どうにも出来ない

 空中に浮かぶひと口コロッケに、誰も触っていないのにどんどん減っていき、

氷だけになったウーロン茶のグラス。

テレビでやってたら怪奇現象ドッキリ映像でしかないが、樫井さんは至って平然と

受け入れており、今日も凄いペースで飲んでいた。


朱莉あかりちゃん!?コロッケにレモンかけんのかよー!酸っぱくない?」

向かいの席を見て樫井さんが話しかける。空中で齧られていくコロッケの位置で

朱莉の位置を認識したらしかった。


(樫井さんのふところの深さは・・・マリアナ海溝くらいだな。)


 俺が生霊の姿が見えるようになりたての時は、ずいぶん酷い態度で朱莉を泣かせていたのに。見えもしないのにあっさり信じて、さらに友好的に接する事が出来るなんて・・・俺が女の子だったらきっと好きになっていただろう。

頭の中ではそんなことを思いながら、俺は朱莉の返事をパソコンのWordの画面に

書き起こしていく。

【こうすると、揚げ物がサッパリするんです。樫井さんも良かったらどうぞ。】

そう言って朱莉はレモンを差し出す。

樫井さんは画面を見てから、空中に浮いたくし切りのレモンを受け取る。

樫井さんの大きな手が朱莉のてのひらをぎゅっと包み込んだ。


「ありがとねー朱莉ちゃん!おじさんの胃もたれに気を使ってくれて♪」

「樫井さんは若いですよー!全然、誠士せいじくんと年変わらなく見えます!」

朱莉はとびきりの笑顔で話している。


俺は朱莉のその言葉を書き起こさなかった。

なぜかその光景を見るのが嫌で、ふと杏花きょうかさんの方を見遣みやる。


「なーんで食べないのー!?生霊の食べたエネルギーはそのまま肉体の幸福感に繋がっているんですよぉ?香苗さんガリガリじゃないですかー!」

杏花さんは少し酔ってきたのか、必死に香苗にコロッケを食べさせようとして騒いでいる。

「しつこいなぁー酔っ払いドレス女!私の本体は幸福感なんてどうせ理解できないのに食べる意味ないでしょー?」

香苗はそっぽを向いて拒否していた。

説得するのに必要かもしれないので、俺は香苗の言葉をパソコンに記す。

樫井さんはパソコンを覗くと、とても悲しげな顔をして杏花さんの方を向いた。


「香苗さん・・・俺、裁判にも行かなくて、施設行く前に倒れたのも知らなくて、

本当に申し訳なかった!」

樫井さんは掘りごたつから足を出すと、畳の上に正座した。

そして両手の拳を膝に乗せて、床に付きそうなくらい頭を下げる。

俺は樫井さんの肩に手を置いて、顔を上げてパソコンを見る様に促した。


【あんたに悪気がなかったのも、私が自殺しようとしなければこんな事になってなかったのも、分かってる。でも・・・戻るのは無理だよ。

あんなに辛いだけの人生なんて、人形に代わりに過ごしていてもらいたい。】


香苗が初めて本音を話したような気がする。

いつもの尊大な態度や嫌味は影を潜めていた。

樫井さんは画面を見て少し考えていたが、ゆっくりと口を開く。


「俺な、香苗さんの入院している病院に行ってきた。措置入院だが他害の恐れはないと言われて・・・面会できた。」


「!!?」

その場にいた全員が驚き、樫井さんの顔を見つめた。


「は!?何勝手なことしてくれちゃってんのー?抜け殻に会って話し合おうとでも思った?ムリだからーーーあんなの只の肉の塊なんだよ!」


香苗が大声で叫ぶ。部屋の空気が一気に冷えていく。

怯える朱莉を杏花さんが抱きしめていた。


「タダの抜け殻のままにしてるのはお前だろ!?何ヶ月も入院してれば離脱症状は治まってるんじゃないのか?執行猶予なら本来は檻の中に居る必要もないんだろ?

お前の身体は、鍵のかかった病室でずっとを待ってるんじゃないのか?」

香苗の甲高い声で嫌な記憶が蘇り、また暗闇へ引っ張られそうになった俺は、

言葉をパソコンに入力もせず、強い口調で香苗に言い返していた。

樫井さんは話の流れを察したようで、後に続いて口を開く。


「最近、肩軽かったし香苗さん近くに居なかったのは知ってた。

戻れたのかも知れないと思って・・・自分の目で、確かめたかったんだよ。」


【香苗はどう過ごしていたのだ?】

御影が香苗に優しく語りかける。なにを話せば良いのか混乱している様子で、

肩で息をしている香苗の膝の傍まで歩いていき、隣で丸くなった。

震える手で香苗はフワフワの毛並みに触れた。

赤錆色の身体をそっと撫でる内に、さっきまでの冷たい怒りは消えていった。


【・・・遠くから、ずっとあんたらを見てた。ドレス女の家にも、王子様の家にも行って覗いてた。】

香苗がそう言うと、朱莉は泣きそうに怯えた表情で俺を見た。

杏花さんは、『えー!なんで気付かなかったんだろー?』と驚いている。

【私は、小さい時から自分で感情を殺せるからねー・・・そうじゃなきゃ生きられなかった。感情を読み取って姿を認識する奴らには見えなくなるんじゃない?】


杏花は『なるほどー!』と手を叩き、樫井さんは悲しげな表情で画面を見つめる。


【いろんな事、初めて知った・・・私なんかより全然・・・

悲惨な目に遭ってんのにさ、ずっとキモイつくりもんの笑顔を張り付けた

傷だらけ女が、一人で家に居るときの顔は見てらんない程だった・・・。】

杏花は知られたくなかったのか、うつむいて爪を噛み始めた。

朱莉が心配そうに背中に手を当ててさすっている。

不意に杏花はバッグの中をごそごそと探りだす。樫井さんがポケットから飴玉を1つ取り出して、『杏花さんノド飴無くなった?これやるよ!』と言って投げた。


【樫井は家に帰っても殆ど寝ないで、私とドレス女の事件調べてて・・・

つまんないからあんまり見てない。】


【私さ、騙されるか殴られるか良いように使われる恋愛しか知らなかったんだよねー。そこの王子様が口では御立派に人助けをうたっててさ、タダでお姫様を飼ってるなんて信じられなくてさー。】

どう答えれば、人を大切に想う気持ちを彼女に理解させてあげられるのだろう?

そう悩みながら聞いていた俺は、次の香苗の言葉で固まった。


「あんたさー・・・不能なんでしょ?・・・若いのに可哀想だねぇー。」


パソコンに触れもしないで硬直する俺を、杏花さんが驚いて見つめている。

ゆっくり舐めていた飴を急にガリガリと噛み砕いて、俺から目を逸らす。

御影の大笑いが部屋に響いた。次第に顔が熱くなってくる。

何も理解出来ていない朱莉が、首を傾げている事が唯一の救いだった。

聞こえていない樫井さんは、周りをキョロキョロして情報収集に忙しい。


 唐突に引戸が開き、杏花さんが注文したのだろうか・・・店員の女性が酒とジュース、おにぎりを持ってきた。

俺は目の前に置かれたハイボールを一気に飲んで、そのまま店員のお盆に乗せた。

「もう一つ、同じものを下さい。」

樫井さんは『おーー!良いねー松宮君!』と自分のビールも飲み干し、

追加の注文をした。

店内のざわめきが一層大きくなるのと同期して、胸の鼓動が早くなる。

出来るだけ早く、次の酒を胃に流し込みたい。

こんなことを思ったのは、初めての経験だった。

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