MCP:クラスメイトを殺して1億円

新橋九段

Case 2. Blood Color Visibility

1. I am “runing”

「思い込みはいけません。出来ないと思い込んでしまったが最後、本当にできなくなってしまいます」

 昔、どこかのスポーツ選手がテレビ番組のインタビューに答えている姿を見たことがある。私は、インタビューを見たときは正直ちょっと説得力ないなーなどと思っていた。だって、その人は直前の企画で「驚くべき身体能力が明らかに!」なっていたんだから。赤血球が常人の三倍らしい。よくわからないけど、目一杯運動するのにこれほど都合がいい体のつくりもないらしい。酸素をたくさん運べるから、筋肉もたくさん動かせる。ようはエラがついているから水中でも呼吸ができるとか、羽が生えているから空を飛べるみたいなのと同じ話で、単にそうするための機能が備わっているからできたというだけだ。思い込みとか、関係ない。

 いや、単にその選手が私の嫌いな球団のエースで、しかも自分のファンだった球団を三タテした直後に番組を見たからひねくれた見方をしてしまっただけかもしれない。それ以来私は精神論を嫌いになったけど、精神論の方は私を嫌いにはなってくれなかった。

「エマ頑張れ! 気合いだ!」

 広々とした体育館に、怒声にも近い声援が飛ぶ。遅れて場違いなほど軽快なピアノのリズムが追いかけてきた。私は追い立てられながら目の前の白線めがけて駆け抜ける。

 足が重い。こんなに私、鈍足だっけ? 頭の中にある自分のイメージと、現実の自分とがどんどん離れていく。自分なのにぜんぜん追いつけない。

 どうして。

「ほらあと三回で十点だぞ! エマ! 八十六……」

 遠くで鮫島先生の低い声が響く。私は白線を超えると即座に体を反転させ、体育館の逆側へと駆け抜ける。フロアに轟くドレミファソラシドは駆け上がるような速度で私を追い詰めた。二十メートルが百キロにも感じられた。体育館用のシューズが鉛のように重く、中は発熱して燃え上がりそうだった。

「八十七! 線超えてないぞ!」

「あぁっ!」

 私は唸りをあげて体をひっくり返す。二回連続で白線に間に合わなければそこで終了。シャトルランのルールだ。チャンスはあと一回。私の速度はほとんど全力疾走に近くなっていた。

 あぁ、やっぱり体が重い。ファだかラだかわかないけど、音が高くなっているのに私は半分も進めていなかった。それでも足を懸命に動かし、最後の一回を稼ごうとする。あと一回だ。あと一回超えさえすれば得点は十点になる。そこから先はもう何回だろうか関係ない。八十八回。そこにさえ届けば……。

 音が鳴る。多分シだ。じゃああと一回、音が鳴ったら終わる。白線は三歩先にある。「ダッシュ」じゃ間に合わない。そう判断した私は、咄嗟に両腕を伸ばし体を前へ投げ出していた。ヘッドスライディング。身長で白線までの差を埋める!

 どんっと鈍い音がして、一拍遅れて「ド」の音が鳴った。全身に響き渡る激痛が津波のように押し寄せる。視界がちかちかして涙が出てきた。でも間に合った……のか?

「先生っ、やった?」

「いや残念だが……白線は足で超えるルールだ。ビーチフラッグじみたスライディングは認められない。転んだのかと思ってビックリしただろ。まったく……」

 鮫島先生は女性にしてはぼさついた短髪を掻きむしると、呆れた顔で私を見つめてきた。私は痛みの走る両膝をさすりながら、取り繕うように笑う。

「体育教師の私が言うのもなんだが、そんなに体力テスト大事か? 毎年だが気合の入りすぎた奴が多すぎる」

「そりゃそうですよ。私みたいに動くしか能のない奴は体力テストで頑張らないと!」

「勉強頑張れ、勉強を。学生の本分だろ」

 鮫島先生が差し出してくれた手を、私は掴んだ。先生は女子の中では大きい方の私の体を勢いよく、片手で引っ張り上げてしまう。流石は体育の先生。先生は私よりもさらにガタイがよく、肩の位置も高かった。それでいて白いジャージから伸びる手足は細く、腰も引き締まっていてスリムな印象を与えるから羨ましい。私は中学の三年間バドミントンに打ち込んできたし、日本人より体格のいい欧米人だから仕方ない面はあるけど、それでも足が樹木の幹のように太くなってしまっている。私からしたら鮫島先生みたいに体を鍛えても太く見えない人は羨望の的だ。

