14日前……知らないシャンプーの香り
目が覚めると、床の上で要が何も掛けないで寝ていた。わたしは本当にベッドの上で大の字で寝ていたらしく、要はベッドに入れなかったらしい。
「要、要……」
「んん……」
その寝顔を見ていると無防備な姿に胸が暖かくなって、ああ、わたしはこの人のことが本当に好きだなぁと心からしみじみと思う。冷たい頬に恐る恐る小さくキスをする。彼からは知らないシャンプーの香りがした。その香りは記憶に残りそうなフルーティーな香りで、心の中まで入り込んできそうだった。わたしとまだ別れてないのに、彼女ともするのはアリなんだ……。ずいぶん、要に甘いルールだなと思う。
秋の終わりでずいぶん冷え込むようになっていたので、暖房をつけて彼に毛布をかける。それから、寒い中帰って来た彼のために温かい食事を用意する。豆腐とわかめの味噌汁、塩鮭の切り身、甘い玉子焼き。
「要、朝ご飯だよ」
「んー、由芽、こっちに来て毛布に入ってよ。寒い」
要はまだ寝ぼけていた。別れ話の事なんてまるでなかったかのように甘えてくる。以前はふたりで毛布の中で丸まって、暖をとったものだ。そうすると、要とわたしの温もりが合わさって、毛布は小さなかまくらのようになった。
「ダメ、ご飯冷めちゃうよ? ほら、暖房も効いてきたから」
「なんだよぉ、ケチだなぁ。ちょっとくら……ごめん、寝ぼけてたみたいだ」
「うん、そういうのは彼女にしてもらって。ごめんね、わたしにはもう無理」
彼の目もようやく覚めたようで、かわいそうになって頬にもう一度キスをする。「わたしから嫌いになったわけじゃないの」と心の中で思いながら。
ようやく彼がテーブルに着く頃には食事は半ば冷めていた。変に改まって「いただきます」をするのはやましいことがあるからかなぁとか思って、そんなことを考える自分に嫌気がさす。
でも要はいつも通り、甘い玉子焼きがあることを喜んだので、自分が考えすぎだったと思う。……彼はまだ、わたしを少しは必要としてくれている。
要は甘い玉子焼きが大好きで、コレステロールと糖分を気にしながらわたしは何度も作った。ある日ぽろっと、「甘い玉子焼きが好きなんだ」と彼がこぼしたからだ。それから砂糖の分量を変えて、尖った甘みの上白糖から三温糖を使うことにした。もう何度作ったかわからない。ひとりで暮らしていた時にはフライパンで作ってしまっていたけれど、とうとう専用の四角いフライパンを買った。今となってはこれも、ふたりの思い出の品なのかもしれない。
「朝から玉子焼き焼くの、大変じゃない?」
と聞いてきたので、それほど難しくないことと、要にも作れるよ、と答えた。要は一通り話を聞いていたけれども、
「いや、よしておく。できる気がしないよ」
と言った。
大島さんは料理はしないそうなので、わたしと別れたら要に玉子焼きを焼いてくれる人がいなくなってしまう。……残りの14日間に、できるだけ焼いてあげたいと思った。
もう、要のお弁当は作らなくなった。
秋穂ちゃんとランチに迷っていると急に雨がぽつぽつと降り出し、学食に逃げ込んだ。今日も要とわたしはお昼を別々に取った。食べ終わった秋穂ちゃんが次の講義に向かうとき、入れ違いに、要の友だちの原田くんに会った。原田くんは要と同じゼミで、ふたりは親友だ。人見知りなわたしでも気を許せるくらい、屈託のないひとだ。
「由芽ちゃん、奇遇だね」
と原田くんは人懐こく話しかけてきたのでわたしも気が緩んで、
「うん、原田くんも元気だった? 久しぶりだよね」
と言った。
いつもお互い一緒の、要も秋穂ちゃんもいないので、自然、その場にはわたしと原田くんのふたりきりだった。原田くんが学食の、紙の容器に入ったヨーグルトを奢ってくれて、それを食べながら話した。
「あのさ、直接的で悪いとは思うんだけど」
「うん?」
「……要とは別れたの?」
