8日前……狡くならないうちに

 しあわせな気持ちで目覚めた朝、1枚のメモがテーブルに載っていた。


『出ていくよ。今以上、狡くならないうちに』


 そっか、出て行っちゃったのか……。もうこれでたぶん、勢いで抱いてもらうこともできなくなる。要がわたしを抱くのはちっとも狡くない。だってわたしから求めたことだし。もし、それで傷つく人がいるとしたら、それは大島さんだ。大島さんに遠慮して、彼は出て行ったんだろうか? わたしがまだ、彼女のはずなのになぁ。

 彼の荷物はうちに2年分、しっかりあったはずだけど、なくなっていたのはほんの少しの衣類と教科書の類だった。時々、おそらくわたしのいない時間を見計らって運べるだけの荷物を、何回かに分けて持ち出すのだろう。そうして最後の荷物になるうちのスペアキーが郵便受けに入っていた時、完全にわたしたちは終わる。接点はなくなる。

 学校に行かなくちゃと思って着替えを済ませたけれど、家を出る段階でこのドアの向こうに消えた人のことを思い出してすとんと座り込んだ。スカートの膝を抱えて、声に出して泣いた。誰にも遠慮はいらなかった。わたしは捨てられた女だし、泣くのは当然のことのように思われた。

 

 カレンダーには要の書いた、別れるための計画表が貼ってあった。

「出ていく予定日」は「6日前」。予定より2日も早い。

 この2日を要はどう過ごすつもりなんだろう? 大島さんの部屋に引っ越しするんだろうか。どうしてうちにいてくれないんだろう? まだわたしのことを「好き」って言ってくれたし、キスしてくれたし、抱いてくれたのに……。昨日も夜、わたしが要の要求に応えることができなかったのがいけなかったのかもしれない……。これでは、「セフレ」にもなれない。


 直電がかかってきて、秋穂ちゃんに違いないと思う。

 彼女には申し訳ないけど、今日ばかりは人と話したりできないと思ってスルーした。

 すると、また着信があって、諦めて電話に出る。

「秋穂ちゃん、ごめんね。今日は……」

「由芽、寒いから鍋にしようか?」

 ……?

「買い物はわたしが講義の後にしていくよ。それから、原田くんも行きたいって言ってたから、講義終わったらわたしより後になるけど来るって。いいよね?」

 この人は神様なのかもしれないと思う。わたしの困ったときに、何も聞かなくても手を差し伸べてくれる。

「わかった。じゃあ、掃除して待ってるね」

 要は気づいてなかったけど、このところ洗濯は要のものしかしてなかった。ゴミもためていて、ゴミ箱の中には要と食べたものよりコンビニのお弁当の空容器が目立った。朝出かけるときに迷った服や、たまに洗った服はクローゼットにつっこんであった。そういう負の財産は、要さえ気がつかなかったのだから、放っておこうと決めた。掃除機くらいはかけたほうがいいかもしれない。


 ドアチャイムが鳴って、わたしの親友が現れた。

「何も言うなよ。友だちなんだからね」

と秋穂ちゃんは言った。わたしはお礼の気持ちをハグで表現した。

「さて、作るか! ねぇ、どうせ割り勘だし、と思って2千円のカニ買っちゃったー! 誰かアレルギーあるかな?」

 今日初めて、まともに笑った。


 秋穂ちゃんの買ってきた材料は豪華で、カキが2パックも入っていたり、しゃぶしゃぶ用のお肉と、肉団子用の鶏ひき肉が入っていた。

「ねぇ、なんでこんなに豪華なの?」

と尋ねると彼女は、

「だってみんなの好き嫌いがわかんないし、みんなが楽しめたほうがいいかなって思って」

と答えてまたわたしを笑わせた。とりあえずあまり料理をしない彼女の代わりに、わたしが肉団子を作ることになった。鍋の味付けは、最初は水炊きにして、それから味噌を投入後、おじやと決まった。

