湖の守護者

 光る湖の水面に飛鳥は顔を付け浮かんでいた。


「ぷはぁ! ゴホッゴホッ!」


 だが、いつまでも息が続くこともなく飛鳥は起き上がる。


 息を整えた飛鳥は恐る恐る振り返る。そして、腰を下ろしていた飛鳥はその目線の先がディノランテの腰の位置と重なった。


「殿下はもう二度と他人の前で裸にならない方がいいと思います」

「はぁ? なんだ急に……」


 ディノランテの容姿は誰もが羨む美しい様子をしている。男だと言われても信じる方が難しいかもしれない。


 それは飛鳥も同様だった。


 父親に女性として生きるよう強要され逃げ出したと言っていたが、頭の片隅では嘘を言っているだけで本当は元から女性なのかもしれないと考えなかったと言えば嘘になる。


 しかし、その疑問は確信へと変わってしまい、落胆してしまう。この人はやはり、男なのだと……。


「と、ところで殿下は何故ここへ?」


 飛鳥は水面に飛び込んだ拍子に緩んでしまった腰のタオルを結び直しながら言った。


「そんなものよくすために決まっているだろう。別に男同士だし構わんだろ?」

「はぁ、別に構いませんが……」

「ところで何だ!」


 飛鳥は突然、大きな声を出したディノランテに身体が強張ってしまう。


「腰に布など巻きおって。ここには男しかおらんのだ。とってもよかろう! それとも何か? 男にも見せられぬような貧相なものしか持っておらんのか、お前は?」


 そう言いながらディノランテは両手を構えジリジリとにじり寄ってくる。


「え、えっ……、えっ? 何なんですか? ちょっとまじで何なんですか? 何ですか、その手? 近づかないでください!」


 飛鳥は身を翻し彼に背を向け逃げ出した。


 それと同時にディノランテも飛鳥を追いかける。


「減るものでもないし、別によかろう!」

「嫌です! それに殿下の見た目、もろ女なんですよ! 絵面的にやばいって分かってます!?」

「あっ! 貴様ぁ、今私を女と言ったな!? 絶対に剥ぎ取ってやる!」


 逃げ回る飛鳥を執拗に追い回すディノランテ。膝より少し上の水面が飛鳥の体力をゴリゴリと削り足が重くなるが、追いかける女男は鍛えているためか一向に衰える気配がない。


 ついに捕まってしまった飛鳥は水面に押し倒され、ディノランテの手が腰のタオルを掴もうとした時、少し離れた水面が急激に持ち上がり二人を大量の波が襲う。


「ゲホッゲホッ! なんなんだよ、ったく……」


 飛鳥は急に押し寄せた波に咳き込んでしまう。だが、そのおかげでディノランテの追撃を回避できたと考えれば正直助かったと言わざるを得ない。


「ま、まずい……!」


 飛鳥が頭を傾け耳に入った水を抜いているとディノランテがそう呟く声が聞こえ、その瞬間……、


「何がまずいのだ?」


 腹にずっしりとのしかかるような野太い声が周囲に響き渡った。


 飛鳥はその声に何故か以前に感じたことのある恐怖を無意識に感じ取った。


「い、いえ。今のは言葉のあやと言うか何というか……。は、はは……」


 ディノランテはいたずらをした子供に若干の怖気が混じったような声で返した。その無邪気さを含んだ声に飛鳥の張り詰めた緊張が緩み、ゆっくりと顔を上げその野太い声の主を見た。


 それは竜だった。その大きな身体を覆う鱗一枚一枚に光る水を反射させる。鼻の横から伸びる長い髭、首回りの体毛がゆらゆらと揺れ、その姿は神々しいの一言だった。


「あの、殿下……、これはいったい……」


 その竜と流暢に会話をするディノランテに目を向けた。


 ディノランテはコホンと一呼吸置く。


「彼は『原初の魔法使い』が世界各地に残したと言われる『七天命湖しちてんめいこ』を守護する水竜様だ」

「げ、原初の魔法使い!?」


 原初の魔法使いとは数万年もの昔、天に突如として空いた大穴を塞いだ者とシェリアから聞いていた。そして、自身の力を二つの神杖しんじょうに分け二人の弟子に託すことで『魔女』と『賢者』を生み出した張本人である。


