【11月25日文学フリマ】好き 大好き 愛してる

桃花

1.夢の音

夢の音


   一

 目を瞑ると聞こえる――寄せては引いていくような波の音。それは、昔の思い出なのか、ただの空耳なのか、それはわからないけれど目を瞑ると、必ず聞こえてくる音だった。ざあざあと、寄せては引いていく波のような音。この音はいったい、何なのだろう。

雨の音かもしれない。雨の音は好き。ざあざあ、ぱらぱら。懐かしい音を奏でながら、その輪郭をゆっくりと溶かしていく。そんな不思議な感覚。鈍い色をした雲は、何を思って雨を降らせているのだろう。

「リツキ」

 誰かに呼ばれたような気がして、振り返る。アスファルトに跳ね返っていく雨粒が風景を溶かしていくように思えた。溶かされた風景が、もう一度ぼんやりと輪郭を保ち始める。

「置いていくなって」

 色素の薄い髪の毛が、ほんの少し雨に濡れていた。彼は、恋人。恋仲。彼氏。名前は秋月咲也。運動も苦手なくせに、ここまで走ってきたんだ。馬鹿だなあ。あたしなんかと付き合って、人生無駄にしている、馬鹿な男。

「咲也」

 あたしの隣に並ぶと、少し不機嫌な顔をした。おいて行かれたことがよっぽど不満だったらしい。可哀そうな男。残念な男。

「なんだよ」

「別に」

 そっぽを向いて、歩き出す。少し大きめのローファーの隙間から、雨水が入り込んできて靴下を湿らせた。気持ち悪い。ぺったん、ぺったんと、ローファーと靴下がくっついて離れて嫌な音を立てている。湿ったスカートも、湿気を含んだブレザーも、全部が気持ち悪い。今すぐ捨ててしまいたい。

「なあ、」

 赤信号すらも、消えてしまいそうな横断歩道。全部が曖昧で不透明で、でも、そこを歩く人の形だけはやけにはっきりしていた。それが気持ち悪かった。気持ち悪くて、好きだった。

「……あんまり、思いつめるなよ」

信号が変わる。うすぼんやりとした、青い信号。鈍い視界では、まともに車も運転できなさそうだ。

 この雨はいつまで降るのだろう。この雨は、どこまで降っているのだろう。赤い傘の持ち手を掴む。じわじわと滲んでいく視界は、きっと雨のせい。

ざあ、っとまた音がする。この音もいつまで続くのだろう。ざあ、ざあ、引いては寄せるような不思議な音――どこまでも耳についてくる音。ああ、いったい何の音だったのかしら。思い出せないままでいる。

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