7日前……もう戻らないよ
食べ物の力は偉大だ。
あんなに寂しかったのに、昨日はぐっすり眠ってしまった。ただ、エアコンの入りタイマーを入れ忘れて、目覚めたらとても部屋が冷え込んでいて布団から出たいという気持ちにならなかった。「行きたくないなぁ」と、昨日のふたりの尽力に、恩を仇で返すようなことを考える。
布団から出られない。
部屋の中は昨日のままで、秋穂ちゃんは「片づけ手伝うよ」と言ってくれたけれど、終電間際だったので断ってしまった。しかし、他の家事同様、何もする気にならなかった。
食べたままの鍋にはとりあえず水は張ったけど、ケーキやらビールの缶やらは買ってきてくれた袋に突っ込んで、ゴミ箱のわきに置いておくことにした。ケトルでお湯を沸かして、カップ麺を食べる。「わたしだってカップ麺くらい食べるし」と自分に変な言い訳をする。
……要がいなければ、そんなに気張って料理なんてする必要はないんだ。そもそもつき合う前は、自炊が特に得意というわけではなくて、要に作ってあげてるうちに、褒めてもらえるのがうれしくてだんだん、上手くなった。だから、今は生きるために食べられればいい。
ピンポーン、とドアチャイムが鳴って、秋穂ちゃんかなと思って、迎えに出る。確かめると原田くんだった。
「はい……」
「おはようには遅いけど、秋穂ちゃんから今日も来てないって聞いて」
想定外の出来事に、どうしたらいいのかわからなくなる。まず、パジャマのままは問題だ。
「えーと、着替えてないからちょっと待っててもらえる?」
「あ、ごめん! もちろん待つよ」
クローゼットに突っ込んであった服の中から適当な服を見繕う。白いセーターを見つけて、……この前、原田くんと駅ビルで偶然に会ったときに買ったシャツを見つける。じっと見ていると、やっぱりそのストライプのシャツは要に見せたら「由芽っぽくない」と言われそうで、着ることができなくて、他の服を選んだ。
「お待たせして」
ドアを開けると、フェンスに寄りかかって彼は待っていた。
「昨日はたくさん食べたけど、眠れた? 胃もたれしなかった?」
「うん、逆に楽しかったからよく眠れたの。ありがとう」
彼は今日も初夏の日差しをわたしに運んできたらしい。今日のわたしには眩しすぎた。
「学校、行く?」
「あー、どうしようかな?」
原田くんは強く学校に行かなくてはいけないとは言わなかった。
「じゃあ、デートする? 僕は学校よりそっちの方がうれしいけど」
そんなことをストレートに言われたのは久しぶりだったので、照れくさくて顔は熱くなった。
「……デート?」
「うん。あ、抵抗があるなら、また文具探しでもいいよ」
「……」
「直接的に『デート』とか言うと引くよね、ごめん」
確かに「直接的」はないよなぁと思う。なぜならわたしは恋人を失ったばかりだから。でも、昨日の彼のやさしさを考えると感謝しなければいけないことがたくさんあるように思えた。
「本当にここでいいの?」
「うん」
「もっと大きなとことか、あるじゃない?」
「いいの」
この間ふたりで回った駅ビルだった。どの店にもクリスマスのデコレーションがキラキラと施されて目がチカチカする。
遠くにはとても行く気にならなかったし、ここはもう勝手知ったる場所になったので気が楽だった。
とりあえず、目標の文具を見に行く。筆記用具、かわいい付箋や手触りのいい紙、画材などを一通り見る。この間と同じように、原田くんが気にならない程度に一緒に選んでくれて、もうすぐ来る年末に向けて絵手紙用のはがきを買った。
「満足した?」
「ありがとう」
その後もぶらぶらして「お腹が空いたね」とパスタのお店に入った。わたしは好きなトマトソースのパスタ、彼はカルボナーラを頼んだ。ここで要なら必ず、「また跳ねるんだから、気をつけて」と念を押すところだ。パスタを待ってミニサラダを食べてる間中、そのことを思い出していた。悲しさがわたしを曇り空のように覆っていった。