 そんな『原初の魔法使い』の名をここで聞くとは思っておらず、飛鳥はつい大きな声を出してしまう。


「この湖はその『七天命湖』の一つだ。だが、実際のところ何故『原初の魔法使い』がこの湖を残したのかは分かっていない」

「分かってない?」


 飛鳥はそう呟くと水竜に目を向けた。そして、その視線に気づいた水竜が口を開いた。


「そんな目で見るな。ワシ自身、奴が何故こんなものを残したのか知らんのだ」


 飛鳥は知らないと言われて仕舞えばそれ以上追求することも出来ず口を噤んだ。


「ところで、水竜様は何故この湖に? 少し前にここを立ったと聞いていたのですが……」


 ディノランテがそう尋ねると水竜は飛鳥に目を向けた。


「最近、懐かしい気配を感じてな。少し覗きにきた」

「懐かしい、ですか……」


 飛鳥は水竜の言葉が自分とシェリアに向けられていることを瞬時に理解し、身体に緊張が走る。


 以前、ナウデラード大樹林で出会った白竜は友好的な姿勢を見せてくれたが、今、目の前にいるこの水竜がそうとは限らないからだ。


 湖の光に反射した水竜の瞳が飛鳥を捉えて離さない。


 だが、その視線は意外にもすぐに飛鳥から逸らされた。


「まぁ、それは物のついでだ」

「ついで……?」

「あぁ……」


 水竜はそう言うと首を捻り遠くの方角を眺めた。そこに何があるのか飛鳥には分からなかったが、魔女と賢者が現れる事態よりも深刻なことが水竜に、そしてこの地に起こっているのかもしれない。


「ところでディノランテよ」

「は、はい!」

「お主、オスではなくメスだったのか?」

「…………はい?」


 突然だった。何の脈絡もなく発せられたタイムリーなその言葉はディノランテの思考回路を停止させるには十分であった。


 一歩間違えば灰となり風に乗り吹き飛んでしまいそうな、そんな虚無的な雰囲気を纏っている。


「あの、殿下……?」

「はっ!? な、なななな何をおっおおおっおっしゃるのですか! 私はお、おおお女などではなくておと$%~~*£€!>#}|>$$£!!」


 狂気、としか言いようがなかった。もはや言葉として成り立たぬ謎の音を発し、髪を振り乱し地団駄を踏み、暴れるように身振り手振りで全身を使い訴える。


 傍から見ればそのディノランテの動きは奇怪的で滑稽なものに見えるだろう。


 だが飛鳥にはディノランテがただ一つ「女ではなく男である」ということを必死に伝えようとしていることがひしひしと伝わった。


 そして、それを水竜もきちんと理解した。しかし、水竜はだからこそ新たなる疑問が浮かび上がる。


「人間はオス同士でまぐわうのだな。変わった種族だ……」

「え……?」

「は……?」


 目の前にいるキラキラと水の光を反射する竜はいったい何を言っているのだろうか。


 水竜の顔を眺める飛鳥とディノランテの思考が一致した。「この竜はいったい何を言っているのだ?」と。


 二人は黙り込み水竜の顔と互いの顔を交互に何度も行き来する。そして、


「はぁぁぁぁぁぁ!? あんた何言っちゃってんのっ!?」


 少しの間、水の音だけが鳴り響く空間に飛鳥はそれを掻き消すように叫んだ。飛鳥は目上の立場の者には決して敬語を崩すことはない。だが、それが崩れている様子から心中穏やかではないことは明らかだった。


「そ、そうですよ、水竜様! 私たちは断じてそのようなことは……」

「だが、先程ディノランテよ、お主がそっちの者を押し倒していたではないか」


 飛鳥はディノランテに腰のタオルを剥ぎ取られそうになっていた。その光景が水竜にはまぐわっているように見えたようだ。


「ちょっ!? 殿下は知らねぇけど、少なくとも俺にはそっちのはねぇよ!」

「なっ!? 貴様、何を言っているのだ! 私もそのようなことはない!」

「いやいや、俺は何度も『やめて』って言いましたよぉ? でも殿下はやめてくれなかったですもんねぇ。水竜様が現れなかったら今頃どうなっていたか」

「き、貴様ぁ〜!」


 そんな二人の不毛な言い争いを水竜は冷ややかな目で大きな欠伸をした。


「まぁワシは人間が誰とまぐわおうが正直どうでもよい」


 言い争いが発展し互いの肩を掴み合う事態になっていたが、水竜のその言葉に二人は急速に冷静さを取り戻す。


 水竜は最後に、


「しばらくワシはこの地に留まる。またどうでもいいことで騒ぎを起こすでないぞ」


 と、残し湖の底へと消えていった。


 飛鳥はポツンとその場に取り残されたような感覚に囚われ、水面に何の抵抗もなく後ろ向きに倒れこんだ。


「何なんだよ……、ったく……」


 そう呟いた飛鳥の言葉が静まり返った空間に響き渡ったのであった。

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