証言者 

 用賀を越えた先にある私立病院は、リハビリや長期の療養に特化した病院らしく、車椅子の患者を押す看護師や家族の姿が多く見られた。

祝日なので外来の患者は来ない為か、エントランスホールのソファには入院患者達が座っており、面会に来た家族や友人と笑顔で会話している。

「金田さん!甘いものは食べ過ぎたらダメですよ!」

ベテランらしき看護師は、売店から出て来たパジャマ姿の患者を目敏めざとく発見し、急いで駆け寄って呼び止める。

「い、いやー・・・これは0カロリーゼリーなんだよ。」

電動の車椅子を自分で動かしている初老の男性は、比較的元気そうな声で答えると慌てて買い物袋を背中に隠していた。



――― 11月3日 水曜日 イチョウ並木が色づき始めた寒い朝



 インフォメーションセンターで樫井さんが事情を話す間も、朱莉は吹き抜けのフロアをふわふわ漂いながら、物珍しそうに院内の様子を見て回っている。

「看護師さん達、テキパキ動いて凄いなぁ・・・。

私って、こんな仕事目指して勉強してたんだね!ちょっと信じられないかも!」

ロビーの椅子に腰かけて待っている、俺と杏花さんの間にふわりと舞い降りた朱莉は、自分に感心したように両手で頬を押さえて笑う。

「朱莉ちゃんなら、優しくて素敵なナースにきっとなれますよ!

患者さんからモテモテになっちゃって、松宮さんが心配になるかもね♪」

そう言って杏花さんがいたずらっぽく微笑むと、朱莉はチラッと俺の方を見て恥ずかしそうに俯いた。


「みんなお待たせー。・・・えっと、朱莉ちゃんは救急病院で治療を受けたあと、自発呼吸は出来る状態になったんだけど、意識だけ戻らないまま5月からここに居るらしい。誰でも面会できるけど・・・俺は朱莉ちゃんの意思を尊重するよ。」

暗い顔で戻ってきた樫井さんが言いにくそうに呟くと、朱莉も状況を察した様に黙って辺りを見回し始める。

「・・・樫井さんと二人で行きたいです。

誠士くんと杏花さんはここで待っててくれるかな?

も、もしかしたらー・・・意外に一気に戻れちゃってさ、歩いてここに戻って来るかもしれないし、二人にサプライズ出来そうじゃない?」

「ちょ、ちょっと朱莉・・・!?」

急に明るい笑顔に戻った朱莉は、慌てて口を挟む俺の横をすり抜けて樫井さんの隣に飛んで行くと、『よろしくお願いします!』と言って深く頭を下げた。


 杏花さんは無言で俺の顔をじっと見ていたが、何かを決意した様に口を開く。

「皆でぞろぞろ行くより、りょーちゃんだけで面会して担当のナースさんに警察だって事伝えて話を聞いたら、詳しい状況が分かるんじゃないかなー?

・・・という事で、りょーちゃん行ってきてくれます?

私と松宮さんはここで待ってるから。・・・よろしくお願いします。」

樫井さんは杏花さんの意見を真剣に聞いて頷くと、『分かったー!じゃあちょっと待っててねー。』と軽く手を上げて歩き出す。

エスカレーターに乗り遠退く樫井さんの背中を見送っていて、つい追いかけそうになった足を踏み出した瞬間、ふわっと彼の背後に着地した朱莉が振り向く。

彼女は俺の顔をじっと見下ろした後で、向日葵の様な笑顔を見せて手を振った。


「松宮さん。今日は少し寒いけど、とっても秋晴れが気持ちいいですね!

・・・ちょっと中庭をお散歩して待ってませんか?

わぁー!カフェに新作の抹茶オレもある!買って外へ行ってみましょー♪」


「・・・杏花さん、ありがとう。」

俺は明らかに無理に笑顔を作っている杏花さんに、一言の御礼を伝えるので精一杯だった。

売店へ歩き出していた彼女は驚いたように振り返ると、いつもの柔らかい表情に戻って優しく俺の手を握る。

「私はただ、あの宇治スペシャル白玉入りが飲みたいだけですよ!

