番外編 Moonlight Beast 後編

 22時を過ぎた豊洲の海岸公園は、数組のカップルが岸壁からレインボーブリッジを見ている程度の人通りしかない。

心許無い蛍光灯のみの薄暗い富士見橋の下では、スケートボードの練習を終えたらしい若者が一人で地面に座って休憩していたが、真っ白いドレスで泣きながら現れた杏花を見ると、すぐに立ち去ってしまった。

テレビ電話が繋がっている携帯を握りしめたまま、杏花は岸壁の柵に寄り掛かる。

煌めく様な夜景を写した黒い水面は、強い風のせいで時々白波を立てていた。

誠士達が来ていたと言う、対岸の小さな公園は暗くて人影までは確認できない。

こんなに夜も遅いのに、海上にはやけに海鳥の声がうるさく響き渡っていた。


――― 時刻 22:10 豊洲埠頭公園 


「やぁ・・・久しぶりだね。ここは本当に綺麗な場所だね!君の為にある様だ!」

階段をゆっくり降りて来た三上の声に、恐怖で顔を歪めながら杏花は振り返る。

逃走する気が無いのかパーカーにジーンズのラフな格好で、マスクなどは無い。

彼の落ち窪んだ瞳は酷い癖毛の下に隠れそうになっているが、外灯に照らされると獣の様に鈍く光る。

通話を終えた杏花は、電源を切るフリをして誠士に電話をかけバッグにしまった。

笑顔を見せる彼女はみずから階段の方へ進み、右手をスカートの裾に近づける。


 不意に、東雲運河の旧防波堤の木々が一斉に騒めきだして、返事をしようとしていた杏花は背後の海の方をもう一度見つめた。

三上も驚いて足を止めると、いぶかしむ様に暗い水辺を見据える。

「カラス・・・?再開の祝福にしては不気味な演出だね。」

彼がたいして気にも留めずにそう言い放つのを聞いた杏花は、震えを押さえきれなくなった両腕を腹の前できつく組んだ。

「・・・悪魔の様なあなたにはピッタリですよ。

どうしていつも関係ない人間を巻き込んで傷付けるのですか?

・・・どうしてあの時、私だけを殺してくれなかったの?もう15年ですよ?

こんな大事件にみんなを巻き込んで、今更何がしたかったっていうの!?」

怒りと共に段々と音量が上がった杏花の叫びは、橋の上を通過する車の音にかき消され、遠くの柵から海を眺めている人々は振り返ることも無かった。

三上は反論するつもりもないのか、不気味な笑みをたたえたまま階段を一段ずつ降りて来る。


「人形は、空っぽでないと美しくならないんだ。中身が何もない程身体は軽やかに踊り、余計な繋がりの糸がなければ、絡み合って動かなくなることも無い。」

「私は・・・人形なんかじゃない。」

杏花が唇を噛んでやっと絞り出した言葉を、三上の笑い声が掻き消していく。

「アハハ!自分では気付かない物さ。・・・ボクもね、何度も将来プリンセスになれそうな子供達を探しては、ガッカリする日々だったよ。

そんなある日、町の教会で保育園の園長のお葬式がやっていてね。そこで天使の様な女の子を見つけたんだ!白百合を手向ける君は、死んだ園長に話しかけただけじゃない。讃美歌の間もじっとパイプオルガンの上を見つめて手を振っていた。

あんなに純粋で穢れのない生き物が、そこら辺のゴミ達の様にさ・・・人との繋がりに飢えてどんどん汚れて行くなんて、絶対にあってはならない事だろう?」

三上は夜空に手を伸ばす様に天を仰ぐと、言葉に力を込めて杏花に笑いかける。

「家族や周りとの繋がりなんて、余計な自我を生むだけで美しい人形を作るのになんの意味もないものだ・・・だから君を一人にしたのさ。綺麗な空っぽの人形になった君を、すぐに迎えに行くつもりだったのに・・・。

もう一度会うために沢山の施設を探し回ったけど、それこそ天使の様に忽然と消えてしまった時は死ぬほど後悔したよ。悔しくて何匹のゴミを処分したかなー?」

「・・・なんてことを。あなたは自分の狂った欲望の為に、一体どれだけの人達のかけがえのない人生を壊してきたの・・・?」

杏花は震える声でそう呟くと、背後の柵に倒れ掛かりながら地面に膝をついた。


「狂ってる?分からないな。この世界の全ては優れたものにだけ与えられる。

ボクはゴミを処分してきただけだから、事実・・・今まで誰にも咎められることが無かったのさ。優秀な人間が自分にふさわしい人形を手に入れるのに、何も理由なんていらないし、邪魔をする奴はみんな消してしまえばいいだけじゃないか。」

