リア王遍歴
第16話 無冠の帝王
レイアーティーズ役の小柄な3年生、
「僕が来ないうちに、こんなところへ見学に来る羽目になっていたとは」
その一言で感情に火が付いたのは、妹のオフィーリアを演じる更井美浪であった。
「最後の1週間しか来たことのないお前がそれを言うか、アア?」
いつも小突かれているクローディアス役の比嘉とポローニアス役の苗木が、まあまあと間に入ってなだめた。
並木も、皮肉な事実を大真面目な態度で告げた。
「仕方ないよ。笠置だけだろ、あの乱闘騒ぎにかかわってないの」
「部長、それ嫌味に聞こえるんですけど」
露骨に顔をしかめた笠置から目をそらして、ホレイショー役の佐伯幸恵がぼそりとつぶやいた。
「聞こえるんじゃなくて、嫌味そのものなんだな」
違う違う、と並木は慌てて打ち消す。
「ここ、通信制でしょ?」
面白くもなさそうに笠置が文句を垂れる。それが聞こえるているのか聞こえていないのか、髪を色とりどりに染めた私服姿の生徒が、県立陵高校のブレザーを珍しそうに眺めてはすれ違っていく。
しかし、五十鈴は力強く言い切った。
「でも、演劇部はあります」
「見学するほどの実力があるかって言ってるの」
通信制の生徒たちを値踏みするかのような目つきで、辺りの生徒たちを見渡す。
「大会には出ていないだけで、あっちこっちで対外公演はやっているそうです」
「見てはいないわけだろ?」
その通りであった。部員の誰ひとりとして、この高校の上演を見てはいない。稽古が休みになったはずの演劇部がここに来たのは、誰あろう、そうさせた顧問の指示であった。
それぞれ1列に並んだ陵高校とシーボルト学園高校双方の演劇部が、だだっ広い「多目的ホール」で一礼を交わす。
お願いします、の一言で、招かれた陵高校は並べられた折り畳み椅子に整然と座り、招いたシーボルト学園高校の開演準備を見守る。
真っ先に不満を口にしたのは笠置だった。
「顧問が絶対に来いっていうから塾休んできたんだけど、何これ」
照明機材らしい灯体が、全くない。なんとかボーダーライトはステージ上につってあるが、サスペンションライトもパーライトも、
だが、後ろに座った並木は、険しい顔で言った。
「それ以上言うなよ、人間として」
その両脇では、沙と五十鈴が同じような目で笠置を見据えていた。
五十鈴が先に口を開く。
「稽古を休ませる代わりに、顧問が話をつけてくれたんです」
「勝手に決めたんだろ、どうせ」
塾を休まされたのが不満で仕方がない、といった口調で悪態をつく。そこへ沙が、口元に冷笑を浮かべて言った。
「顧問から私への返事です、これは」
笠置がぐりっと振り向く。
「これが最近入って来たっていう?」
「はじめまして、
畏まった挨拶だったが、笠置の訝しげな目つきは一瞬で緩んだ。
「あ、これは、どうも……」
愛想笑いを、沙は冷ややかに一蹴する。
「男の約束ってやつですね、顧問の」
そこへ上演開始のブザーが鳴って、笠置も居住まいを正してステージへ向き直った。
上演されたのは、『イソップ物語』のオムニバスだった。
まず、「北風と太陽」より。
北風:お前さ、俺より強いと思う?
太陽:お前は?
北風:あ、質問を質問で返す?
太陽:分かんないかなあ?
北風:やる気あんのか?