わたしは秋穂ちゃんにしかそのことを話していなかったので、原田くんがどうして知っているのかと、大きく動揺した。同時に情けない気持ちでいっぱいになってうつむかずにいられなかった。
「要と同じゼミだもんね。……要に聞いたの?」
「いや、そういう噂を聞いたから本人に聞いたんだけど、否定しないから」
「そっか……」
わたしはあのややこしい「17日」の話をした。心の整理をつけるための17日。わたしが死刑台に立たされるまでの17日のことを。
「そんなことになってるんだ」
「そうなの、笑っちゃうでしょ? 要も、大島さんみたいな美人とつき合うならわたしみたいなのはビシッと切ればいいのにね?」
原田くんの顔には、同情の色が濃かった。
「由芽ちゃん、
わたしはまたうつむいて、さっきよりもっと小さくなった。たぶん、肩が震えてしまったんじゃないかと思う。
「そんな風に言ってくれて、ありがとう」
「要にふられたら……その、僕でよかったらいくらでも話も聞くし。待ってるから考えてみて?」
そこまで言うと、わたしが「ごちそうさま」を言うより早くわたしの分もヨーグルトの空の容器を捨てて、行ってしまった。
「ふぅん、原田くんかぁ。お昼に会った人だよねぇ? 顔、よく見なかったなぁ」
講義を終えた秋穂ちゃんと図書館で待ち合わせしていた。
「顔? なんで?」
「えー? 気がつかないかなぁ? 森下にふられたら、つき合ってほしいって遠回しに言われたんだよ?」
「そんなことないって。原田くんは本当に善意で、わたしのこと励ましてくれて」
秋穂ちゃんは英語のテキストの予習をしながら溜息をひとつついた。
「原田くんのほうがずっといい男だと思うな。森下、さ、由芽のこと泣かせてばっかだし。こんなことになって、由芽がどんな気持ちでいるのか考えないのかなぁ? それとも美人といるとわからなくなるのか?」
「ごめん、笑えない……」
彼女は申し訳ない顔をした。
「だよね、こっちこそごめん。ただ、由芽が泣いてるのを見るとこっちまで胸が詰まるって言うかさ……」
「迷惑ばっか、かけてごめんね」
「わたしにはどれだけ迷惑かけてもいいんだよ?」
秋穂ちゃんはわたしにとってもったいないくらいの親友だ。彼女が心配しないで済むような、わたしでありたい。
今夜は要が出かけないと聞いたので、アジフライとポテトサラダを作る。アジを下ろして、小骨を取るまでが大変で、ポテトサラダはジャガイモさえうまく茹でられれば難なくできる。
「要、ジャガイモ潰してくれる?」
「いいよ」
まだほくほくのジャガイモのいい匂いが広がる。ガラスのボウルがたまに、マッシュしてるスプーンに当たって音を立てる。わたしはその中でアジフライを揚げている。
これが、わたしのしあわせの形だ。わたしが要にしてあげられるのは料理くらいで、大島さんみたいにセクシーではないから一緒にいてドキドキさせてあげることはできないかもしれない。でも、一緒に暮らすことはできる。できる、のに。
アジフライにはわたしはお醤油、要はソースをかけた。いつものことなのに、何だかその小さな違いが悲しくなる。
「どうしたの?」
「ううん。美味しくできたかなーって気になったの」
要はぐるっと食卓を見回して、
「どれも美味しいよ。由芽は絶対、いいお嫁さんになるよ」
と言われて、リアクションに困る。沈黙が二人の間に見えない壁を作る。
「……昨日は、外泊してごめん」
「また学校に泊まったんでしょう?もう寒いから風邪ひくよ」
と白々しい会話をする。
「眠いから」と言って、要はすぐに寝てしまった。わたしは布団に入っても、要が大島さんと寝てきたのかと思うと、知らない人と布団に入っているようで落ち着かない気持ちになった。そっと寄り添って、今日はいつも通りの香りであることを確かめて眠りについた。
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