第23話 秋分、寒露

 自分の余命が分かる事は、やはり不幸だろうか。僕はあと一ヶ月ちょっとで死ぬ。そうだ。僕はどうやって死ぬんだ?


 心臓発作? 不整脈? 脳溢血? 出来れば苦痛が無いほうが助かるな。死ぬ覚悟は出来ても、苦痛を受け入れる勇気は無い。


 僕は仕様が無い人間だ。遺書というか、せめて母親と妹には何か手紙を書こうと思った。だがカピバラの話によれば、僕が死んだ後は誰も僕の存在を覚えていないらしい。


 ならば身辺整理と思ったが、僕の遺品はタスマニアデビル達が片付けてくれるらしい。なんとも心憎いアフターサービスだ。


 友達も恋人も居ない身軽な僕は、特に別れを惜しむ相手もいない。簡単だ。実に簡単。これで僕は死ぬ準備が整った。


 日常が満ち足りている人は、こうは行かないだろう。知人。友人。恋人。家族との別れを悲しみ、趣味や仕事をまだやり残していると嘆くだろう。


 そんな事と無縁な僕は不幸だろうか? それとも幸福だろうか? 今まで自分の人生について深く考えた事なんて無かった。


 単調な日々がただ過ぎ去って行くだけだった。そして単調な僕の人生は、きっと日常に埋もれて終わっていく。


 そうなるだろうし、別にそれで良かった。僕の人生なんてそんな所だろうと。


 でも、純白のセーラー服を着た少女と出会って僕の日常は一変した。一面砂漠の異世界に拉致され、決闘を強要された。


 決闘の合間には、特訓という名のイジメが続いた。いや、あれはイジメと言うより虐待に近かった。


 虐待を潜り抜けたと思ったら、平手や拳の暴力が僕を襲った。極めつけは心胆を寒からしめるあの怒声だ。


 全く持って僕は酷い扱いを受けた。もう少し人権を尊重してもらいたい。まだまだ言いたい事はあるが、ここは歯を食いしばり我慢しよう。


 ······彼方の凶暴な面ばかり強調してしまったが、彼方にも女の子らしい一面がある。お母さん想い。そして甘い物が、特にこし餡が好きだ。


 お米やこし餡を見る時の彼方の瞳は、少女のように輝いている。あとは普段から姿勢がとても良く、食事の行儀作法がとても良い。


 ······そして、あんなに気が強いのに案外よく泣く。


 彼方と出会ってから二つの季節が過ぎた。それは僕の今までの人生の中で、忘れ難い時間になった。


 そしてそれは、今この瞬間もそうだ。この一分一秒がとても貴重に感じる。こんな事も彼方と出会わなければ絶対に思えなかった。


 無為に過ごしていた僕の人生に、彼方は土足で入り込んできた。そして僕の首根っこを掴み、騒々しい日常に僕を放り込んだ。


 その騒々しい日常を僕は今、たまらなく愛おしいと感じていた。



 ······木製の長い杖。錫杖の金属音が響く。月炎は必殺の一撃を相手かわされ、喉元を杖で突かれた。


 砂利の上に月炎は力尽き倒れる。僕の目の前には、青い作務衣を着た修行僧が仁王立ちしていた。


「ここまでよ。稲田祐」


 土管の上に腰掛けていた少女が、戦いの終わりを告げた。僕は息を切らしていたが、辛うじて膝は地面に落ちなかった。


 周囲は朽ち果てた巨大な団地に囲まれている。空も薄暗い。ここはイメージの世界だ。


 彼方が、理の外の存在から貰い受けたこの能力で、僕は精霊の訓練をしていた。だが、僕が呼び出した紅華、爽雲、月炎はいずれも彼方の精霊に倒された。


 彼方の精霊は強かった。三体の精霊を完全に隷従されると、新たな精霊を生み出せるらしい。


 それは、三体の精霊の力を合わせ持った強力な精霊だ。彼方の修行僧の精霊は正にそれだった。


 三終収斂。その強力な精霊を呼び出す時の暦詠唱だ。


「稲田祐。アンタと精霊達の関係を見ていたけど、アンタも三終収斂が多分可能だわ。何故そうしないの?」


 三終収斂を唱えると、三体の精霊は一体の精霊に生まれ変わり永遠に消えてしまうらしい。


