デイド・サーガ

小万坂 前志

オーガの覇者

プロローグ

プロローグ

 撤退を開始してどれぐらいたっただろうか。えて騎馬の機動力を発揮できない湿地を選び敵の包囲のほころびをつけたが、まだ終わりはみえない。



 おかげでデイドは愛馬も捨て、全身泥まみれで、父祖伝来ふそでんらいの宝具は薄汚れ一族の誇りであるはずの輝きは見る影もない。



 一方で追手は高原の民の誇りをすて、平地かぶれの重装備の歩兵で包囲し、少数の騎馬の別動隊が湿地を迂回うかいして先回りをしようとしている。彼我ひがの兵力差は百倍以上。精兵とはいえたった百騎の騎馬兵で敵の本拠地に乗り込むなど無謀むぼうでしかないだろう。



 だが、この状況はデイドにとって望むべきものであった。例え勇敢ゆうかんで、己に絶対の忠誠心をもつ将兵を失っても、父祖伝来の宝具をけがしてでもやり遂げなければならなかった。


「もはや個人の武が戦を決める時代は終わったな……」


「若! なにを仰いますか! 若を恐れて奴らは全軍をもって――」


「皆まで言うな、一騎当千など文字通り喩えだ。千の価値があるというだけで俺が今から夜明けまでに、この万の兵の包囲を打ち破れると言うことではない」



 深夜に夜襲をかけだが、空はもうしらじんでいる。



 とうに敵軍の混乱は収まり――むしろ襲撃を予想して対策を講じていたかのように、デイド達を刻一刻こくいっこくと追いたてる。



「勝ったものが強いのだ。個人の武があることが強さなのではない」


「しかし、人をさらい人質をとるなど恥知らずにも程がありますぞ」


「爺よ、そんなに怒っていては、白髪はくはつがまた増えるのではないか?」


 爺と呼ばれた壮年の男――ズゼンはなにか言いたげに口を開けたが、真一文字にその口を閉じてしまった。


 彼は不言実行ふげんじっこうが信条であり、不動心ふどうしんをもち無駄は嫌いな性格である。そんなズゼンに対して、デイドはいつも何かにつけて「つまらないぞ」と愉しそうな顔をしては弄って、その動かない心に小さな揺らぎを与えている。


 しかし、今はそのようなことをしているような余裕はないのだ。


 緊迫した状況で普段通りの言動をするのは、一度だけズゼンがデイドの幼少の頃にそうあれと教えたからでもある。


 普段の訓練のときは本番のように、いざというときは普段のようにというのは、言うは易く行うは難しだ。


 英雄の資質のようなものを本能的に理解し行動する才気溢れる若武者が世継ぎいることに、ズゼンは一族の繁栄を確信したものであったが、現実は甘くなかった。



 かつて従えていた高原の四大部族の一つの醜い裏切りにより、その未来は脆くも崩れ去った。騙し討ちによりデイドは、高原に覇を唱えようとした偉大な父親を失う。その時から歯車は狂っていった。



 力が全てであるオーガで構成された高原の民には、まだ若年であったデイドを族長とは認めなかったのである。高原の民に伝わる伝説の武具のひとつを手切れとして、一部の側近が付き従うのみでその権力はすべて失われたのであった。



「刻さえあれば、刻さえ……」



 ズゼンの呟きは衰えゆくわが身の力のことか、それともデイドを力のある族長として他部族に認めさせる実績を積ませることか。

 走りゆく風のなかに消えた言葉の真意を知るものはここにはいない。



 泥が脚に絡み付く不快な感触をものともせず、デイドはこの無様ともいえる逃走をする集団の先頭に立ち、皆を先導している。その傍らにはデイドのお目付け役でもあり、師でもあったズゼンが、そしてデイドに心酔する側近たちが続く。



 初めからたった百騎であった兵は、突撃の際に二十、陽動のための騎馬が十、歩行かちになってからの囮で十、それぞれ散っていった。彼等のためにもデイドは立ち止まるわけにはいかず、残った兵を鼓舞するように走り続ける。



 伝説の鎧を着るデイドは一族の誇りであり希望でもあった。今までどんな逆境でも倒れなかったデイドの姿に兵達は死をも恐れぬ勇気を得ていた。死地となっているこの地であっても、誰一人として死への恐怖は感じていないようだった。屈強な戦士たちは背中に迫る死から逃げているのではなく、眼前のデイドに映る希望という未来へ向かってその身を動かしていた。



