番外編 二つの叫び

 赤い屋根の家の周りには、シルバーの乗用車が1台あるのみで人影は無い。

朱莉は小さな庭から窓を覗くが、電気はついておらず薄暗く静まり返っていた。

2階に浮かんで確認してみても、カーテンが閉まっていて少年の姿は見えない。

意を決して玄関をすり抜けて中に入ってみると、薄暗いリビング奥の階段の上から、何やら小さな呻き声が聞こえてきた。

『おじゃましまーす。誰かいますか?ちゃんと無事に戻れましたかー?』

朱莉はゆっくりと階段を上って廊下を進みながら、声の出所の部屋を探す。

やっとその場所を見つけて目にしたのは、病院にあるような柵付きの白いベッドからずり落ちて這いずる少年の姿だった。

「う・・・うぅん・・・くはぁ・・・。」

慌てて駆け寄って手を差し伸べるが、霞を掴んだかのように手は彼の身体をすり抜けた。顔の前で声を掛けても少年は朱莉に気付きもしない。

『ねぇ、大丈夫?どうしたの!?・・・あれ?私のこと見えなくなったの!?』

朱莉は少年の向かおうとしている視線の先、廊下の反対側の部屋の扉を見る。

動かない身体を引きずって進む少年の、尋常ではない様子に何かを察した朱莉は、

彼の目的の場所らしき部屋へ駆け寄ると、勢いよく扉を開いた。


 そこには、カーテンレールにロープを巻き付けて、今まさに首を吊ろうとしている女性の姿があった。

朱莉を認識できない様子の女性は、急に開いた扉に驚きその先を凝視する。

自室から廊下に這って出ようとしていた少年は女性と目が合うと、急に胸を押さえて苦しみだした。

喘ぐ様な彼の呼吸は短く弱くなっていき、うつ伏せで倒れたまま動かなくなる。

『えーーっ!?何・・・ど、どうしたの!?』

朱莉の叫び声は、少年にも女性にも届いてはいなかった。

しかし、目の前の少年に驚いた様子の女性は『ま、護!?目が覚めたの!?』と

半狂乱になりながら少年に駆け寄って抱き起そうとする。

少年を仰向けにして顔を見た女性は、完全に息をしなくなって唇が紫色に変わった彼を抱きしめて絶叫し、大声を上げて泣き出した。

そして『あぁ・・・護!ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい・・・母さんもすぐに・・・。』と言いながらフラフラと立ち上がる。


――向かう先はあのロープの下だ。

そう思った刹那、朱莉の全身の血液は逆流し、沸騰するかの如く熱を増した。

朱莉は母親より先にカーテンの元へ飛んでいくと、思いっきりカーテンを引っ張ってプラスチックの留め具ごと引きちぎる。

そのまま、呆然と立ち尽くす母親には構うことなく、テーブルに置いてあった重たい大理石の灰皿を、力の限り窓ガラスに投げつけた。

『死ぬなんて・・・許さないんだから!誰かっ・・・気付けぇぇーーーー!』

朱莉の叫びに呼応する様に、部屋を狭く閉ざしていた窓ガラスは粉々に砕け散る。

薄暗い部屋を強い風が吹き抜けると、カーテンレールのロープは開け放たれた2階の窓から、大空へと舞い上がっていった。



――― 時刻 12:15 柳瀬家前


 柳瀬家と隣の民家の間に車を停めて、晴見巡査はエンジンを切った。

少し開けた窓から樫井は赤い屋根の一軒家を見つめる。

「昼間だから電気は消してても居ないとは限りませんよね。」

「長男・・・護は、腰椎の骨折だったよな?脊損もあったのか?」

樫井は令状発行の連絡を待ちわびる様に、携帯を握りしめながら晴見に尋ねた。

「はい。両下肢麻痺ですね。この子、調べれば調べるほど可哀想なやつでした。」

「麻痺か・・・車なしでそんな状態の息子を連れ回して逃げるわけないよな。

真理子は絶対家か近所に居るはず。家に異変は無いし、令状待ちか・・・。

護は、事故以外に何かあったのか?」

晴見は携帯で何かを検索しながら溜息をついて話し始める。

「ここの元凶は親父ですね。家族の通院履歴で見れば、かなりのDVとモラハラがあったとみて間違いない。護の学校の担任に電話で確認した話ですけど、高校の入学当時から、15歳からは働いて家を借りれないのか?妹と行けるシェルターを教えてくれ。などと、度々相談していたそうです。しばらくして不登校になり、冬に凜ちゃんが亡くなった後は完全に家出状態でした。

