第15話 オセローの教え
だが、次の日からのスタッフの落ち込みは著しかった。
無理もない、と並木は思う。ここまで出番がないのは、初めてなのだ。
稽古中のステージにやって来た背の高い舞台監督が、情けない声で足にすがりつく。
「部長~! 何やっていいか分かんないです」
舞台監督だけではなかった。装置を担当する部員は残らず、ステージの隅で七転八倒している。
稽古中の
クローディアス役の比嘉やポローニアス役の苗木などはともかく、問題はオフィーリア役の美浪である。実力はあるが完璧主義で、稽古場の空気がちょっとでも緩むと、ストレスが溜まるらしい。それを口にしないのは、役者としてのプライドであろう。
美浪の怒りを代弁して手を叩いたのは、演出の五十鈴である。
「いい加減にして!」
ステージの隅に横たわっていた舞台装置スタッフが、電光に打たれたように跳ね起きた。
並木も立ち上がって五十鈴に頭を下げる。
「悪い! 止めなかった俺がいけないんだ」
五十鈴はしばし、次の言葉に迷っているようだったが、舞台監督を見据えると、淡々と叱りつけた。
「演技ってさ、いくつもの神経を使い分けるものなんだ」
装置担当の部員たちがうつむく。だが、そこに反省がないのは何となく感じられた。それに気が付いているのかいないのか、五十鈴は役者の気持ちを、静かな怒りと共に説いてみせる。
「役者としての自分と、登場人物としての自分。芝居の進行を意識しながら、その瞬間、その瞬間に集中しなくちゃいけないの。で、役者としては、自分が登場人物にふさわしい行動を取っているか、ちゃんと確かめてないといけないの。だから、すっごく神経尖らせてるのよ」
そこで舞台監督が、装置スタッフの面々に向かって、もっともらしく茶々を入れる。
「そうだぞ……比嘉や苗木ですら」
舞台の反対側で、クローディアスとポローニアスが手を振る。オフィーリアがまた、2人まとめて小突いた。
スタッフたちはうつむいたままである。並木はそこに、尋常でない何かを感じた。
ふと、気になったのは、まだ制服姿で部活に来ている沙だった。彼女ならどう言うか、気になった。ちらっと顔を眺めてみると、別段、困った顔もしていない。むしろ、面白そうに見物している感がある。
少し、気が楽になった。思い切って尋ねてみる。
「聞かせてほしい、隠さないで」
ひとりが、ぼそっと言った。
「じゃあ、キャストだけでこの劇つくってください」
ほかのひとりも、恨みがましく言った。
「だいたい、レイアーティーズだって来てないじゃないですか、不公平です」
痛いところを突いてくる。
レイアーティーズ役は進学クラスでも特に成績がよく、台詞も立ちも1週間くらいで身に着けてしまうので、顧問が特別扱いをしているのだ。
五十鈴の眦が吊り上がるのを見て、並木は目でそれを制した。感情を爆発させたときの扱いは美浪のほうが厄介だが、五十鈴もいったん理屈を言い出したら止められない。
とはいえ、並木としては舞台装置スタッフの気持ちを無視することもできなかった。
「気持ちは分かった。でも、いつだって君たちがこの部に必要だってことは分かってほしい」
言えるのは、それだけだった。舞台監督の相模が装置スタッフに呼びかける。
「まず、黙って座って稽古を見よう。やるべきことが見つかるかもしれない」
部活が終わって、並木が締めの挨拶をしても、装置スタッフの表情は暗かった。
それが気にはなったが、今は解決の手段がない。とりあえず、その日は撤収するしかなかった。
部室で着替えて帰ろうとすると、玄関で沙が待ち構えていた。
「一緒に歩いて、いいかな?」
思わず、息を呑んだ。高校に入ってから、演劇部に入ってから、こんなふうに女子から声を掛けられたことはなかったのだ。
そもそも、演劇部には「部内恋愛禁止」という、半分冗談のようなルールがある。これは、部員間の恋愛感情によって稽古や部活動内の人間関係そのものに支障が生ずるのを避けるために設けられたものだ。
しかし、このルールに触れたものはついぞ見たことがない。きちんと守られているのか、上手にごまかしているのかは分からない。