「浮かない顔だね。……ひょっとして、要と来たとこだった?」
首を横に振る。
「なんとなく、悲しくなっただけ」
口元に笑いを作る。
「由芽ちゃん」
「はい?」
「要はもう戻らないよ。僕のところにおいでよ」
頭を鈍器で殴られたのかと思った。心の何処かですでに認めていることでも、人の口から聞くのはものすごい衝撃だった。
数日前までのわたしと同じようには笑えなかった。「要のことをずっと待ってるから」と笑えないわたしが滑稽だった。
「ごめんなさい、なんて言っていいのかわからないの」
「急にこんなこと、ごめん。でも、笑っててほしいから」
その後は食事の間ずっと、どちらも何も言えず、パスタの味もわからなかった。
「あの……上がってく? お茶でも」
原田くんは予想もしていなかったことだという顔をして、一瞬、固まっていた。
「それってどういう意味かわかる?」
「お世話になっちゃったから」
彼は鍵を開けた部屋のドアをぐっと開けて、わたしの手を引いて部屋に入ると、「あ」と思う暇も与えず、わたしにキスをした。知らない唇の知らない感触に戸惑う。背の高さだって、よく知った人とは違う。
「こういうことだよ。君を好きだって言ってる男を部屋に上げたらダメなんじゃない? 僕だって男だから、ふたりきりでいるときに何もしないって保証、ないよ」
「ごめんなさい……」
「お茶だけいただいて、帰るよ。その間、僕に襲われないように気をつけてて」
彼はいつでもわたしに親切だから、おどけて「好きだ」と冗談を言っているのかなぁと思っていた。何故なら要の親友だったし、わたしと原田くんもすっかり友だちになったと思っていたから。わたしはちっとも周りが見えていなくて、彼の行為ややさしさが、心の底ではそういう類のものだと信じずにいた。
「こんな話もなんだけど。要がさ、かわいい女の子を見つけたっていうんだよ。しかもすごくかわいいって。「哲学1」、僕もあの授業取ってたんだけど、要はいつも君を見つけて、講義に出る度に探しちゃうんだって。こういうのも恋かなぁって言うから、みんなで茶化して。『もっとそばにいてほしい。そうかー、オレ、彼女のこと好きなんだ』って真顔で言ってたよ」
わたしの淹れたお茶はすっかり冷めかけていて、原田くんの話はわたしを泣かせるのに十分だった。
「『講義が終わっちゃう前に、告白してくる』って走って行ったときには笑ったけどね。……今日は意地悪なことばかり言ってごめん。でも気持ちに嘘はないよ。もしも要が戻りたいって言ったら、殴ってやる、くらいの気はある」
「じゃあね」と彼は日が落ちる前に彼らしい笑顔を見せて帰っていった。
またひとりの部屋に戻る。
誰もいない。
スマホがマナーモードで振動して、カバンをがさごそとひっくり返す。
要からのメッセージだった……。
『明日、用事ある?』
スマホを両手で持って、目の高さでディスプレイをじっと見る。
明日? 明日も明後日も、いつだって要のためなら用事がなくなるよ。
『何もないよ』
震える手で一字ずつ確実に打つ。何でもないことのように。こんなに喜んでいるということがバレてしまわないように。
『よかったら荷物、取りに行きたいんだけど。いいかな?』
『うん、大丈夫』
『じゃあ、由芽のとこのコンビニに着いたら連絡するよ』
『りょ』
この前、会ったのはいつだったかなぁ? ちょっと待って、カレンダーを見る。まだ約束の日まで明日なら6日ある。要の彼女として振る舞ってもいい? まだ別れたわけじゃないんじゃないの、わたしたち。
「要は戻ってこないよ」
あのお日様のようにやさしい人が言った一言が、胸に刺さる。
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