第9章 天使

番外編 Angel’s ladder

 自分の額が当たっている壁の温かさに驚く様に、朱莉はパチッと目を開けた。

目が覚めて最初に見たのは誠士の大きな背中。場所が狭かったからか、いつものようにうつ伏せではなく、横向きに寝ているらしい。

状況を把握できず、真っ赤な顔を隠す様にタオルケットを頭まで被って考える。

暫くして顔だけ出すと、込み上げる嬉しさを抑える様にすぅーと息を吸い込んだ。

壁際に寄って隙間を空けてあげると、彼は少し荒い息遣いをして朱莉の方を向く。

ケガもなく安心して寝ているという事は、少年を無事に説得したのだろう。

『ありがと・・・頑張ったね。』朱莉はそう呟いて、少し誇らしげに微笑んだ。

瞼にかかる位の長い前髪が汗で乱れている。

ぺたっと張り付いた彼の前髪を、朱莉は指先でそっと額の方にかき上げた。

本人が気にしている、パッチリとはしてない奥二重は寝不足でさらに腫れぼったくなっていたが、なぜ隠しているのか朱莉には不思議に思えて仕方ない。

頭だけ持ち上げて見てみると、壁掛けの時計は11時を指している。

窓の隙間から見える朝日はもうだいぶ高くなっていた。


 慌てて帰って助けてくれた後、どれくらい少年と話していたのだろうか?

疲れ切った様子の誠士は、昨日の服のままで眠り続けていた。

彼の髪を撫でながら、寝息を立てている口元をじっと見ていた朱莉は、急に胸を

ぎゅっと押さえて苦しげな吐息を漏らす。

何かがうずく様な、ソワソワした衝動に駆られた彼女が脚をよじるとベッドが軋み、

タオルケットが身体に絡まる。

慌てるように頭を横に振った朱莉は、物理の法則を無視してふわりと部屋の真ん中に浮かんだ。

散らかった部屋を見渡してから床に降りると、静かに片付け始める。


 壁のラックに私物を戻している時、ふと彼と出会ったばかりの頃を思い出す。

突然現れた居候に戸惑った誠士は、最初は食器さえ増やそうとはしなかった。

この部屋を朱莉がすっかり女子仕様に変えてしまった事実に、今更気付かされて

申し訳ない気持ちが沸き上がる。

「ん・・・あ・・・」

掃除する物音が耳障りだったようで、不意にうなされた誠士は壁側に寝返ると、

胎児の様に丸まった姿勢になってしまった。

くしゃくしゃになったタオルケットを身体に掛け直しながら、ベッドに寄りかかると彼の肩に額をあてて風の様な呼吸の音を聞く。

少し汗ばんだシャツが頬に触れても、その匂いに不思議と嫌悪は感じない。

小さな、囁く様な声で『・・・私の事どう思ってる?』と朱莉は聞いてみた。


「あ・・・・・し・・・る。」

もぞもぞとシーツを掴みながら、彼は少し苦しげに答える。


「えっ!足がる? うそ、大丈夫!?・・・あれ?うーん、なんだろう?」

思いがけなく返ってきた言葉はどうやら寝言だったらしく、もう反応はない。

諦めて残念そうに溜息をついた朱莉は、彼が起きた時の為に米を炊いておく。

軽く身支度を済ませた朱莉は、窓をすり抜けてベランダから青空へと飛び立った。



――― 6月14日 月曜日 陽光が降り注いで気温が上がり始めた朝


 緊急の捜査会議は今野係長の的外れな推測のおかげであまり進んでいなかった。

痺れを切らした晴見が今野ではなく、井上課長の席に直接資料を渡しに行ってしまったのを見て、樫井は係長の怒りが確実に自分に飛び火する事を覚悟した。

ポケットの携帯が震えるのを感じて、トイレに立つフリをして部屋を出る。

【松宮です。少女と筆談して分かった事なので、証拠はありませんが川島は自殺です。カメラとかあればいいんですが。少年を説得して母親の元へ帰らせました。

母親は自分が人を殺したと思っているので、少年も巻き込んで自殺する危険があります。ちなみに父親は川島が自殺した日から行方不明になっています。

最後に少年が教えてくれましたが、杏花さんのストーカーのハンドルネームは、【パペットマスター】そいつとのメッセージのスクリーンショットが彼のパソコンに保存されていて、パスワードは【RIN0614】だそうです。】

誠士の説得のおかげで少年は改心し、協力的になってくれている様だ。

大人の都合に振り回されたまま苦しんでいる子供を、このまま見殺しになんて絶対に出来ない。どうにか上を動かす方法はないものか・・・樫井は拳を握りしめる。


 樫井が部屋へ戻ると、そこはボヤでも起きたかの様に騒然としていた。

青い顔をした晴見が駆け寄ってきて、早口で説明を始める。

「先輩!まずいっす・・・柳瀬 裕史ひろふみ、真理子の夫が先ほど新宿で見付かりました。

7時頃、ビルからの飛び降り自殺が発生。男の所持品を調べた新宿署が、妻の真理子と連絡が取れなかった為、近くに住む親戚に連絡・・・確認して判明。」

「・・・。」

樫井は黙って頷くと、会議中の席に急いで戻って手を挙げた。

「柳瀬家では長女の事故死の前にも母親による通報歴があります。事故から間もなく長男も大怪我をして長期入院しており、家庭に問題があったのは明白です。

善命会の宝来への傷害容疑との繋がりが全て把握できていなくても、母親による無理心中計画の危険もあるし、なんとか家入れませんか?」


「・・・よし。傷害の逮捕状はまだ出来てないけど、見回りってことで・・・

先にお前らで行って待機してろ。柳瀬の周りでゴタ起きてそうな様子が外から見て

分かったら、家入って任意で引っ張れ。すぐに応援も送る。」

井上課長が樫井と晴見を手招きしてそう指示を出す。

「旦那が新宿で死んだなら、新宿付近当たった方が良くないですかね?