ただ、肌で感じるのは、現在の面子での恋愛はまずあり得ないということだ。
「歩くだけなら」
一応は、そう告げておく。
だが、沙は靴に履き替えることはなかった。廊下をすたすた歩きだす。その後についていく形で、とりあえず体裁だけは繕うことができた。
沙がどこへ行こうとしているのか分からない。最初の一言も唐突だった。
「グローブ座って、知ってる?」
その名前を聞いたことはあった。シェイクスピアが作品を上演していた劇場だ。だが、どういうつもりで沙がそんなことを言い出したのか分からなかったし、どう返事をしていいかも分からなかった。
それをどう取ったのか、沙は一方的に話を続けた。
「やっぱり、いろんな人がいてね……大変だったわけよ、シェイクスピアも」
「まあ、それはそうだろうな」
500年も前の話だが、いつでも内部の人間関係は難しかったことだろう。
「でも、面白いことやりたいっていうのは、みんな同じだった」
「それが芝居作りだからな」
その気持ちは、並木にも理解できる。だが、沙はそこでふっと笑った。
「『オセロー』だって、アフリカのムーア人を主人公にするのは反対もあったの」
勇敢なアフリカ人の老将軍が、ヨーロッパ人の
「えーと、ヨーロッパではずっと悪役扱いだったから?」
実をいうと、自分たちが上演するのも抵抗がある。顔を黒く塗るメーキャップは、人種差別と取られる恐れがあるからだ。
沙が頷いたかどうかは、後ろからでは分からない。返事だけが聞こえた。
「でも、誇り高い救国の英雄が、劣等感と嫉妬で自尊心を失って破滅していくのに、国王一座も観客も、みんな共感したのよ」
そこで沙は振り向いた。その常人離れした目の輝きに並木の足は止まったが、我を忘れている余裕はなかった。
いつの間にか、背後に誰かが立っていた。
「部内恋愛禁止」
五十鈴だった。並木はすぐさま弁解する。
「そ、そんなんじゃないって」
「声、裏返ってる」
冷ややかに指摘するが、その目は沙を見下ろしている。だが、当の本人は動じた様子もない。
「一緒に来ませんか?」
五十鈴は眉を寄せた。
「どこへ?」
沙は答えもせずに、明かりの煌々と灯った廊下を歩きだす。
「それでやれるんなら、スタッフなしでやったらいいだろう」
誰もいない職員室で、椅子にもたれた顧問は背中を向けたまま、不愛想に言い放った。
沙にハメられたと思いながらも、並木は顧問の説得を続けた。
「部室を閉められたのは、仕方ないです。先生の方針なんですから。でも……」
その先のことは、五十鈴の領分だった。演出プランで顧問の心を動かすのは、考えた本人でないとできない。
並木と同じことを、五十鈴も考えていたようだった。
「光と音の他には何もない空間で、全てを表現するんです。舞台装置担当の出番はないです。でも……」
五十鈴の言葉も詰まった。それが、自分と同様に膨れ上がった感情によるものだということは並木にもよく分かった。
顧問の心が動く様子はない。生きてきた時間が何十年も違うと人は分かり合えないものなのだろう。
だから、最後に残った沙が何を言おうと、顧問の協力は得られない。
そう覚悟したときだった。
沙が、静かに口を開いた。
「信じてます、本当は何もかも分かってるって」
そう言うなり、職員室を出ていく。顧問はやっぱり、振り向きもしない。並木は全てが終わったのを感じた。
「あの……僕たち……」
「暗くなる前に帰れ」
その一言に、五十鈴は並木の腕を引くことで応じた。これ以上、何を言っても無駄ということなのだろう。
沙は、職員室の前で待っていた。五十鈴が声を低めてその名を呼んだ。
「オキナ……」
並木はその肩を捉えて押しとどめたが、応える沙の声には、動じた様子もなかった。
「ああ言われた男がすることは、洋の東西を問わないものよ」
そして、次の日。
顧問からの通告で、稽古は無期限の休みに入った。
並木が苛立ったのは、事ここに至るまで、レイアーティーズ役がとうとう姿を現さなかったことである。
部活動紹介で1年女子の黄色い歓声を浴びていた笠置誠が。
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