三上が嬉々として持論を唱えているのを、杏花は憐れむように見つめていた。


「パパ、ママ、恵太・・・みんな優しくて、暖かくて大好きだった。

学校のお友達とも遊ぶ約束、沢山してたの。皆で同じ中学校に行って、部活や体育祭・・・修学旅行もしてみたかった。家族で一致団結して受験を乗り越えたりとか、初恋の話をママだけにこっそりしたりとか・・・。

女友達とお洒落をしたり、温泉旅行やプールや海にも行ってみたかった。

・・・こんなささやかな願いは、どうして何も叶わなかったんでしょうね?

人間は、誰かのおもちゃにされるために産まれる訳では無いんですよ。

・・・ましてゴミの様に処分していい人なんて、この世に一人も居ないんです。

あなたのような怪物には、何を言っても伝わらないですよね・・・残念です。」

思い出を噛みしめる様に語っていた杏花は、最後に語気を強めるとふらつく身体に力を込めてゆっくりと立ち上がる。


「こっちも誰かと分かり合おうだなんて望んでないんだ・・・。

大人になった君をネットの海の中で見つけた時に悟ったんだ。喪服みたいなドレスを着てまた天使とお喋りしていた君は、あの時と何も変わっていないと思った。

・・・でも違った。急に湧いて出てきた警察官を見る君の目は、そこら辺に転がってる女どもと何も違いはなかった。もうボクの求めているものはこの世には無いのだと、はっきり理解したよ。残念ながら君は魔女だった・・・それなら一緒に地獄へ落ちてあげようと思ってね。大丈夫、今日は苦しまない様にしてあげるから。」

三上は静かにそう言うと、黒いパーカーのポケットから大きなサバイバルナイフを取り出した。

革の鞘が歩道に落ちる音を聞いた杏花は、硬直した様に背中から柵に倒れ込む。

武器を掴もうとした腕は空を切り、思うように動かない。

彼女は死を覚悟した様に、顔だけは前を向いて三上を睨み付けた。


 一瞬、夜空に稲妻が光ったと杏花は思った。

バシュ!という空気を切る音が彼女の頬を掠める。

「うがぁぁぁーーー!!」

赤と青の閃光が三上の両眼を貫き、怪物が叫ぶような唸り声が埠頭に響く。

『アメ・・・ウカ?』呆然として呟く杏花が次に聞いたのは、天使の歌声だった。

声のする方を振り返った杏花は言葉を失って立ち尽くす。

対岸の公園とこちらの岸壁の間を通る、真っ暗な運河の真ん中に朱莉がいた。

彼女が歌に乗せて祝詞を紡ぐと、真っ白いワンピースは月明かりを弾く様に輝きを増していく。

赤と青の閃光は縺れ合う様にして朱莉の元へ飛んでいき、彼女を包み込む程に大きな白銀の光のベールを作り出していった。

あまりの眩しさに一瞬だけ瞼を閉じる。

静かな海岸に響き渡る獣の咆哮。恐る恐る瞼を開いた杏花の目に映ったのは・・・富士見橋の横幅をゆうに超える大きさの白狐と、その背に必死にしがみ付く朱莉の姿だった。

「うわぁぁぁ落ちるーーー!!そしてフワフワーーー!」

『あんた飛べるんだから落ちる訳ないでしょ!』『せっかく良い場面なのにナデナデしたら気が抜けちゃうんだのー!』獣の荒い息遣いと共に、朱莉の絶叫とアメとウカの突っ込みが混ざり合って夜空を駆け抜ける。