さーさー!売り切れる前に、早くいきましょー♪」

杏花さんは行列に並んでる間もずっと俺の右手を離さなかった。

零れた涙を慌てて左手で拭こうとしたが失敗し、繋いでいる方の杏花さんの手首にポタっと落ちる。

絶対に感触で気付いたはずなのに、彼女は振り向くことも感情を読み取ろうとして会話を持ち掛けて来ることも無かった。


 赤茶色になった葉がはらはらと落ち始めた桜や、黄色味が濃くなってきた銀杏など季節折々の木々に囲まれた中庭は、見事な景観を楽しめる造りだ。

急に冷え込んだ気温のせいか、殆ど人が居ない小道を通りベンチに腰掛ける。

杏花さんは薄手のベージュのコートのボタンを胸の上まで止め直すと、温かい抹茶オレの紙カップを両手で握って細い指先を温めていた。

「あの人はきっと・・・扉の前まで案内して、病室の中には入らないと思います。

朱莉ちゃんも彼がそうすると分かっていて指名したんですね。

彼女からは、『皆に協力してもらってここまで来たのだから、最後は一人で頑張りたい!』という意思が強く伝わってきました。・・・朱莉ちゃんは強いですね。」

そう小さな声で話す杏花さんは、花壇の奥を見つめながらカップに口を付けた。

つられて無意識にコーヒーを口に含んだ俺は、あまりの熱さに驚いてむせ返る。

花壇の奥の通路からは若い男性患者が、キャスター付きのベッドらしき物に乗せられたまま、介護者とゆっくり散策しながらこっちへ向かって来ていた。


「朱莉が強い信念でそうしたんなら・・・俺はそれでいいと思う。

ただ、現状を俺が見てどう思うか?とか、絶望されたらどうしようとかまで気にして、本当は怖いのに一人で行ったんじゃないかな?って思っちゃって。

そんな不安を抱かせたこと自体が、無力すぎて許せないんだ。

・・・本当は何があっても俺が隣で支えるべきだったのに。」

最後は己を罰したい様な気持ちになってそう呟くと、杏花さんは何かを言いたげな表情で俺の顔を見つめ、ジャケットの袖をおもいっきり掴む。

ちょうどその時、移動式の介護ベッドを押していた中年の女性が俺達の目の前を通りかかり、ベンチの傍の小さな段差に困った顔をして後ずさりした。


「大丈夫ですか!?持ち手を一緒に押しても良いですか?」

慌てて俺が声を掛けると、親族らしき私服の女性は『すみません。お願いします!』と言って頭を下げる。

無事に車輪が平らな道へと進むと、女性は何度も感謝して爽やかな笑顔を見せた。

「本当にご親切にありがとうございます。お若いのにしっかりした方ね!

・・・ほら、たぁーくん!同い年くらいのお兄さん、久しぶりに会えたわね。

あら?そうそう、嬉しいよね。うん、サッカー部の駿ちゃんに似てるね。」

ほんの少しだけ視線を動かした青年は何も言葉は発せない様子だったが、母親らしき女性は笑顔で話しかけながら彼の胸に毛布を掛け直した。

とても暖かな愛に溢れた、優しい光景。

それなのに、会釈をして立ち去る女性の背中を見送る俺の胸の中は、嵐の前の様に騒めき、不安と恐怖で一杯になっていった。


「朱莉ちゃんは・・・松宮さんが困難を受け入れられずに自分を見捨てるかもとか、そういう不安は感じてないですよ。 ただ、心から大切に想うあまり、心配をかけたくない一心なんじゃないかな? あなたの目に映る自分は、いつもの元気な姿だけであって欲しい。そういう彼女の気持ちは・・・良く分かります。」

俺と同じ方角を見つめる杏花さんは、時々言葉を詰まらせながら静かに語った。


「そうそうー。周りが悲しむと、こっちも余計に傷付くしねー。」

『えっ!?』


 杏花さんへ言葉を返せずにいた自分の物でもなく、今しがた話し終えたばかりの彼女の声とも全く違う少女の声は、なぜか俺達の頭の上から聞こえてくる。

驚いた二人は同時に声を上げ、慌てて頭上の桜の枝を見上げた。

「・・・生霊!?」

青い薄手の患者衣をなびかせて木の枝に腰かける少女は、『あれ?聞こえるんだ!?』と言いながら半透明の素足をバタつかせ、ベンチで固まる俺を見つめた。

「そして二人とも見える人なのね!すごーい! 私は紗月さつき宜しくね♪」

ふわりと杏花さんの横に着地して座った少女は、驚きの表情を浮かべつつも簡単な自己紹介を済ませる。


「私は西嶋杏花、この人は松宮誠士さんです。宜しくね!

