第25話 立冬①

 ······僕は夢を見ていた。白い着物の少女を抱き上げ、雲の上を歩いている。彼方にそっくりのこの少女は嬉しそうに笑っている。


『······お父さん?』


 少女が僕を呼ぶ。僕は少女を雲の床に降ろした。少女はまだ抱っこしてとせがんでくる。


 ごめんね。でも、もう夢から覚める時間なんだ。そして、君と会えるのもこれが最後なんだ。今まで僕に会いに来てくれてありがとう。


 僕は少女に感謝の気持ちを伝えた。少女はまだ一緒に居たいと駄々をこねる。僕は少女の頭を優しく撫で、さようなら彼方。そう言った。


 少女は不思議そうに僕の顔を見ている。そして、少女は言った。


『それ、お母さんのお名前だよ。私のお名前じゃないよ』


 ······この少女は彼方じゃない? こんなにそっくりのなのに? 僕はこの少女に聞きたい事があったが、眠りから覚醒する僕の意識がそれを許さなかった。


 僕から遠ざかって行く少女に、僕は大声で問いかける。君は······君の名前はなんて言うの?


 少女は両手を口の左右にたて答えてくれた。


 僕は四畳半の布団の中で目を覚ました。さっき迄見ていた夢が鮮明に脳裏に残っていた。


 あの少女は彼方では無かった。彼方を母と呼ぶあの少女は一体なんだったのだろうか。少女の最後の返答も結局聞き取れなかった。


 不思議な気分のまま僕は顔を洗い、歯を磨き朝食を食べた。あの少女の事を考えていた為に、人生最期の朝食を味わうのを忘れていた。


 最期の日に何を着ようかと迷ったが、今日は平日で普通に学校がある日だったので制服の学ランにした。


 着替えた僕は四畳半の畳の上に座り、その時を待った。時間はすぐに来た。僕の目の前に、カピバラの着ぐるみが現れた。


 ······何故だろう。見馴れたこのカピバラの顔が懐かしく感じる。彼方をいつも見続けていたこの着ぐるみの正体は結局分からなかった。


 でも、このカピバラから時折感じるイメージは不快な物ではなかった。僕の中ではまだ言語化出来ないが、それはとても深く大きな感情だった。


 僕はカピバラに黙って頷いた。準備は出来ている。いつでもあの異世界に連れて行ってくれ。


「······稲田祐さん。最後にお礼を言っておきます。ありがとう」


 ······何故カピバラが僕にお礼を言うんだ? 僕が疑問を口にしようとした時、いつものカピバラの台詞が呟かれた。


「転移、開始します」


 僕の姿はこの世界から消えた。いや、あと二時間で本当に消える。永遠に。


 無味乾燥の砂漠の世界に僕は両足を立てる。目の前に先に到着していた彼方がいた。今日の彼方は、いつもの純白のセーラー服だ。


 彼方は僕に頷いた。僕も力強くそれを返す。波照間隼人が現れたのはその時だった。


「時間ピッタリだね。時間をちゃんと守ってくれる人は信用出来るなあ」


 アルパカの着ぐるみが機械音の声と共に、僕と彼方の数メートル前まで歩いてきた。


「······決闘の時ぐらい、その着ぐるみを脱いだらどうだい?」


 僕が波照間隼人に提案する。別に顔を見たかった訳では無いが、正体が分からないのはやはり不気味だった。


「······僕は恥ずかしがり屋でね。失礼ながらこのままでお願いするよ」


 僕のささやかや揺さぶりは、波照間隼人に軽く受け流された。


「こら波照間島! 今日がアンタの年貢の納め時よ! 覚悟しなさい!!」


「······い、出雲彼方さん。君、僕の名前覚える気ないでしょ?」 


 ······僕は彼方を改めて見つめた。これが、あと二時間で自分が死ぬと分かっている人間の態度なのか?