 それはまるで、丸くて大きな満月からの使者の様にも見えた。

軽々と旧防波堤の背の高い木々を飛び越え、停泊中の遊覧船や橋の上も超える高さに上昇した白狐の背では、長い黒髪を潮風になびかせた天使が微笑んでいる。

「今だ!!全員、光るキツネを追って飛んでいけっ!」

運河を挟んだ対岸の公園で、光に満ち溢れた夜空に誠士が叫んだ。

何も見えておらず、朱莉たちの声も聞こえていない三上は、誠士の叫びで仲間の存在にやっと気付く。

「う・・・警察・・・?はぁ・・・違う、警察はフラッシュライトは使わない。」

息も絶え絶えな三上は目を擦りながら、対岸を見つめてナイフを再び握りしめる。

「朱莉ちゃん!松宮さん!ここです!助けてっ・・・。」

杏花は動く様になった脚を引きずる様に走り出す。対岸に向かって叫びながらバッグの中から携帯を出し、カメラのライトをつけて頭上に掲げた。

柵を掴みながら逃げていく杏花を三上が追い始めたその時、強力な懐中電灯をつけた誠士の手の動きに合わせて、水面から何百という水鳥が飛び立った。

強い光線は光る剣の様に、真っ直ぐにこちらを向く。

光を追いかけて飛ぶ水鳥は、ギャーギャーと鋭い声を上げて杏花と三上の間に舞い降りると、蠢く壁となって二人を遮る。


 空からは銀色に光る白狐が、無数のカラスを纏って杏花の目の前に降り立った。

「うわぁぁ!クソ!何なんだこいつら・・・。死ねっ!」

三上がナイフを振りまわし、爪を持たない水鳥は悲鳴と共にバラバラに逃げて壁は少しずつ崩れていく。

数羽の鳥が犠牲になって白い羽が舞い散り、鮮血が道に広がった。

「カモメ隊撤収!行くぞ野郎どもー!」

矢ガラスの濁声が響くのを合図に、小さな鳩に先導されてカモメは黒い海を渡って行く。三上の鋭い眼光が一瞬だけ杏花を捉え、彼は何かを叫んだ。

しかしそれは、すぐに無数のカラスについばまれる悲鳴へと変わっていく。

岸辺の遊歩道を埋め尽くす程に巨大な白狐は、その様子を見てニタァと真っ赤な口を開いて笑うと、『天罰だ・・・』と呟いた。

恐がることも目を覆う事もせずに、朱莉は真っ直ぐに杏花を見つめて凛々しい笑顔を見せる。

「か・・・かっこいい!凄い!凄いですよ皆さん!・・・本当にぶほっ・・・」

「うわーーー杏花さん!鼻血吹いちゃってますっ!!あーー・・・カラスさんたちも人を殺してはダメです!戻りましょう・・・私についてきて下さいっ!

杏花さん、香苗さんが警察呼んだのでもうすぐ来ます。早く逃げて下さいね!」

あまりに現実離れした光景に、興奮の極みに達した杏花が鼻血を噴き出した。

朱莉は慌てて白狐を操りながら、誠士のいた方の岸辺へと運河を渡って行く。


 カラスたちが飛び去って行ったあとの遊歩道に残された三上は、服に覆われていない場所全てから血を流して地面にうずくまっていた。

杏花はその場から立ち去りながら、震える指で携帯の110番を押す。

繋がった先の声と話そうと彼女が口を開きかけた時、反対側の道の奥から現れた誰かが三上に近寄るのを発見して、思わず携帯を道に落とした。

「あのぉ・・・大丈夫ですか?」

犬を連れた中年の女性は、三上の手に握られたナイフに気付く事も無く、急病だと勘違いをした様に倒れている彼に手を差し伸べる。


 一瞬、三上は地面から顔を起こすと、杏花の目を見て不気味な笑顔を浮かべた。

「ダメ!その人から離れてっ!」

血だらけの杏花の絶叫に驚いて、三上から2メートル程手前で女性は固まった。

白い柴犬が狂った様に三上に吠え、女性は後退りを始めたが、フラフラと立ち上がった彼の手に握られたナイフを見て腰を抜かすと、道端に倒れこんだ。

杏花は走って逃げてきた道をまた戻る。

振り返って満足げにその様子を見て笑う三上は、ゆっくりと女性にナイフを振りかざしながら近寄っていく。

「きゃぁぁぁーーーー!!やめてぇーーー!」

女性が暴れながら泣き叫び、目を閉じる。自分のすぐ後ろまで迫ってきた杏花の足音を聞いた三上は、満面の笑みでナイフの向きを変え背後を振り返った。


――バチッ!!