「そんなに食べられないよー!」

「食べられるよー! いや、むしろ食え! ……あんたさぁ、自分で気がついてないだろうけど、痩せたよ?」

 秋穂ちゃんは悲しげな、やさしい顔をした。

「うん……いっぱい食べなきゃね」

「そうだよ、敵をヤるにもまずは体力からだよ」


 ご飯も炊けて鍋の具の準備も出来たころ、原田くんがやって来た。

「ほら、お楽しみのアルコール。飲みすぎはあまりよろしくないけどね。それからお呼ばれしたのでお土産。アイスケーキ、食べる? 冬なのに寒いかな?」

 という言葉に秋穂ちゃんをにらんだけれど、彼女はスルーした。寒い中、白い息を吐きながら、ドライアイスの入ったアイスケーキを買ってきてくれた原田くんに感謝する。

「では。いただきます」

 なぜか百均のクラッカーまで出てきて、「ヒュー! ヒュー!」と意味なく盛り上がる。一体なんのお祝いなんだろう、と思う。卓上コンロに火を点けるのに手間取って、原田くんの手が伸びてくる。

「すごい! カニ入ってる!」

「ふふん、いいでしょう? カキも食べ放題だから」

「豪華だなぁ」

「由芽が作った鶏肉の肉団子も忘れずに食べてね」

 早速、原田くんは肉団子をはふはふ言いながら口にほうばる。

「ゴマとショウガの味がする。聞いてはいたけど、由芽ちゃん、料理、本当に上手なんだね。すごく美味しいよ」

 たらふく褒められて下を向いてしまったわたしの代わりに、能弁な秋穂ちゃんが言葉を足す。

「もっと褒めてあげてよ。やっぱり、褒められると単純にうれしいじゃん? いい男に褒められるとなおさら、ね」

「秋穂ちゃんはそんなこと言って、彼氏いるんでしょう?」

「そうなの、残念ながら高校生の時からつき合ってる彼がいるから、原田くんがいかにいい男でわたしに言い寄ってくれても、ダメなんだなぁ。ほんと残念だけど。原田くん、かっこいいよなぁ、うらやましい」

 ビールを飲んでいるせいか、会話はどんどん盛り上がって、みんなカニの足の先っぽまで食べつくしてしまった。

「……すごい食べた気がする。野郎の集まりでもこんなに食べない気が……」

「そういうの、今は忘れよう」

と胃を押さえながら彼女が言うのでみんなで笑った。


 アイスケーキは、お鍋であったまったわたしたちの体にちょうど良かった。

「生クリームのケーキだったら、食べられなかったね」

「迷ったんだよ、本当に。こっちにしてよかった」


 その後はこたつに入ってみんなぼーっとして、お腹のものが少し消化されるまで休んでいた。

「……わたしがここで言っちゃいけないのはわかってるんだけどさぁ、本当に帰ってこないんだねぇ」

「もう帰ってこないことに決めたんだって」

「まじかー」

 秋穂ちゃんは上を向いて大きなため息をついた。

「要にも思うところはあると思うんだけどさ。ほら、一応、友人代表としてかばうと」

「原田くんの言うことは信ぴょう性がないなぁ。もうキミはこちら側の人間でしょう?」

 かっかっかと、わたしの親友は豪快に笑った。

「わたしね。大島さんと同じように抱いてほしいって言ったんだけどね、拒否されちゃったの」

 ビールの勢いがなければとても言えないセリフだった。

 原田くんも秋穂ちゃんも同時にこちらを見て、何か言おうと口を開いた。

「由芽ちゃんに魅力がないとかじゃないよ」

「そうだよ、由芽には刺激が強いから無理かなーって思ったんじゃないの?」

「え! 刺激?」

「あー、ほら、刺激的な、セックス……」

 原田くんは口をつぐんだ。

「わからないけど、僕には由芽ちゃんが魅力的に見えるし、それは要とつき合い始めたときから変わってないと思う。変わったのは要の方で、大島さんから何らかのアクションがなければ由芽ちゃんと要ははそれまでと同じくいられたと思うよ?」

「そうだよ。性の不一致で別れる人はたくさんいるんだしさ、森下くんがそういう理由で別れたいっていうなら、別れるべきだと思う、その……親友として、ね。毎日悲しい顔をしてる由芽は見てられないよ」

「……ふたりとも、心配してくれてありがとう。迷惑かけてごめんね。でも、それでもわたし、要が好きなんだ。バカだし、重い女だと思うけど」

 無理に笑顔を作った。なんだかすっかりしんみりしてしまって、ふたりに申し訳なくなった。


 帰るときに原田くんが、

「前にも言ったけど。ツラいときは夜中でも呼んで? いつでも駆けつけるから」

と言ってくれた。

 とてもありがたかったけど、たぶん、それはない。原田くんには悪いけれど、身を切るような思いをしているうちはまだ要がわたしの中にいるってことだから。どんなに苦しくても、心の中だけでも、わたしは要といたい。

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