キセレの暴走

 世界とは二枚の重なった紙である。薄く均一な紙は重ねると傍から見れば一枚の普通の紙に見えるだろう。しかし、いくら綺麗に重ねても決して一枚にはならない。それが摂理である。


 世界とは現界と幻想界の二つから成り立つ。


 現界とは普段、我々のいる世界。人が、動物が、竜や魔族、全ての生を受ける者が暮らす世界。そこには聖術気マグリアが満ち溢れ、様々な生物の生活の基盤になっている。


 だが、その聖術気マグリアを普通の生活の中で見ることはできない。そこにあるはずなのに、目の前に広がっているはずなのに見ることはできないのだ。


 しかし、ひとたび幻想界に入れば見えなかったはずの聖術気マグリアの全てが見えるようになる。


 世界とは重なった二枚の紙。一枚の紙の上からでは見えない景色も、二枚目の紙からは見ることができる。


 その一方で二枚の紙はどれだけ重ねても二枚の紙に過ぎない。一つになることなどできない。世界の源である聖術気マグリアを除き、本来干渉することはできないのだ。




 —————




「大雑把だけど、これが世界の構造。幻想界はいわば別のベクトルから見た現界とも言えるね」


 大きすぎる話にその場の誰も頭がついていかない、と思われたが、意外にもシェリアは比較的順応しているようだった。


「えっと、まぁその現界と幻想界を合わせて一つの世界ってのは分かった。理屈はわからんけど、そういうのがあることは分かった……」


 腕を組み唸るように声を出す飛鳥。正直、いきなり世界が二枚の紙のように重なっているだけとか言われても納得はできない。だが、今はそこを細かく追求するべきではないことも確かだ。


「それで結局のところ、俺のこの眼でも見抜けないこの結界の正体は何なのです?」


 ディノランテが少し強めの口調で言う。それも当然だ。彼はある特定の場所を除き、その左眼で見抜けない聖術気マグリアは決してないのだ。


 それが今、崩れ出そうとしている。彼の心に不安が渦巻いても仕方がない。


「答えは単純だよ……」


 キセレはそう言いながら人差し指を突出した。


「……この術式は幻想界で組まれたものだからね」

「は?」


 ディノランテが間の抜けた素っ頓狂な声を発した。そして、見る間に憤慨の表情へと変わり殺気立つ。


「ふざけるな!」


 怒りのままに叫んだ。


「あなたは先ほど、我々はその幻想界に干渉は出来ないとおっしゃったではないか! あれは嘘なのか!?」


 確かにキセレの発言はおかしい。聖術気マグリアを除き現界と幻想界は交わることはないと、つい先ほどキセレ本人が言ったではないか。


 だが、彼はそれをすぐに覆した。幻想界で組まれたと言うのならば、そのためには幻想界に渡り、その地に直接術式陣を設置しなければならない。魔法術や術式の基本について疎い部分がある飛鳥でも、それぐらいのことは分かる。


 しかし、まさかディノランテがここまで怒りを表に出すとは思っておらず、少し面食ってしまった。


「嘘じゃない……いや、少し違うね。正確には『干渉出来ない』じゃなくて、『干渉する方法が分からない』……かな」

「分からない……?」

「そう……、分からないんだ。あの女でさえも……」

「あの女?」


 とっさに飛鳥が聞き返した。


 不満げに眉間にシワを寄せていたキセレは飛鳥の声にはっと我に帰る。そして、「何でもないよ」と言いたげな顔で首を横に振ると話を戻す。


「過去にいたんだよ。唯一、たった一人だけ幻想界と繋がった男が……」


 その場の全員が固唾を飲んだ。


「それは『ナントラー』。君たちが『原初の魔法使い』と呼ぶ男の名だよ」


 辺りに静寂が流れるが、それぞれ三者三様、様々な表情をしていた。


 飛鳥は何か言いたげに口を開くが言葉が出ず飲み込んだ。あまりにも、あまりにも大きなことに飛鳥の脳が追い付かない。


 ナントラーとは神話とも呼べる時代に起こった世界の終わりを救った魔法使いであり、魔女と賢者の生みの親だ。その存在は謎が多く、躍起になって研究を続けるものも少なくはない。キセレもその一人だ。