青白い閃光を放つ警棒を振りかざした杏花を見て、その笑顔は一瞬で引き攣る。

「くそやろぉぉぉがぁぁぁーー!!」

大声を上げて駆け寄った杏花は、深い切れ込みの入ったドレスの裾を舞い上がらせ、恐怖に歪む三上の首元に迷いなくスタンガンを突き出した。

弾かれた様に後方へと吹き飛んだ三上は、声も無く地面をのた打ち回る。

「早く逃げて!警察を呼んでください!」

杏花に手を差し伸べられた女性は、鼻血にまみれた彼女の顔と赤く汚れたウエディングドレス、手に持ったスタンガンを交互に見る。

混乱した表情になった女性は咄嗟に犬を抱えると、半狂乱で広場へ続く階段を駆け上がって行った。


 人を助けたことで安心したのか、杏花は急に力の入らなくなった脚を縺れさせ、そのまま冷たい歩道に倒れこんで気を失った。

手から滑り落ちたスタンガンが柵の方へと転がっていく。

無数に散らばっているカモメの白い羽が、フワフワと舞って杏花の素肌に積もる。

「・・・うぅ・・・ほ、本物の天使だぁー!アハ、アハハ!アヒャヒャ・・・」

発狂して笑い転げた三上は、地面を這いずる様にじりじりと杏花の元へ進む。

杏花の首筋にナイフの切っ先が届くまで、あと僅かな距離まで迫る。

込み上げる感情に肩を震わせながら、彼はゆっくりと腕を伸ばした。

急に背後の階段で重たい何かが地面を叩きつける音がして、三上の動きが鈍る。

『動くなっ!』という鋭い牽制に警察官だと確信した三上は、想いを遂げようと右手を精一杯に伸ばし、一気にナイフを杏花の顔に振り下ろす。


――バキッ

三上は自分の肩から首筋にかけて、聞いたことのない音が通り抜けるのを感じた。

数秒遅れて、自分の背中に乗った何かに、右腕を関節とは逆に捻り上げられている事に気付く。

力の抜けた手からナイフが落ち、想像を絶する痛みに襲われてもまだ、彼は諦めがつかない様子で暴れ、そのまま杏花に近づこうとする。

「動くな三上ぃーーーー!!」

聞き覚えのある声に反応し、うっすらと瞼を開けた杏花は、変な方向に折れ曲がった三上の腕ごと、パーカーの襟元を締め上げる樫井の姿を見た。

頸動脈が服の襟で締まったのか、錯乱していた三上の意識はゆっくり落ちていく。


 もう抵抗しない事に気付いた樫井は、少し力を抜いて辺りを見回す。

真っ白なドレスを血に染めて動かない杏花を発見すると、だんだん乱れていく呼吸を制御出来なくなったように胸を押さえる。

彼は息を整えるために暫く空を見上げた後、自分を蔑むように小さな声で笑った。

悲しい笑顔のまま地面に伏せる三上に視線を落とした樫井は、きつく唇を噛み締めながら、もう一度彼の服を引っ張る腕に力を入れ始める。

「や・・・めて、樫井さん・・・」

杏花が絞り出すように呼び掛ける言葉は、樫井には聞こえていない様だった。

意識の無い人間の首を絞め続ける彼の顔は、杏花が見た事のない表情に変わる。

ぼんやりとした月明かりに照らされた虚ろな目には、もう正義の光はない。

深い悲しみを湛えた殺意は、人に牙をむいた罪で殺される悲劇の物語のモンスターの感情そのものだ。


 杏花は太腿に隠していたフラッシュライトを辛うじて動く右手で掴むと、樫井の顔の高さに向けて照射した。

瞼を閉じていても感じる強い光が辺り一面に広がって、どさっと何かが倒れる音がする。

再び彼女が顔を上げると、三上の横に倒れこんでうずくまる樫井の姿が見えた。

眩しさで目を覚ましたのか、意識の戻った三上もひどく咳き込み背中を丸める。

「樫井先輩!大丈夫ですか!?至急至急!海岸通り、富士見橋下に応援要請!」

階段を駆け下りて来た相棒は、落ちていた三上のナイフを遠くへ蹴るとすぐに無線で連絡をして、手錠を取り出して時刻を確認する。

「うぅ・・・。ごめん石川、そいつ右腕外しちゃった。はめてからワッパして。」

樫井はそう呟くと、目を擦りながら立ち上がり杏花の元へ歩み寄った。

彼女の傍らに座り込んで背中から包み込む様に上体を抱き起すと、震える手でそっと首に触る。

「・・・生きてますよ。これは・・・鼻血です。」

そう言って杏花が自分を抱きしめる大きな手をそっと掴むと、微かな嗚咽とともに首筋に温かい水滴が落ちてくる。

驚いた杏花が振り返ろうとしたのと同時に、腕を整復された三上の絶叫が遊歩道全体に響き渡った。


 すぐに沢山の警察官が走って来て、三上と石川巡査を取り囲み状況を確認した。

何人もの機動隊や制服警官に抱えられた三上は、最後の抵抗を続けては樫井を睨み付けて喚き散らしている。

「天使に触るなっ!・・・それはボクの人形だぞ!お前、絶対に殺してやる!」

狂った様に叫び続ける三上に憐れむ視線を向けていた樫井は、長い溜息をついた。

「・・・うるせぇ。俺のだ・・・クソ野郎。」


 大勢の人間の怒鳴り声に掻き消されて、樫井の呟きは三上には届かない。

しかし、彼の腕を掴む杏花の手には、言葉に応える様にぎゅっと力が込められた。

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