「クロガネ殿は上手くやってくれたのでしょうか? 救出した合図の閃光弾は上がりましたが……」


 デイドの側近を勤めるベーラーが不安げにデイドに問いかけた。彼の身体もデイドと同じように行軍によって撒き散らされた泥に汚れている。


 夜明けが近くうっすらと霧が出てきたように、デイドが最も信頼する臣下の一人であり、幼馴染みの友人でもあるベーラーの心にもはっきりとしないもやがかかっているようだ。


 死への不安はなかったが、ベーラーは万が一でも、モーカを失ったデイドが立ち直れないのではないかという恐怖があった。


 彼という御幡みはたがいるからこそ一族はなんとか誇りを保ち、弱小である勢力を拡大させようと一致団結をしてこれた。だからこそ、裏切った一族の長であるゴティウはこの機を逃すまいと執拗しつような攻撃をデイドに放っていた。


 しかし小さなうちに消したかった火種は、決して消えることがなかったのである。


 力押しがだめなら卑怯な手を使ってでもというのは、誇りを売ることで、金品を得て帝国の傘下収まってしまったかつての同胞がやりそうなことだと、彼らは皆怒りを抱いていた。


「大丈夫だ。父祖の加護がついている。霧が出てきたのも天命だろう。モーカも義父殿のもとへ落ち延びているはずた。なぜだか分からないがモーカは無事であるという確信がある。これが我らの絆というものだ」


「こんな時にのろけですか……」


 かっかっかっとズゼンが豪快ごうかいに笑いをあげた声が響き、だんだんと濃くなっていく霧と反対にベーラーの靄の一つが晴れていく。


「霧が深くなってきましたが、ルブへの方角は問題ないでしょうか?」


 ベーラーがもう一つの不安を口にした。


「クロガネ殿から預かった、ルブの大森林を指すという不思議な羅針盤らしんばんは確かに一定の方を示している。これがどういう事なのかは俺にも解らん」


 影の民の族長であるクロガネから借り受けた羅針盤を手にデイドは答えた。


 星を詠むかぎりは恐らく方向は間違ってはいませんぞというズゼンの言を聞く限りでは、デイドはクロガネが嘘を言っていないという直感の裏付けを得ていた。


 しかし、すべてがクロガネの仕向けたことであるという疑念ぎねんを晴らすことはできなかった。



「クロガネ殿は信ずるに価する御仁だ」



 つい先日一度会っただけの人物をデイドは評した。もとより選ぶ道がなかったからであるが、クロガネが人を騙すような人物であるとデイドは判断しなかった。そこでさいは投げられたのだった。


「救出が上手くいったのは、ゴティウも帝国に誇りを売っても、女子供まで殺すほど外道ではないということなのだろう」


「そのようなもの、ただモーカ様の首に懸賞金けんしょうきんがかかっていなかっただけの事でしょうぞ……」


 ズゼンの吐き捨てるような言いぐさには、憎しみが溢れていた。


 白髪に見え隠れするその眼光は遠い過去かつての高原でアジータの双璧そうへきと呼ばれていた頃の鋭さと全く変わっていなかった。



 実際のところ、命からがら逃げているといって間違いはないのだが、時がたつにつれ逃げ切れる公算は大きくなる。ルブの大森林では別動隊が馬を用意して、デイド達の到着を今か今かと待ちわびているはずだ。合流地点をそこにしたのは、クロガネからの提案だった。ルブを指す羅針盤もクロガネの持ち物だった。


 クロガネを信じると言ったデイドでなくても、そこまで手の込んだ罠をはるとはあまり思えなかったが、可能性はゼロではないため、ベーラーは不安に感じていたのである。



「我らの勝利は生き残ることだ!」



 そんなベーラーの心中を察したのか、デイドが皆を鼓舞するように声を揚げた。逃げているが故に鬨はあがらなかったが、一同の心の中に力が宿る。


「違いますぞ、勝利は若が生き残ることです」


 そう言ったズゼンの顔を見て、デイドはこの熟年の戦士はここを死地と決めたのだと悟った。


 かなり濃くなってきた霧の中を力強く駆ける一団はさながら竜巻であった。大気を揺るがすほどの鬼人族を力で止める存在はこの高原には存在し得ないのだという自負を抱き、デイドは疲れを知らないように走り続けた。



「丘陵が見えてきたぞ! ルブ湖畔こはんは目の前だ!!」

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