「ここでナントラーが出てくるのか……」


 飛鳥は顎に手を当てようやく言葉を絞り出した。そんな飛鳥にディノランテが声をかけた。


「おい、アスカ。お前は……、その『ナントラー』という名を、知っていたのか……?」

「え? あ、あぁ。だって何万年も前にこの世界を救った英雄……だったよな? 別に知ってても……。っ!?」


 その時、飛鳥は気づいた。シェリアを除く四人の視線が自分に集まっていることを……。


 キセレまでもが当惑の表情を浮かべ冷や汗を流していた。


「え、まさか……、ナントラーの名前って伝わってない感じ……?」


 今思うと、シェリアから初めて『原初の魔法使い』の話を聞いた時、その名を口にすることはなかった。


「そのまさかだよ。僕でさえ、ナントラーって名前一つ付き止めるのに十三年もかかったんだ……」


 何万年も昔、空に大穴が開いた。それを防いだのがナントラーと言う一人の魔法使いだ。だが、後世に語り継がれたのは、その偉大なる功績と『原初の魔法使い』という異名だけだった。


 この世界で『ナントラー』という男の名を知る人物は片手で事足りるのだ。


「ねぇ、アスカ君。君、どこでその名を知ったの……?」




 —————




 カツンカツンと僅かな光のみが浮かぶ暗闇に靴の音が反響する。


 飛鳥たちは今、遺跡の内部へ向かうために光が吸い込まれる階段を降りていた。地下から吹き上がる冷風にさらされ鳥肌が立つ。


 寒気に身を震わせた飛鳥は腕を擦る。だが、その寒気は肌を撫でる風のためだけではなかった。


 つい十数分前のことだ。


『ねぇ、アスカ君。君、どこでその名を知ったの……?』


 飛鳥はシェリアに横目でちらっと視線を向けると、それに気づいた彼女が一度だけ頷いた。


『森……、ナウデラード大樹林にいた白竜。そいつが教えてくれたんだ』


 ナウデラード大樹林には竜が住む。それは誰もが知る周知の事実だ。だが、その竜が『原初の魔法使い』と関わりがあることは誰も……、キセレでさえも知らぬことであった。


 飛鳥はそんな重大な事実を知ったキセレが再び狂喜に満ちることを恐れたが、それは杞憂に終わった。


 キセレは飛鳥の言葉を聞くや否や、目を見開き口を開け呆けていた。そして、我に帰ったキセレは「遺跡に向かおう」と口にしてから一度も口を開くことはなかった。


 その態度が飛鳥には不気味でしかたがない。あれから、緊張を解くには十分な時間が流れたはずなのだが、未だに身の毛のよだつ気分だけは治まることはなかった。


「お! あれが出口かな!?」


 先頭を進むキセレが言う。壁に『光源ユグライン』の光を吸われ、キセレの背中はぼんやりとしか見えなかったが、その声の明るさからは外で感じた不気味さは感じられなかった。


 そして、廊下の先に見えた光を見つけたキセレは、その感情を抑えられず一目散に駆け出した。


「うっほぉぉ、こりゃやっべぇぇぇ!」


 遺跡の内部に着いたキセレは、まるで宝石箱の中にいるかのように目をキラキラと輝かせながら両手を上げる。


 遅れながら到着した飛鳥は、あまりにもテンションの高いキセレの様子にドン引きした。


「あぁぁぁぁ! やばいって、これ! 綺麗に残りすぎだろ! 僕のものにしたい! 臭い付けていい!? 付けていいよね!? ひゃっっほーーー!」


 すでに狂人となったキセレを止めることは不可能に近く、遺跡を転がり柱や床に顔を擦り付ける姿をただ呆然と眺めることしかできなかった。


「はぁ、全くあの人は……、いつもいつも……」


 ヘレナが額に指を当てため息をついた。そして、申し訳なさそうな顔つきで飛鳥たちに軽く頭を下げた。


「私はあのバカを止めてきます。一先ず、ここで自由行動にしましょう」

「あぁ、はい。頑張ってください……」


 頭を上げたヘレナは踵を返しキセレの元へかけて行った。飛鳥の横にしゃがみ込んだシェリアはポケットからハンカチを出し、ヒラヒラとヘレナを見送る。


「はぁ、自由時間って言っても既にある程度見たんだけど……、うぇっぁ!?」


 頭を掻きながらこの時間をどう過ごすか頭を悩ませた飛鳥は、不意に目に入ったディノランテの姿に驚嘆の声を上げる。


 げっそりと顔から生気が失せ、身体に力が入っていない。見覚えのあるディノランテの姿。


 飛鳥はキセレとディノランテを交互に見やり理解した。


 遺跡の入り口に着いた時のディノランテの姿にそっくりだ、と。


 ディノランテに同情の念を抱き、飛鳥は彼の肩にポンと手を乗せるのであった。

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