第19話 「男の娘」の色仕掛け
その日、顧問が活動場所として指定したのは「視聴覚教室」だった。
沙が集合時間にやってきたその部屋には、座長のナミキと演出のイスズ、舞台監督のサガミ、スタッフの1年生たちが待っていた。
「これだけですか?」
最近、この
そうなると、この異国というか異世界に興味が湧いてくる。手当たり次第に本を読み漁り、試しにモギシケンとかいうものも受けてみたが、最上級生向けの問題でも難なく答案を書くことができた。
ほんわかと間延びした声で、ヒカリがやってくる。
「あ~、間に合った……」
その後ろに、言葉少なく謝るユキエを引き連れていた。
「ごめん」
とりあえず、一座として体面を保てるだけの人数は集まったようだった。
部屋の端にあるステージには幕が掛かっているが、小さすぎて、とても芝居はおろか、稽古などできそうにない。
ナミキはおもむろに告げる。
「じゃあ、ビデオ預かってますんで」
幕が開くと、そこには大きな1枚の
やがて、カーテンを閉められた暗い部屋の中で、ここにはないどこかの舞台が浮かび上がった。
サガミがぼやく。
「本当に大会出られるのかな」
「まあまあ」
ヒカリがやんわりとたしなめたところで、ユキエが冷たくつぶやいた。
「あの顧問のことだからな」
試験が明けても、その顧問が与えた課題に取り組むほか、この一座にできることはないようであった。
みすぼらしい男が2人、白いベンチに座っている。お互いをウラジミル、エストラゴンと呼ぶ男たちは、靴を脱いだり履いたり、何やらわけの分からないことをやっている。
なんでも、「ゴドー」とかいう人物を待っているらしいが、やってくるのは別人ばかりである。やがて、ここに来たことはあるがいつ来るか分からないゴドーが、少なくとも今日は来ないことだけが分かる。
首を吊ろうとして失敗したウラジミルとエストラゴンは、帰ろうと互いを促しながら、どちらも重い腰を上げようとしないうちに、幕が下りる。
部屋が明るくなると、一同はポカンとしていた。白いスクリーンの前に立ったナミキが、抑揚のない声でメモを読み上げる。
「え~と、サミュエル・ベケット、とかいうイギリスの人が、片言のフランス語で書いたもの、らしいです」
ただ1人、沙だけが勢いよく拍手している。
「面白かった!」
それは本音であった。おそらく、自分…シェイクスピアが腐ったニシンに当たって死んでから、何百年も経ってから書かれたものだろう。
42歳で引退するまで面白おかしく劇を書いていたが、こんな奇妙な書き方もあったのだ。
死の瞬間に一瞬だけ求めていたのは、これだったのかもしれない。
だが、演出のイスズは唸っていた。
「見方によってはそうかもしれないけど、観客を選ぶんじゃないかな、この劇……」
だが、その『ハムレット』を書いたシェイクスピアとして、沙の気持ちは抑えきれないほどに熱くなっていた。
「だって今の、この状況じゃありませんか、私達の」
何をやればいいのか、意味のあることとは何なのか、さっぱり分からないで力だけが抜けていく。芝居を始めたころは、いや、国王に召し抱えられてからも、こんなことはいくらでもあった。
ユキエが低い声で疑問を差し挟んだ。
「そもそも、ハムレットとどういう関係が?」
サガミが、ヒカリにたしなめられながら溜息をつく。
「いやがらせじゃないの、あの顧問の」
だが、そこで沙の肩を持った者がいる。
ナミキだった。
「いや、関係なくもない」
目を剥くイスズをなだめるように、ある戯曲の名前が告げられた。「ほら、あの新歓公演でやった、ブレヒトの『三文オペラ』だよ」
そのときは、まだ沙は転生していなかった。隣の1年生に聞いてみる。
「見た?」
「何か、変な小道具と衣装でやってた。ボロボロの」
そこで沙は手を挙げて、座長と演出の議論を遮った。
「間に合わせの服と小道具でやってみませんか?」
「そう、それなんだよ!」
ナミキは手を叩いて叫んだが、イスズは冷ややかな声で応じた。
「シェイクスピアでそれはあり得ません」
その本人としては、聞き捨てならない一言であった。沙はいささか気色ばんで反論する。
「舞台の上では、何でもアリなんです。歌いたかったら歌えばいいし、レスリングやりたかったら、やればいいんです」
確か、『お気に召すまま』では、それまで誰もやらなかったレスリングのシーンをやった覚えがある。
だが、イスズは妙にこだわった。
「戯曲には、それに応じた上演の仕方ってものがあるの! じゃあ、ギリシャ悲劇の『オイディプス』を喜劇にできる?」
「できます」
沙は、自信を持って言い切った。自分が演出できるものなら、やってみたかった。
「じゃあ、その時は頑張ってください」