 僕は紅華、爽雲、月炎が居なくなるなんて絶対嫌だった。新たな精霊を生み出さなくても三人は充分頼りになる。


「······まあいいわ。今日はここまでにしましょう」


 前回の決闘時、波照間隼人の決闘を承諾してから僕と彼方は特訓に明け暮れた。学校なんて休むつもりだったが、それは彼方に拒否された。


 特訓は日常生活をちゃんと送った上で受ける。それが彼方の方針だった。暦は前回の白露から秋分、寒露と過ぎていった。


 昼と夜の長さが同じになったと思ったら、夜の長さのほうが長くなった。公園の木々達も日ごと深まっていく秋に、次の季節の為の準備をしているように見えた。


「世界の声はどう? 稲田祐」


 彼方がスケールの大きい話を一言にまとめて聞いてくる。世界の大陸を俯瞰し、四方から僕の中に流れ込んでくる大量の意識。


 それはこの世界、自然界の声なき声だった。ただ、そこに在りたいのに蝕まれていく。僕が初めてその意識を言語化した時、彼方が驚いたのを覚えている。


 終候の極。それは、二十四の一族に与えられる称号の中でも最高位の物だった。全ての物の声と心を瞬時に理解出来る者にその称号は与えられた。


 でも僕は、その称号の有資格者では無い。僕は木々や人の心をイメージで読み取れる事が出来ても、初歩である声が聞こえないのだ。


 それでも、心を感じる能力は確実に伸びてきた。そのお陰と言うか、僕は流れ込んでくる大量の意識を遮断しないと身が持たなくなる程になった。


「······ここまで来ても初歩の声が聞けない。何故かしら」


 両腕を組み、彼方は不思議そうに歩きながら考え込む。その時、彼方の首の後ろが目に入った。


「彼方。首の後ろにあるそれ、痣?」


「え? 痣?」


 その痣は近くで見ると、漢字の「霊」に見えた。僕の頭に言霊権の文字が浮かんだが、言霊権の所有者は現在僕だったので、この時僕は深く考えなかった。


 初歩の声が聞けない。この時、僕にもそれは分からなかった。でも後にそれは、最悪な形で僕は思い知らされる事になるのだった。


「······とにかく今日は終わりよ。明日は休養日だからゆっくり体を休めてね」


 鬼コーチもたまには慈悲を僕に与えてくれる。精神を休ませる為に、一週間に一度休みをくれるのだ。


「じゃあ明日は映画に行こう! いいだろう? 彼方」


 僕はすぐさま彼方をデートに誘う。僕は特訓が休みの日は必ず彼方を遊びに誘った。彼方は乗り気では無さそうだが、いつもため息を漏らし渋々了承してくれる。


 いくら彼方が未来の娘とは言え、同い歳の女の子をデートに誘うなんて。今までの僕だったら絶対無理だった。


 僕なんかに誘われても相手が迷惑。そう考えるからだ。でも、あと少しで自分が死ぬと分かっていると信じられない位積極的になれた。


 この時の僕は、彼方か感じる迷惑なんて二の次だった。とにかく彼方に楽しんでもらい、美味しい食べ物を沢山食べて欲しかった。


 でも一番楽しんでいるのは僕だった。好きな娘とデートをする。僕の人生で初めての事だ。彼方と一緒に見ると、見慣れた景色でもいつもと違った。


 彼方と一緒に食べるご飯は、素材の味以上に美味しかった。そんな時、僕の胸はチクリと痛む。


 僕は未来の自分の娘に恋をしている。僕はどうやら人と違いおかしいみたいだ。それでも僕はもうその事について深く追求しなかった。


 追求するには、僕の残りの人生が余りにも短いからだ。これでいい。この気持ちのまま僕は人生に幕を下ろす。この時の僕はそう思っていた。



 ······暦は移り、寒露と呼ばれる時期になった。夜が長くなり露が冷たくなる頃だ。


 朝晩はかなり冷えるようになって来た。夜中布団を蹴飛ばした僕は、危うく風邪を引きそうになった。