 彼方はいつも通り背筋を伸ばし凛々しかった。その姿にあと二時間で死ぬ僕は、とてつもない大きな勇気を貰った気分だった。


「これより啓蟄一族代表と、清明一族代表の決闘を行います。両一族代表は、お互いに自己紹介して下さい」


 カピバラのいつもの進行に、僕と波照間隼人は向かい合った。


「清明一族代表、稲田祐。十八歳、高校三年生」


「啓蟄一族代表、波照間隼人。十八歳、高校三年生です」


 ど、同学年の同い年なのか? いや、この男の言う事は当てにならない。余計な事は考えない方がいい。


「ガチンコのタイマン勝負!! 今回の決闘は、一対一のルール無用の時間無制限の一本勝負。相手を戦闘不能にするのが勝利条件です」


 こ、これからプロレスでも始めるのか? 僕は場違いなおかしさが込み上げてきた。


「時間無制限ねぇ。君達には、後二時間しか残されてないのにね?」


 波照間隼人が機械音の声を出し、両手を上げてみせた。その挑発に僕も彼方も動じす、波照間隼人を睨み続ける。


「······二人共、覚悟を決めたって目だね。気に食わないな。その目」


 なんだ? 波照間隼人の声に初めてと言っていい位の揺らぎを感じた。


「ところで稲田君。古来から行われてきた一族同士の決闘。その内容を知っているかい?」


 その揺らぎは一瞬で消え、波照間隼人の声はいつもの調子に戻った。


 二十四の一族は揉め事や問題が発生した場合、決闘によって収めてきた。その決闘の内容? やっぱり精霊同士の戦いなのかな?


「稲田君。君が今までやってきたお遊びみたいな決闘内容とは訳が違う。それこそ一族を挙げて血で血を洗う殺し合いさ」


 ······殺し合い? 昔の一族達はそんな物騒な事をしていたのか?


「決闘に負けた一族が根絶やしになる危機が何度もあった。そこで理の外の存在は、代理戦争を考えついた。それが七十ニ気神。精霊同士の戦いさ」


 精霊達は、僕達一族の代わりに戦わされていたのか!?


「三終収斂!」


 波照間隼人が暦詠唱を唱えた。これは、七十ニ気神を呼び出す詠唱ではない。自身が持つ三体の精霊を一つに合わせた、強力な精霊を呼ぶ詠唱だ!


 波照間隼人の頭上に、黒装束の精霊が現れた。頭部は黒い頭巾で覆われ、顔も黒い布で隠れている。体も全て黒一色だ。これはまるで、舞台にいる黒子のような姿だ。


 その左手には何故か花瓶が握られ、花瓶には百合の花が揺れていた。右手には選定ばさみの刃が怪しく光っていた。


 ······な、なんだこの不気味な精霊は? 僕は寒くもないのに背中に悪寒が走った。


「さあ稲田君。君も三終収斂を唱えてよ。君ならきっとそれができる筈だ」


 ······嫌だ! 三終収斂を唱えると新たな精霊が生まれる代わりに、三人の精霊は永遠に消えてしまう。


 紅華。爽雲。月炎。彼等が消えるなんて僕は絶対に嫌だ。今日は月の上旬。心を司る紅華が最も力を発揮する。


 ······でも、僕は本能で分かってしまった。紅華を呼び出しても絶対にこの黒装束の精霊に勝てないと。


 ならば時期を外れ力を充分に発揮出来ないが、爽雲か月炎を呼ぶか?


 ······答えは同じだった。誰を呼び出しても、黒装束の精霊に勝てる気がしない。


「三体の精霊が消える事を惜しんでいるの? 稲田君。精霊なんて所詮戦いの道具だ。心を痛める必要はないよ」


 波照間隼人の冷酷な忠告を僕は黙って聞き流す事が出来なかった。僕の口がまた勝手に動きだす。


「僕にとって三人の精霊は道具じゃない! 大切な友人だ。そんな簡単に切り捨てる事なんて出来るもんか!」


 僕の返答に、耳を突くような機械音の笑い声が響いた。


「ははは! これは傑作だね。現実の世界で一人も友達が居ない君が精霊を友人と呼ぶのかい? まあ自分の事を主人と呼ぶ精霊達だ。君を無視したり、軽んじたりしないから安心だよね」