紗月ちゃんは・・・ここの患者さんですか?」

杏花さんは当たり前の様に自分も挨拶をすると、握手を求めて右手を伸ばした。

「うん!私はもう5年ここにいるよ。15歳の時の夏の暑い日、てんかん発作で冷房の無い部屋に倒れたまま重度の熱中症になっちゃって。脳の殆どがダメになった。

体はもう20歳なのにね、私の意識は15歳の時のままなの。

まぁーだから、いつまでもこんなピチピチ中学生の姿のままでいられるって訳!」

紗月は杏花さんの前に回って握手に応じると、そう話しながら患者着の胸の辺りを指差して微笑んだ。


 可愛らしいショートの黒髪や、力強そうな筋肉がうっすらついたふくらはぎや腕を見る限り、紗月は活発なスポーツ少女だったと思われる。

俺は急に胸が苦しくなり、遠くへ歩いて行った先程の親子へと視線を移す。

そのことに気付いたのか紗月はクルっと後ろを振り向くと、患者用エレベーターホールに入って行った青年と母親の姿をじっと見た。


「たぁーくんはね、2年前にここに来たの。大学に受かったって予備校に報告に行った帰り道、飲酒運転のワゴン車にひき逃げされちゃった。

頭は打ってたけど暫く意識はあったみたい。すぐに救急車を呼んでいれば全然元気になる状態だったの。発見した人が30分後に通報した時には頭蓋骨の内側の血腫が脳を押しつぶしてて、話したり動いたりする部分の機能を失ってた。

それでも自分で息をして、目も開けて動かせるから・・・お母さんは諦めてないんだよ。いつか起きてまた話せるって、全員信じてる。ここに来る人はみんな。」


「・・・。」

「紗月ちゃんは随分ここの人たちに詳しいんだね。5年間ずっと生霊のままなの?

体に戻ってみようって試した事はあるんですか?」

淡々と話す紗月の顔を一度も見れずに俯く俺の背中を、そっと擦りながら杏花さんは彼女に重要な質問を投げかけた。

その答えを聞かなければならないのは明白なのに、俺は今すぐに逃げ出したい気持ちで一杯になって思わず立ち上がる。

紗月はふわりと俺の前に立ちふさがって、なぜか悲しい顔をして見上げてきた。


「今でも毎朝、自分のリハビリの時間に戻ろうとしてるよ。

刺激を与えられた瞬間は、少しずつ身体も動く様になってきたからね!

意識障害の人が全員、生霊になる訳じゃないからまだ成功例は見た事ないけど。

でも、絶対に第一号になってやるって思ってる!だから応援してね!

・・・戻れたらきっと、あなたの大切な人にも戻り方を伝授できるし。」

そう意気込んだ紗月は、降り注ぐ柔らかな陽射しを顔を上げて受け止める。

炎天下で走り回っていた記憶が蘇ったのだろうか?

青白い顔色は次第に小麦色へと変わっていき、彼女の頬を涙が伝った。


 一人の少女の儚くも美しい涙は、硬直していた俺の心を少しずつ動かし始める。

茜色の桜の枯れ葉がひらりと肩に落ちた頃、ようやく鼓動は落ち着きを取り戻し、俺はゆっくりと席に座り直した。

「・・・5月頃に転院してきた、橘 朱莉って子の容態を教えてくれますか?」

「ま、松宮さん!ダメですよ! 直接的な事を聞くのは・・・」

「いいんだ・・・。お願いします。」

心配した様子で俺の腕を掴む杏花さんを、真っ直ぐ見つめたままそう押し切る。

紗月はじっと俺たちのやり取りを観察したあとで、建物の3階の辺りを指差した。


「あかりちゃんは、あの308号室にいます!今まで見た誰よりも特殊だなぁー。

2月に一酸化炭素中毒で倒れたんだけど、すぐに治療を受けたおかげか気管切開なしで自発呼吸もあるし、脳にも重大な損傷は全然見つからなかったの。

それなのに3ヶ月経っても意識だけが戻らなくて、お父さんがリハビリの充実してるここに連れて来たんだ。お父さんは自分も重い病気らしくって、最初は毎週のように来てたけど、ここの所は来れてないみたい。

そっかぁー!あかりちゃんは生霊だったのね!?