 安アパートの台所で、三人がお昼ご飯を摂っていた。僕と彼方、そしてきなこちゃんだ。


 僕はこの日、自分の技量で作れる精一杯のご馳走を作った。テーブルの上には、ベーグルとカルボナーラのパスタ。オムライスが並んでいる。


「え? このベーグルも手作り? パンって家で作れるの?」


 彼方が指でちぎったベーグルを持ちながら驚いていた。そのベーグルに有名店のブルーベリージャムをつけて食べた時の彼方の顔は、とても幸せそうだった。


「今日はやけに気合入ってるわね。お兄ちゃん」


 きなこちゃんが僕の力作を眺めながら呟いた。それはそうだった。この日が、僕がきなこちゃんにご飯を作れる最後の日だったからだ。


 僕は食事の合間に、きなこちゃんを改めて眺めた。初めて会った時のあの険しさが和らいだ気がする。


 背も少し伸びたかな? この頃の子供はすぐに成長していく。きなこちゃんはどんな大人になるのだろうか。


 その時、やっぱりまだ世界を恨んでいるだろうか。きなこちゃんをこの先見守れない事が僕の中で心残りだった。


 僕はこの食事会で饒舌だった。下らない話ばかりをして彼方ときなこちゃんを呆れさせた。


 僕はある冬の日の話をした。その日の朝は前日雪が降り、地面にはうっすらと雪が積もっていた。


 馬鹿な僕は、店に行くのに自転車を使った。慣れた登り坂が見えた。地面に雪は無い。僕はペダルを踏み勢いをつけた。


 坂を半ば登りきった時、僕ははっとした。なんと坂の地面は凍結していた。透明だったので僕は気づかなかったのだ。


 僕はものの見事に転倒した。立ち上がろうとしたが足が滑る。倒れた自転車にしがみつき、なんとか立とうとした時、坂の並びにある家のおじさんが僕を見かねてわざわざ来てくれた。


「君、大丈夫か!?」


「は、はい。なんとか」


 親切なおじさんは、自転車を一緒に起こそうとしてくれた。この時僕は忘れていた。倒れた自転車にしがみつき、やっとバランスを保っていた事に。


 自転車を起こした瞬間、僕とおじさんは転び、仲良く坂の下に滑って行った。


 このコントみたいな話は二人に受けた。彼方は口を押さえ笑い。きなこちゃんはツボに入ったらしくお腹を抱えて大爆笑した。


 あの雪が積もった日。自転車で出掛けたお陰で、こうして二人を笑わせられる。人生に無駄な事なんて無いのかもしれない。


 僕はこの時、大袈裟にそう思った。


 きなこちゃんの帰り際、僕は御守を彼女に渡した。鎌倉に行った時のお土産と言ったので、きなこちゃんは特段不思議がらず受け取ってくれた。


 僕はその御守に、自分の代わりにきなこちゃんを見守ってくれるよう願いを込めた。


「じゃあね。お兄さん。また来月······」


 きなこちゃんが言い終える前に、僕は彼女を抱きしめた。


「きなこちゃん。強く生きてね。君ならきっと大丈夫だ」


「······お兄さん。やっぱり今日のお兄さんは変よ。何かあったの?」


 僕は側に立つタスマニアデビルに目で合図した。きなこちゃんはタスマニアデビルと共に消えて行く。


 消える間際、きなこちゃんの叫んでいる顔が目に入った。


「······どうしたの稲田祐。まるで今生の別れみたいよ」


 僕の背中から彼方の声が聞こえた。僕はまた下手な演技力を総動員する。


「そうかな? 決闘が近いからナーバスになってるのかなあ」


 僕は彼方に背を向けたまま答えた。僕が今

、どんな顔をしているか自信がなかったからだ。


 台所の窓が、外の風に打たれ苦痛の音を響かせる。今日はとても風の強い日だった。その窓を叩く音に僕の心の声がかき消され、彼方に気づかれ無い事を願っていた。 


 


 






 

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