 私の足腰はまだ重たく、棒のようになっていた体を支えるのが精いっぱいという調子だった。動くのをやめた途端に汗が全身から噴き出してきていて、思わず体操服を引っ張り上げて顔を拭う。すぐに先生に見咎められ服を引っ張り戻された。

「こらこら、乙女がはしたない真似をするんじゃない。お腹が丸見えだろ」

「うぇ、いいじゃないですか先生。誰もいないんですし」

 体育館のフロアには私と鮫島先生しかいなかった。バスケットゴールのネットが寂しく揺れている。太陽が落ちかかり、暗くなりつつある外の景色が窓から覗いていた。フロアは二階にあるので、窓からは学校の傍にある民家越しに大きな川がゆったりと流れる姿がよく見える。私が窓へ近づくと、汗まみれの額を五月の風が撫でた。

 普通、新入生は四月に体力テストを行うことになっている。だけど私は入学当初の「ちょっとしたトラブル」のせいで欠席が続いてしまっていて、こうして一人寂しく、ゴールデンウイーク明けに追試というかたちでこなす羽目になった。補講と聞いたときには、私以外にもテストを休んだ生徒がいるから何人かでやることになるだろうと思っていたけど、先生曰くその人たちはみんな体力テスト分の成績を投げ捨てる決断をしたらしく、こうしてマンツーマンということになったようだ。私の意地に付き合わせてしまって、鮫島先生にはちょっと悪い気もする。

 私が振り返ると、先生はクリップボードを眺めて何か数を数えているようだった。

「六十二点か。惜しいな……」

「何がですか?」

「体力テストのランクの話。六十三点ならAだったのに」

「う、うそだぁ……」

 私は先生に駆け寄って、クリップボードを覗き込んだ。二十メートルシャトルランが九点、五十メートル走が七点で……足していくと確かに六十二点、のはずだ。たぶん。

「そんな、いままでずっとAだったのに……初めてだ……」

「ま、新入生はみんな部活引退してから久々に動くからスコア落ちるんだよ。でも高一で初めてBってのもすごいな」

 肩を落とす私の背中をぽんぽん叩いて、鮫島先生が慰めてくる。私は足の疲労もあってがっくりとその場に崩れ落ちてしまった。もう立てない。私の体力はリトライにほど遠いようだ。そんな私へ、先生が目線を合わせるようにしゃがんだ。

「……どうだ、エマ。学校は。慣れたか? その……いろいろとさ、あったけど」

 先生の声がにわかに真剣みを帯びた。

「ええ……ちょっとずつ楽になってます。ありがとうございます。いろいろと」

 私は気楽そうに返そうと思ったけど、出来なかった。声がどうしても低くなる。

「そうか……まぁそうだな。ここにも来れたしな。……ほら立て。もう遅いから帰らないと、親御さんが心配するぞ」

 先生は努めて明るく言うと、もう一度私を引っ張り起こした。私は立ち上がり、笑顔を見せようとするけどなんだがぎこちない笑い方になってしまった。

 私たちは並んで歩き、更衣室のある体育館の一階へと向かった。正面玄関の横へ出る広い階段を降りていく。もう十八時を過ぎていて、生徒はほとんどおらず建物の中は薄暗い。ただ一か所だけ、玄関からまっすぐ続く廊下へ明かりが廊下へ漏れている場所があった。どこかの部屋で電気がついているらしい。それを見ると先生は怪訝そうな顔をする。

「あそこは……トレーニングルームか。どうしてこんな時間に明かりがついてるんだ?」

「トレーニングルーム? ランニングマシーンとかがある?」

「あぁ、筋トレ用のマシンがいろいろあるんだが……でも使い方が荒くて事故も起こってな。教員抜きで使うのは禁止されていたはずだぞ。もう先生もほとんど残ってないだろうに……誰だろうな」

 先生は早足気味に階段を降りると、明かりの方へと歩いて行った。私もそのあとを追いかける。体力もちょっとずつ戻ってきていて、多少駆けるくらいなら問題なくなっていた。階段を一段飛び降りて、トレーニングルームの入口までたどり着く。

 扉から入って数歩のところで、なぜか鮫島先生が立ち尽くしていた。深い青色のタイルに、先生が持っていたクリップボードが転がっている。

 一歩、部屋へ入ると体で感じる温度が急変した気がした。春の残る涼しい空気が、一気に湿り気を帯びてよどむ。私の足音に気付いて振り返った先生の目は、驚愕に見開かれていた。

 私を見た先生は手を勢いよく伸ばして掴みかかってくる。

「来るなエマ! だめだ!」

「え……」

 遅かった。

 私の視界に、頭が潰れ真っ赤な海に沈む人の亡骸が映り込んでいた。

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