第1章 朱莉(あかり)
日常の終わりと始まり
――― 3月12日 金曜日 まだ肌寒いよく晴れた朝
誰かに呼ばれる声で目を覚ます。
ここ数日、毎朝のことだ。それは優しくて暖かい声だった。
(どうせなら黒髪美少女が隣にいてくれ・・・)と薄目を開けて、
期待を裏切られ続けて数日。
実際には俺の名前を呼ぶ必要性のある人間は殆ど居ない。
(サービス幻聴だとしたら意味がないどころかマイナスなんだが・・・。)
鏡に映る三白眼で細面の顔は笑顔が似合わず、根暗がにじみ出ているようだ。
クタクタのスウェットを脱ぎ捨て、いつも通りパーカーにジーンズというラフな格好に着替え、部屋の外へ出ていく。
区画整理が進められた静かな住宅街。
その道角に一本だけ残された桜の木は、窮屈そうに枝を広げている。
蕾は花開くのが待ちきれないとばかりに揃って膨らみ、ボロアパートの階段にまで顔を覗かせていた。
二階建てのアパートは閑静なこの街に全く不釣り合いな古さで、錆と腐食だらけの鉄製の階段は、使う度にカンカンと酷い騒音がして気になって仕方ない。
世田谷線の松原駅は混んでいたが、通勤ラッシュの時間を外しているため今日も無事に乗り込めた。
「なんでずっとそんな顔なの?」
唐突に耳元で声がして、心拍が跳ね上がる。慌てて周りを見渡しても誰も俺なんて見てないし、平常運行の車内はスマホに夢中の人たちで溢れているだけだった。
「そろそろ本気でやばいやつかな・・・」
ぼそぼそひとり言を口にしつつ、改札を抜けてバイト先へ向かう。
普段は深夜のコンビニのシフトを生活費が賄えるくらいの頻度・・・週に4回くらい入れて昼間は寝ている生活だった。
日常に変化が欲しくなっていた所、たまたま2週間ほど前に臨時のコールセンターの求人を見つけた。
割の良い時給、好きにシフトを組めるという内容が気に入って、火曜~金曜の4日間で契約した。土日はコンビニの夜勤の為、月曜日くらいは寝ていたかったからだ。
自宅から少し離れてはいたのだが、三軒茶屋までこうして通っている。
「おはよう!今日も暗いね!せっかくの若者がぁー」
会社の入り口に着いたとたん、独特のイントネーションで話しかけられ振り返ると、営業の小山さんが挨拶で人をいじるという謎のテクニックを披露してきたところだった。
「おはようございます。」
(まだ数回しか会ったことないんだけどな・・・)
とりあえず苦笑いを返しておく。
「良い肩してるよね!今度さー、草野球参加しに来てよぉ!」
・・・団塊ジュニア世代にしてはノリが軽すぎるおじさんだ。
5階建ての古いビルは、歴史はそこそこなのに業界のシェアは7位くらいを維持している給湯器メーカーが所有しているもので、営業課、配送課、経理課などがそれぞれの階に入っている。
「もう少し前髪をさっぱりさせたら男前なのが良くわかるのになぁー。もったいないねぇ!」
3階の営業課でエレベーターを降りる小山さんが俺の肩を小突いて笑う。
「こんなもの見て喜ぶ人なんて誰もいないからいいんですよ。」
俺は扉を抑えながら適当な返事をして、自分の仕事場である4階へ向かうべく
『がんばれよー!』と手を挙げる小山さんを見送った。
いつもと何も変わらなかった。与えられた仕事を機械の様にこなしていく。
幻聴の事などすっかり忘れた頃、終業のチャイムが鳴り一日が終わった事を知る。
夕暮れの商店街はノスタルジックな雰囲気を楽しむには良い街並みだった。
母親に手を引かれ、買ってもらったばかりのお菓子で口の周りを汚している子供が何やら駄々をこねて騒いでいる。
俺はその様子をぼんやり眺めながら道の反対側を歩いていた。
不意に胸中がざわつき、自分が羨ましい気持ちを抱いている事に気付く。
別にいまさら自分の辛かった過去を誰かのせいにするつもりもない。
しかし愛情に溢れたやり取りを見ていると、俺がいじめの辛さを必死に訴えた時、
『それは進学に関係あること?バカは無視しとけばいいでしょ。』
などと顔も見ず自分の仕事をしながら言い捨てた母親と、どうしても勝手に比べてしまう。
結局、受験勉強もせず人形の様に感情を殺して日々をやり過ごすのみで、
高校卒業と同時に出た実家には成人式の時も帰らなかった。
今考えてみれば、当時は母なりのプレッシャーなどがあったのかも知れない。
反論し自分の気持ちを伝える事も、水に流し笑い合う為の努力もせずに、
いつの間にか1人きりで大人になってしまった気がする。
狭い空を鮮やかに彩る夕焼けは、あまりに綺麗で自分の居場所が分からなくなってしまいそうだった。
こんな時はあの優しい声を無意識に欲してしまう。
・・・胸の奥がまた少し痛んだ。
嫌な思い出を振り切るように、惣菜店の特売品を買って家路を急ぐ。
今日はコロッケ弁当だ。冷めなければ意外といける味で、ボリュームもある。
鍵をポケットから取り出しながらアパートの階段を上り、201号室の自宅前に立つ。
(あーインスタント味噌汁切らしてたかも・・・)
などと余計な事を考えながら部屋に入ったせいなのだろうか。
俺が今、幻覚なんてものを見てしまっているのは・・・。
それは幻覚と呼ぶにはあまりにリアルで、騒々しいものだった。
「おかえりー♪今日はそんなに遅くなかったね!」
(えっ・・・・・・・?)
「あれー?おかえりー!ん??どうしたのかな・・・?」
玄関の
そして目の前でブンブン手のひらを振って、何かを考えたあとで唐突に叫ぶ。
「あれ!?もしかして見えてるの?」
「・・・・・・・」
俺は今、息を吸うのに必死なのだから言葉なんて出てこない。
「やっと認識された!ってことは・・・」
ぺちっ!小さな両手が俺の両頬を挟む。
「わぁーやっぱりだ!気づいて貰えれば、物に触れられる様になりそうな気がしたんだー!私、すり抜けてないよ!すごいーー!」
「うわっ・・・?」
俺は上ずった声を漏らし、玄関の扉までのけぞる。
無機物の様な手の冷たさよりも、高すぎるテンションに驚いた。
近くで見ると高校生位の少女のようだ。
175㎝の俺より頭一つ分位、背が低く小柄だった。
肩の下まで伸びた黒髪はサラサラと真っ直ぐで、眉の上で短く揃えた前髪が幼さの残る丸顔に似合っている。大きな瞳は輝きにあふれ、ハッキリとした二重がマンガに出てきそうな美少女だ。
この時期に不釣り合いな薄手の七分袖の白いワンピースを着ている。
「あなたは一体、誰なんですか?」
思わずじっくりと観察してしまった後ろめたさもあり、言い方が素っ気ないものになる。
「私ねーなぜか今、幽体離脱?中みたいでね、下の名前しか思い出せないの。
謎の侵入者(生霊)は身振り手振りで幽体離脱を表現?したあとで、
ペコっとお辞儀をした。
生霊に挨拶をされた時はどうすればいいのだろうか?
単調な毎日を送っていた俺に、こんな緊急時のマニュアルなんて存在しなかった。
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