家出中に強制性交ツッコミの被害にも遭ってます。母親が世田谷署を訪れて訴えたのですが、すぐ父親が連れ戻して被害も無かった事にされたみたいですけど。

階段からの転落事故は・・・その翌日です。」


「えっ・・・被害に遭った?やった方ではなく?」

呆然とする樫井に晴見が見せたネットの掲示板には、【家出中の美少年を泊まらせてあげて〇っちゃいましたー】という文章と共に、部屋の隅で座り込む少年の写真が貼られていた。目を隠す加工をしているが、どう見ても香苗の描いた護の顔だ。

怯えた様に膝を抱え、捲れた学生服の下の細い腹は青アザで埋め尽くされている。

「ふ、ふざけんな!なんでこれでパクれねーんだよ!」

「泊まらせてもらったお礼として、フェイク動画の作製には協力したが自分は本当は何もされてません・・・と父親と一緒に説明して、相手もその主張に乗った。

・・・といったところでしょうか?吐き気がします。」

溢れる憤りを隠そうともせず、何度もダッシュボードを叩く樫井を見た晴見は、『・・・俺、先輩のそういう熱い所、尊敬してますよ。』とだけ言うと、ポケットに携帯をしまって目を閉じた。


――ガシャン!

突然、近所の人も窓から顔を出すほどの大きな物音が住宅街に響く。

樫井は何も声を出さずにすぐに車から飛び出した。

晴見は運転席のドアを開けて顔を出し、赤い屋根の柳瀬家の2階の窓が大きく割れているのを確認すると、近くに待機しているパトカーに無線連絡する。

携帯で井上課長に電話を入れて、樫井について行くように指示を受けると、すぐに家の前に走って行った先輩の後を追った。

「クソ!開かねーな。・・・おい!誰か居るのか!?柳瀬さん!大丈夫ですか?」

樫井は玄関の扉を引いて施錠されてるのを確認すると、小さな庭に入って行って2階の窓に向かって叫んだ。

住人は何の返答もしない。

砕けたガラスと共に丸い結び目のあるロープも庭に落ちている。

以前はプランターで花を育てていたのだろう。塀の内側には枯れ果てた茶色い草が生えるのみの汚れた鉢植えが並ぶ。

縁側に上り大きな窓からリビングの中を覗くと、散らかり放題の食卓が見えた。

大きな祭壇には怪しげな法具類が並び、遺影の中で少女が微笑んでいる。


「先輩!誰か居ましたか?・・・今、応援が来ます。中に真理子を発見次第、入っていいと課長が・・・。」

晴見がそう言いかけた言葉を、ドタドタという大きな物音が掻き消した。

部屋の奥に目を向けると、階段を転がる様に駆け降りる女性の足が見える。

「柳瀬真理子か!?何があった!?」

樫井が窓を叩いて叫ぶが、何も聞こえない様子で慌てる真理子は、階段の上を振り返って見つめたまま降りようとして、最後から3段手前の所で足を踏み外した。

転がり落ちた真理子は、階段の先の壁に頭から突っ込んでそのまま倒れこむ。

「晴見!救急車呼べっ!窓割るから、上に連絡も頼む。」

「了解。」

晴見は携帯で電話しながら縁側から飛び降り、樫井から離れる。

樫井はジャケットを手に巻き付けると、植木鉢を掴んで窓の鍵付近を叩き割った。

鍵を開けてリビングに侵入し、奥にある階段の下で動かない真理子の肩を叩く。

「柳瀬さん!大丈夫ですか?今、救急車呼んでますよ!」

真理子は少し唸り声を漏らしたが、目を開けられそうにない。

飛び込んできた晴見が、真理子の手と足が動くことを確認すると『首は折れてない様ですね。』と言った。

ガシャン!!バタッ・・・ゴン!2階では今も、物凄い騒音が続いている。

「俺は息子を見に行く。お前はこのまま柳瀬さんを頼む。」

晴見が頷くのも待たず、樫井は階段を飛ぶように駆け上がっていった。