案外、旦那と死にきれなかった真理子が見つかるかも知れないですし。」

今野は樫井たちが違法に突入するのを恐れているらしく、外堀を埋める案を出す。

「・・・大怪我の長男だけ家に置いたまま飛ぶか?母親ってのはな・・・死にたくても最後まで子供の事で悩むもんだろうが。お前はもっと人を知れ。」

井上が今野に冷たく言い放つと、部屋は水を打ったように静まり返った。

晴見がチラッと樫井の顔を見る。声に出さずに口を『先輩の勝ちですね!』と動かして満面の笑みだ。

樫井は呆れたように溜息をついて、出発の準備を始めた。



――― 時刻 11:50 踏切前


 ガタンゴトンという騒音と共に生温くて土臭い風が吹き抜ける。

杏花の家の近くの踏切を空から見つけた朱莉は、そっと道路の端に舞い降りた。

「おはよう!初めまして。うわぁー可愛いお花だね♪」

電柱の陰で花束を見ている少女に近寄って声を掛けると、彼女は驚きの表情を浮かべる。

「え・・・んい?」

「おててに、字を書いてもらえるかな?」

朱莉は優しく微笑むと、左手を少女に差し出した。

(てんし?)

「?てん・・・天使か!違うよー!この前お兄さんと刑事さんが来たでしょ?

その人たちの、お友達♪あかりっていうの!あなたのお名前は?」

(りん)

「りんちゃんね!私、りんちゃんのお家に行きたいの。近くまでで大丈夫だから、

案内頼めるかな?」

「・・・。」(いいよ)


 少女は朱莉の手を離すと、線路の反対側を見つめて前に進もうと方足を出す。

遠くのカーブからガタガタと大きな音を立てて、また電車が近づいてきた。

唇を噛み、震えて動かない足を何度も手で叩く少女を、朱莉は静かに抱きしめる。

「ねぇーりんちゃん!おねーちゃんとお空でダンスしよ♪」

朱莉は少女の手を取ると、フワッと空高く舞い上がる。

家並みも車もミニチュアの様になり、人影はアリのようだ。

「みて!雲触れそう♪あっ!今ねー、鳩さんも見えたよ!ほらあそこ!」

朱莉の笑顔につられるように、少女もえくぼを作りながら繋いだ手に力をこめた。

「アハハ!飛行機にぶつからない様にしないとねぇー!」

線路を遠く越えた辺りでふわふわと住宅街に降りながら、朱莉は少女と両手を繋ぎ直し、クルクルと回りだす。

有名なのに曲名を知らないクラシックの旋律をハミングで歌い出し、続きが分からなくなって途中で諦める朱莉を見て、少女はお腹を押さえて笑い転げた。


 ごぉーという風の声だけが響く中に、次第に街に溢れる生活音が加わっていく。

空を振り返ると、高く上った太陽が雲の隙間に天使の梯子を下ろす瞬間が見えた。

「綺麗だねぇー・・・りんちゃんーー近くに行ってみようよ!」

その光を滑り降りる様に触ってみると、てのひらにじわっと暖かさが広がっていく。

陽光の熱が、湿った梅雨空の雲の匂いが、鳥たちの羽ばたきの音が、命の輝きに溢れていた。

少女も手をかざして朱莉の真似をする。

しかし、何も感じなかったのか、不思議そうにじっと彼女の行動を見つめていた。


 だいぶ地面が近付いて来たのだが、あちこち飛び回って方向感覚を失った二人はこの道はどこかなー?などと、キョロキョロしながら建物を眺めて浮かんでいた。

不意に少女が手を強く引っ張り、朱莉を赤い屋根の一軒家に導いていく。

「ここのお家かな?本当にありがとう!」

コクっと少女は頷くと、朱莉の手に(たのしかった またあそんでね)と書いた。

少女は何度も振り返りながら、にこやかに手を振る。

『またすぐ行くからねー!』朱莉がそう言って手を振り返すのを見届けた後、彼女は他の家々の間を通り抜ける様に、すーっと消えていった。


 朱莉はどうしたものか?と家の周りをフワフワ漂いながら、考えを巡らせる。

香苗が病院で意識を取り戻した時は、かなり錯乱していたらしい。

誰かが傍に居ないと色々大変そうだし、あの少年は大丈夫だろうか?

本当は少し怖い・・・そう思った。

もし、もう一度顔を合わせた少年が敵意を向けてきても、颯爽と現れ助けてくれるヒーローはここにはいないのだ。

でも・・・と朱莉は考え直し、首を横に振る。

あんなに可愛い妹の事を大切にしていた少年を、信じたい。


 朱莉は胸に当てた拳をぎゅっと握りしめる。

そして、幸せそうな顔で子供の様に眠る、世界一優しいヒーローが助けようとした

あの少年を信じる事に決めた。

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