 ······言葉と言う悪意が、僕の心の闇の部分を剥がしていく。そこは、決して人に見られたくない場所なのに。


「出雲彼方さんと出会い、世界の未来を変える為の日々。その毎日はさぞ楽しかったでしょう? 稲田君」


 ······これは何かの手術だろうか? 波照間隼人の言葉と言うメスが、僕の心の中を切り刻んで行く。


「この異世界で決闘している時だけは、君は現実の世界の事を忘れられた。その時だけは、取るに足らない自分じゃなかった。教室の隅で大人しくしている自分とは違った!」


 僕は今、どんな顔をしているのだろうか? 足に力が入らない。心が、身体が立ち続ける事を拒否している。


「決闘が終わり、現実の世界に帰る時。君はいつも落胆していたんじゃないか? ああ。またつまらない自分に戻るとね」


 僕は前を向けなくなった。顔を俯け、自分の足元と砂を見ている。この感情に飲まれると、二度と立ち直れないたと分かっていても僕は抗えなかった。


「顔を上げなさい! 稲田祐!!」


 その声に、僕は殆ど反射的に顔を上げていた。僕の目の前には、姿勢正しく直立不動の彼方の背中があった。


「現実に友達が居ない? それがどうしたって言うの? 世の中には自分の親と一度も会えない人間だっているの! 一生お米を口に出来ない人間が大勢いるの!」


 彼方の声が、僕の聴覚を通じて心の中を直撃する。


「稲田祐。あんたは仕事で疲れ切った相手に優しく気遣う言葉をかけた。失恋で悲しむ相手に過去の自分を大切にしろとも言ったわ」


 彼方は僕に背を向けたまま、言葉を続ける。


「自分と同じ人付き合いが出来ない相手に諦めるなと言った。経営者相手に何千人を犠牲にしても未来を変えると言った」


 僕は、また涙腺が壊れそうになって来た。


「親に半ば見捨てられ、世界に絶望し呪おうとしていた相手に自分だけは君を忘れないと言った」


 僕の両足は、無意識のうちに前に動いていた。


「······そして私には、食べ切れない位のお米を食べさせてくれたわ」


「······彼方」


「胸を張りなさい。稲田祐。あんたは心優しい人間よ。世界中の人間が否定しても、私だけはそう断言するわ」


 ······この時、僕の中で何かが崩れる音がした。それはずっと僕の中に在り続けたしこりだった。


 僕は自分の殻に籠もり、人との関係を避け自分が傷つかないよう過ごして来た。言い訳は決まっている。自分はどうやっても人との関係を築く能力が無いと。


 でも僕は開き直れる程強い人間では無かった。独りでいると無性に寂しくなる時があった。人と関わりたいと欲する時があった。


 それは一時的な暴風のような物だった。しばらく耐え忍べば、またいつもの自分に戻れた。


 僕の中にある孤独と云う名のしこりは、いつまでも残り時々僕を苦しめていた。


 ······彼方の言葉で、僕のそのしこりは粉々に砕け散って行った。言葉には信じられない力があると彼方は言った。


 彼方の言葉は、孤独の重りに押し潰されそうになった僕を、胸ぐらを掴むように救い上げてくれた。


「······手助けはルール違反だよ? 出雲彼方さん」


 波照間隼人が口を開いた瞬間、彼方の足元の砂が浮き上がり何かが這い出て来た。あれは、タスマニアデビルの着ぐるみ!? 


「ちょっと! 何すんのよ!」


 砂まみれのタスマニアデビルは、あっという間に彼方を両腕で拘束し波照間隼人の前に立った。


「か、彼方!」


 なんでタスマニアデビルが彼方を拉致するんだ!? あれ? あのタスマニアデビルの両目をよく見ると赤く光っている。


「このタスマニアデビルは僕を探しに来た理の外の存在さ。今は僕のペットだけどね」


 ······彼方が僕の前に現われた時、他の一族代表達には、それぞれタスマニアデビルがコーチとして付けられた。


 波照間隼人は何らかの方法で、このタスマニアデビルを操っているのか?


「さあ。役者は揃った。世界の未来を賭けて盛大な殺し合いを始めようか?」


 波照間隼人は機械音で改めて宣戦布告をする。僕はある決断をしていた。それは、僕の命に関わるから絶対にするなと彼方から固く禁じられていた行為だった。


 


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