたけれど。

 がらんとした部屋。

 何もする気にならなくて、毛布を被ってコンビニの弁当を食べる。味気ないのはコンビニのせいじゃなくて、一人の部屋のせいだ。長いこと、由芽と暮らしていたから寂しく思うんだろう。きっと、それ以上でもそれ以下でもない。

 鍋パーティーか……。

 秋穂ちゃんの涙をふと思い出した。だって、どうしろって言うんだ、今更……。玲香との仲を精算して、由芽に頭を下げる。それだけで済むのなら、こんなに悩む必要はない。けど、人の心はそんなに簡単じゃない。由芽だって、秋穂ちゃんが言うようにオレが戻ればいいってわけにはいかないだろう。プライドもあれば、不信感もあるだろう。

「わかんないよ」

 誰もいない部屋で一人こぼす。

 わからなくない、自分で蒔いた種だ。刈り取るのは自分じゃなければいけない。


『要、ありがとう。アイスケーキ、正解だった!由芽ちゃん、思ったより元気そうだったよ。それだけ』


 ビールを飲みながら、アプリでゲームしていると原田からメッセージが来た。マメなやつだ。由芽にはオレみたいな男より、原田の方が似合ってるよな、と思う。原田ならオレより由芽を笑顔にしてあげられるだろうし、何より女の子の扱いがスマートだ。やさしくて気も利く。

 原田を選べよ。

 オレはどうしようもない男なんだから……。





 

 

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