ここに転院してきた時にはもう離脱した後だったのかー。

看護師さんたちがね、いっつもあかりちゃんの事を『不思議だねー』って話してるの聞いてて、私もなんかおかしいなー?って思ってたんだぁー。」


「きょ、杏花さん!脳に損傷ないんだって!本当に今日戻れるかも・・・」

「わぁー!取り敢えず一安心じゃないですか!本当に良かった♪」

紗月の証言に安堵した俺が期待を込めて話し掛けると、杏花さんも満面の笑みで手を握ってきてそう答えてくれた。

「あ・・・でも、紗月さんやナースたちが感じた違和感って何なんでしょう?」

暫く喜びを分かち合って希望的観測を話した後で、杏花さんは不意にそんな質問を紗月に投げかける。


「あ、別にそんな重要な事じゃなかったの!

お二人に会ってなんとなく意味も分かったしね!

あのね、私の本体もそうなんだけどさ・・・遷延性意識障害って、症状の重さにもよるんだけど口からご飯食べるのって難しいの。だから、私は胃ろうって言う方法で、あかりちゃんは鼻からのチューブで栄養を摂ってるんだ。

でもさ、やっぱり生きていくうえで最低限の栄養だし、ステーキや唐揚げ食べれてる一般の人に比べて痩せるのが普通なんだけど・・・あかりちゃんはなぜか、いつ見てもあんまり外見変わらないんだよねー。ナースもびっくりしてた!

あー・・・あとね、先月の中旬に不正出血があって、暴行事件か!?って大騒ぎになったんだけど、防犯カメラに何も映ってなかった意味がやっと分かったわー!」


「え!?事件!?な、結局なにが原因だったの?」

不穏な響きの言葉に慌てて俺が口を挟むと、杏花さんは『だ、大丈夫ですから!』と叫びながら真っ赤な顔で手を振り回し、それ以上俺が質問するのを阻止した。

「ねー、やっぱりそういうシステムなの?イメージの伝達って凄いんだねー!

・・・まさか、出来ちゃったりとかは・・・」

「あーーー!それは無いです。そんな事が起きたら生物学の概念が崩壊します!」

「ふーん・・・まぁ確かに、さすがにそれは漫画の世界の話だもんね!」

「紗月さん!精神は15歳なんですから、そんな本読んではいけません!!」

「アハハ!きょーかさん、ママみたい!」

「あのですね、私はまだ25・・・」

 

 その後も、俺には良く分からない重要ではなさそうな会話を、とても楽しそうに二人は続けている。

なんだか居心地が悪いような気がした俺が、フラフラと花壇のパンジーを観察して歩くのにも飽きた頃、杏花さんの携帯に『ロビー戻ったけど、二人ともどこいったー??』と樫井さんからのメールが来た。

「松宮さん!面会済んだみたいです!」

そう言って携帯の画面を俺に見せると、期待に目をキラキラさせた杏花さんは残りの抹茶オレを一気飲みする。

「紗月さん!色々教えてくれて、本当にありがとう!」

俺もそう言って服についた枯葉を払って立ち上がり、杏花さんの身支度を待つ。

「あ、あの・・・。」

少し寂しそうな顔をした紗月は、感謝を伝える俺の手をなぜか握ってきた。


「・・・私、いつでもここに居ます。また聞きたい事あったら来てね・・・。」

「・・・?」

朱莉が戻れたらもう来ることは無いと思ったのだろうか?

結局、彼女の真意は聞けないまま『紗月ちゃんも頑張ってね。』と言い残して俺達は来た道を戻って行く。


 中庭の出入り口まで戻ってゴミ箱に紙カップを捨てた俺は、なぜか無性に紗月が気になって後ろを振り返った。

肌寒い木枯らしに薄手の患者衣を揺らしながら、活発な少女は積もった枯葉を舞い上がらせるようにフワフワと浮かんで遊んでいる。

無邪気な天使は楽しそうに舞い踊りながらも、急に切ない表情に変わって上の階の病室の方を見つめると、そこへずっと手を振り続けていた。

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