太陽:だからないんだって。
北風:じゃあ、あの旅人のコート、どっちが先に脱がすか勝負しようぜ。
太陽:小学生男子かお前は。
力の抜けた会話の果てに、旅人がひとり現れる。
だが、旅人は、「ごお~」と風の擬音を口で発しながら全力を挙げて威嚇する北風に対してコートの襟を立て、裾を寄せるばかりで動きもしない。北風はやがて、疲れ果てて床に転がった。
代わって太陽が、旅人のそばに立つ。その日差しにふと気づいたのであろう、旅人は、重そうなコートを無言で脱いだ。
ゆっくりと歩み去る旅人を、そこに立つ太陽と、倒れ伏した北風が見送る。
そこではじめて、春の微かな日差しを歌うBGMが流れた。
陵高校の部員たちの間に、奇妙な沈黙が生まれた。
真っ先に口を開いたのはもちろん笠置だったが、その口調はどこか固い。
「何? これ……いや、何が面白いの? SEとか照明とか使わなくていいの?」
その問いに答える者は、誰もいない。
ただ、沙だけが震える声で、同じつぶやきを漏らしたばかりである。
「何……これ?」
続いては、「オオカミ少年」。
台詞と言える台詞は、ほとんどなかった。
ただ、舞台上の群集が、「オオカミが来たぞ!」の声に逃げ惑うばかりである。
だが、舞台の上に取り残された少年の周りには、さっき逃げた群衆が唸り声と共に現れる。
少年は叫んだ。「オオカミが来たぞ!」
その瞬間、唸る群集は一斉に少年の上に覆いかぶさる。それがひとり、ふたりと無言で去った後には、もう誰も残っていなかった。
そこで静まり返っていたのは、舞台の上だけではない。
客席の陵高校演劇部も、静まり返っていた。笠置でさえも、発する言葉がないようであった。
そこへ、シーボルト学園高校の部員が舞台上に整列して一礼する。
「ありがとうございました!」
沙が立ち上がって手を叩くと、五十鈴が弾かれたように立ち上がり、それに続いた並木も我に返ったように拍手した。
やがて、雪解けの野原から草の芽が顔を出すように部員たちが立ち上がる。もたもたしていた笠置も、ヤケクソのように頭上で手を打ち合わせた。
基礎練習や様々な即興ゲームなどの合同ワークショップを終えて、陵高校は帰途についた。5月の連休前とはいえ、道はもう薄暗くなっていた。
笠置が、鼻で笑う。
「確かに、あれじゃ大会、出られないよな」
だが、それに応える部員はやはり、誰もいなかった。揃いも揃って、家と家とに挟まれた狭い道を見下ろしている。
そこで突然、紺色の空を仰いで、五十鈴が声を身体の底から絞り出した。
「負けた……!」
沙も大きく伸びをして、それを真似るように声を上げた。
「負けたね」
2人に挟まれた並木も、苦笑いする。
「うん、負けた」
そこで笠置が食ってかかる。
「何が? 何がいいの、あんなの? 衣装も照明も効果もあんなんでいいんだったら、大会のためにやって来たことは何だったわけ?」
そこへ、舞台監督の相模が口を挟んだ。
「部活来てないから分かんないんだよ……本物そっくりでなくていいって」
ふてくされたように、笠置はぼそりと一言だけ返した。
「装置作るヤツがそういうこと言うかな」
帰り際に、シーボルト学園高校演劇部の座長はこう挨拶していたのだった。
「僕たちは通信制だから、スクーリングかなんかで月に1回くらいしか集まれません。もっと集まれるんだったら、通信制にはいないでしょう。
だから、その1回に、ひとつひとつの台詞に全力を注ぎます。とても大会に出られるような上演はできないけど、そうやって舞台に立てるだけで充分です」
笠置は面白くもなさそうな顔で聞いていたが、並木はこう答えた。
「あの空間、すごいです。あの空気、あの呼吸、あの間。このときしかないと思うから、あのリアリティがあるんだと思います」
五十鈴が、そこへ割り込んだ。
「ほとんど何もしゃべっていなくても、あの存在感……鳥肌立ちました」
沙も、シェイクスピア『冬物語』の一節を口にした。
「どれだけ言葉を尽くしても通じないとき、まじりっけも毒気もないダンマリのほうが、相手を動かすことがあるものです」
そこでシーボルト学園高校演劇部の座長から返ってきたのは、この一言だった。
「最高の褒め言葉です」
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