 2階の廊下は酷い荒れようだった。

ポルターガイストの様に奥の部屋から物がふわふわと飛んできては、壁に当たって壊れる。

「護か!?やめろ!もう大丈夫だ!お母さんは助かった!」

樫井がそう叫ぶと物音はピタっと止まる。

急いで窓が割れた部屋へと向かった樫井は、その反対側の部屋のドアから覗く青白い手を発見した。

「うわっ・・・おい!護か!?一体どうしたんだ!?」

庭のロープを思い出し首を確認したが、不思議と吊った様な骨折や索条痕は無い。

呼吸も心拍もないが、唇はまだ紫で体温も残っていた。

【5分前に、胸を押さえて倒れました。】

目の前にメモ帳の切れ端が浮かんでいる。若い女が書いた様な丸い文字だ。

樫井は黙ってメモを掴みポケットに入れると、パジャマ姿の護の前開きボタンを引き裂くように胸を露出させる。

アバラの浮いた胸に動きはない。すぐに心肺蘇生を開始した。

「お母さんは、首吊ってねえぞ!お前が戻ったの見て、助けを呼びに行こうとしてたんだ。お前が死んでどうすんだよ!」


 胸部圧迫しながら声を掛け続け、口から空気を送り込む。

「先輩!救急車来ます!」

階段の下から晴見が樫井を呼んだ。サイレンの音が近付いてるのが聞こえる。

『晴見ー!上の方が重症だ!消防すぐに連れてこい!』と樫井は叫ぶ。

滴る汗で手が滑りそうになりながら、必死で護の胸を押し続ける。

「家族ってのは、誰が欠けても世界は変わっちまうよな・・・でもな、お母さんの希望はもうお前しかいないんだよ。大丈夫・・・もう絶対、絶望させない。

お前達が安心して暮らすために、俺が最後まで戦うって約束する!

戻れ、戻れ、戻れ・・・た、頼む・・・護! 生きろぉぉぉーーー!!」

樫井は全身の体重をかけるように胸を押して叫び、護の顔を両手で包み込んだ。


 ビクン!と護の身体が跳ねるように波打つ。

「げふっ・・・うぇっ・・・」

口の奥を切っているのか、血痰を吐きながら護は再び呼吸を始めた。

『ご協力ありがとうございます!代わります!』そう叫びながら、担架を持った救急隊員が何人も階段を駆け上がって来る。

すぐに立ち上がって場所を譲った樫井は、護が搬送されるのを見送った後で、ゆっくりと長く息を吐きながら廊下の壁にもたれて座り込んだ。


 流れる汗を拭った後も、樫井はなかなか立ち上がることが出来ない。

階段を急いで上がって来て樫井に声を掛けようとした晴見にも気付かず、かすれた声で独り言を呟き始めた。

「朱莉ちゃん・・・だよね?まだここにいるー?おっさん腰抜けたわー。

あの子助かったの、朱莉ちゃんのおかげだよ。頑張ってくれてサンキューな!」

樫井はそう言うと、ハイタッチを要求するように右手を顔の前に掲げた。

フワッと、温かい感触が掌を撫でる。

「あぁ・・・みんな生きてんだな・・・。」

そう言って一人で泣き始めた先輩を、晴見は唖然として見つめていた。

「あ、あの・・・先輩、取り敢えず休暇の申請しましょう。」


 騒然とする柳瀬家の前を通り過ぎ、刑事2人は自分たちの車に戻る。

晴見に背中を押され助手席に座らせられる瞬間、向かいの通りに誠士を見かけた。少し焦った表情で空中に向かって話した後、自転車にまたがって後ろを振り向く。

必要以上にゆっくりと漕ぎ出した彼の姿を見て、樫井はくすっと笑う。

「先輩・・・寝ててください!」

「・・・はいはい。」


 シルバーの覆面パトカーは、人波をかき分けてゆっくりと発車した。

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