29.曰く、戦えないなら。

 

 酷くせわしい一日だった。


 エレノアに呼び止められ、心臓を二つか三つ潰したあの後。

 すっかり綺麗になった姿で二人の目の前に現れれば、やっぱりな、わかっていた、とばかりに微笑まれてしまった。


 きっと二人とも、ちゃんと知っていたのだろう。

 テオドールが剣で語り合おうとしたように、彼女もまた、何かしらで「私」を視ようとしていた事を。



 ほとんど一生分の運を使い果たしたと言っても過言でない程の運に恵まれ、シキミはこうしてのんべんだらりとベットに腰掛けられている。


 シャワーがあり、トイレがあり、部屋はランプの光で明るく照らされ、生活環境自体は異世界ここに来る前とほとんど変わらない。ホテルに住んでいる気分だ。

 ランプの中身は炎なのに、ゆらぎが一切見られないのは、これが魔法のランプだからなのだろうか。



 異世界で生活らしきことをしてみてわかったことが幾つか。


 まず、お助け機能は翻訳機能に近いということ。

 鳩や珈琲など、地球上にあった何かに似ているもの、あるいは同位体は、自然それに翻訳されるらしい。

 おかげで物事は随分わかりやすく、意思疎通の齟齬も殆ど無く済んでいる。多分、相手にも同じように聞こえているはずだ。


 逆に、同じものが見受けられない場合はそのまま音として聞こえてくる。

 白銀の糸アルゲントゥムなんかはいい例だ。

 もし、私が彼らに「東京」と言ったとしても、彼らには音の羅列としての「トウキョウ」しか聞こえないのだろう。

 東京は決して王都にはならないし、この世界の王都の固有名詞に変換されることはない。


 文字も同じだが、変換できないものは自然カタカナで表記されるらしい。


 手元にはズシリとした分厚い本。

 エレノアに、もし良かったら読んでみてと渡された本は、茶色の革張りの装丁が美しく高級そうで、暖炉なんかがあればまっ先にインテリアとして置いていた類のそれだ。

 愛読書であったのだろう。丁度良い具合にれ、擦れた表紙には「アソムニオ神話 原典」の文字。金の箔押しが、ランプの光にキラリと輝いた。

 パラパラと捲った中身には、やはり見慣れぬ文字列がカタカナ表記されていて、チラとみただけでは理解ができない。

 ちゃんと腰を据えて読まないと、多分駄目だ。


 聖教国から出版されたものではなく、研究者から出されたこれは、今の所は原典に最も近い本なのだ、とエレノアは言った。

 それは、人と神の共存の証と、決別の歴史の物語。


 今更、あの灰色のビル群の中に在りたいとも思わない。

 この世界で生きる術は、今の所不足無し。

 ──とくれば、この世界に馴染むためにも異世界の常識は必須だろう。

 戻るためのヒントを探す、というよりは。この世界を理解し、了承するための、これは一つの手段だ。


 閉じられた本からは、ふわりと古い紙の落ち着く、少し黴臭いような匂いがした。



 もう一つわかったこと。

 それはもう、言うまでもなく魔法がめちゃくちゃに弱いこと。

 魔法だけじゃない。戦闘スキル自体が弱いと言うべきだろう。

 武器を使えばなんとかなるが、やっぱり弱いランクにしか効かなさそうだなぁ、ということはシキミ自身ひしひしと感じている。


 訓練すれば、素早く綺麗にレビィラビットを狩る事はできるようになるかもしれない。

 でも、それだけだ。


 いくらを上手に狩れるようになっても、ドラゴンが倒せるようになるわけではない。

 レベルも戦闘の記憶もないシキミは、唯の凡人だ。

 正直な話、記憶がないということ以外は、そこら辺にいる一般人と変わりがない。


 訓練すれば竜も狩れるようになったぞ! という楽観的ビジョンはシキミの中で上手く像を結ばない。


「えっ、本当にどうしたらいいと思う?」

「知りませんよそんなこと。馬鹿な子ですね」


 そんなこと言わないで考えてよ頭いいでしょ、と腰にすがりつく私を睥睨する男は、色鮮やかな青い髪を揺らしてため息を吐いた。


神器わたしちを使えばいいでしょうが。わざわざ貴女が戦う必要がありますか?」

「大アリなんですってばぁ」


 ハの字型の困り眉を更に寄せ、黒い結膜に浮かぶ金の瞳がっとこちらを見下ろしている。

 それぞれ目の下にある、二つずつの黒子が色っぽい。


 神器──断罪の大鋏ウィスタリア


 几帳面に切り揃えられたおかっぱに、うなじから伸びる一房の長い髪。

 斜めに切りそろえられた前髪を貫くように生えた一本の黒い角は、柔らかなオレンジ色に照らされて艷やかに輝いていた。



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