冷ややかに言い捨てて、イスズは椅子に対して垂直に座り込む。重苦しく張りつめた空気が、部屋を満たした。
それに耐えかねたのか、ナミキは部屋中を見渡して告げた。
「じゃあ、10分間の休憩」
その休憩の間、ナミキはイスズに寄り添って、何やらなだめていた。その終わりを告げるかのようにやってきたのは、オフィーリア役のミナミである。
「補充終わりました……」
だが、いつもクローディアス役とポローニアス役を叱りつけているときの威勢はなかった。すっかり意気消沈して、とても『三文オペラ』のオチをつけた堂々たる「白馬の使者」には見えない。むしろ、その背後に、何かこの世のものではない影を引きつれているかのようであった。
その姿をどこかで見たような気がして、沙の身体はすくんだ。
確か、玄関で初めて顧問の影を見たとき。いや、それ以前だ。500年くらい前か。
「時の……老人」
それは、『十二夜』に登場させた、「時間」の化身である。
「すみませ~ん」
「遅くなりました~」
二人のうち、どっちがどっちの言葉を口にしたのか分からない。
ヒガとナエキだった。
ナミキは、何事もなかったかのように部活の再開を宣言した。
「じゃあ、沙さんのアイデアについて意見を」
ミナミが静かだと、ヒガとナエキはまるで人が違った。
「つまり、ブレヒトの劇っていうのは、人間がただ頑張っただけじゃどうにもならない社会構造そのものを問題にしているんであって……」
「で、ベケットっていうのは、そもそもテーマ自体を表現しようっていうことが無意味なんだってことを舞台上でやってみせてるわけで……」
やはりどっちがどっちの言葉を喋っているのかよく分からない。
だが、その場の座員たちには二人の語っていること自体が分からないらしく、イスズを除いてはナミキまでもがぐったりと机に突っ伏していた。
その場の無力感は、今や最高潮に達していた。ただ1人、凛として2枚の長広舌に耳を傾けているイスズを、沙はじっと見つめた。
何を考えているのかは、さっぱり見当がつかない。分かるのは、この場にいない、沙よりも後の世に出たブレヒトやベケットが、「これじゃあダメだろ」と言っていることだけだった。
沙は決断した。
まず、この長くて退屈な話を、「止める」ことなく「終わらせ」なければならない。
思わせぶりに、立ち上がったままのヒガとナエキの間に座る。その後ろでは、すっかり生気の失せたミナミが机に伏している。
若い頃の妄想を揺さぶり起こし、スカートの脚を高く組み替えると、胸元をくつろげて、前髪をさらりと撫で上げた。
長々と続いていた話が、ぴたりと止む。
計画通りだった。
かつて『お気に召すまま』で、愛する男に求婚させようとする娘に男装させ、勝手知ったる乙女の心を掴ませるべく、恋の手ほどきをさせるくだりを書いたことがある。
それと同じだ。
男2人の視線が胸やら脚やらに注がれているのには怖気立ったが、これでミナミが逆上すれば、いつものとおりだ。
だが、ミナミは机の上から顔を上げようともしなかった。沙の左右に立っていた男2人も、無言で着席した。
再び、その場を沈黙が支配した。
まるで、何をやっても何の変化も起こらない『ゴドーを待ちながら』が終わった後のように。
そこで立ち上がったのは、ナミキだった。
沙につられるようにして、背後のミナミを含めたその場の視線が座長に集中するのが感じられる。
座長の言葉が、一同に投げかけられる。
「俺たちは、どんなことがあっても上演から下りたことはなかった。その都度、知恵を絞って切り抜けてきた。今度だって、きっとできる」
ミナミが、やっとのことで口を開いた。
「見通し、あるの? できるっていう」
いちばん厄介な男の顔が、沙の脳裏に否応なく浮かび上がる。
カサギだ。
確かに、レイアーティーズがいないとどうにもならない。サガミがぼやいた。
「嫌いだもんな、カサギ先輩……納得いかないことゴマカサれんの」
しかも、中途半端な妥協では納得しない相手だ。
その問題に対する答えは、イスズが持っていた。
「ごまかすんじゃないの。つじつまの合わないことを正当化するのは、演出の基本」
ナミキが頷くと、柔らかい微笑が返された。
「やってみない? いま、何もないけど、そうじゃないとできないこと」
イスズの頭の中には、「何もない空間」で演じる「ハムレット」のプランがまとまりつつあるようだった。
だが、舞台監督のサガミは席を立った。
「まだ、出番はないみたいだな」
視聴覚教室を、1年生のスタッフがぞろぞろと出ていく。
することがなくなったとき、たまらない苛立ちを抱えないではいられないのが人間であるようだった。
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