森の慟哭

 それから、フランツを起こし森番のフォスターが駆けつけてくるまで、そう時間は掛からなかった。森の入り口で出会った時とほぼ同じ格好で、木々の合間をしなやかにすり抜けて高低差がある林床を、一気に疾駆しっくしてきたのだ。

「大丈夫ですか皆さん!村の方からライカンスロープが出たと……」

「貴様、フォスターだな。貴様だけは来てくれると信じておったぞ」

 フランツが珍しく機嫌よくフォスターを迎える。

ギャリックは半壊した皮鎧をベルトで補強して再び着込んでいる。恐ろしく静かな目でフォスターを向かい入れると、後は任せたとばかりにルロイに目くばせをする。ルロイだけは普段通り朗らかな笑みを湛えていた。

「フォスターさん。一つうかがってもよしいですかね」

「はい」

 ルロイはケープの内側から二つのものを出す。それぞれ、左右の手にそれをフォスターに掲げて見せる。

「この二つに、見覚えはありますよね」

 一つは樹皮で造られ中央に二つの血判が押印された証文、証文に書かれた文字はフォスターの杖に刻まれた円環型の文字と同じものであった。加えて、血判のうち一つは明るい青色に変色していた。ちょうどルロイのもう片方の手に握られた短剣の白い鋼に同じ明るい青色の付着物がこびり付いていた。

「青白く光っている個所は、同じ人物あるいはモンスターの血液を示しているんですよ。説明すると長くなりますが、そういう事の出来る悪友が身近にいましてね」

「それで?私にはあなたが何を仰っているのやら」

 フォスターは、丁寧な口調ながらも動じた風もなく、その目はルロイに挑みかかるようでさえあった。

「あなたの杖の文様を見たときから引っかかってはいたんですがね、ギャリックさんがこの短剣であなたに一矢報いてくれたおかげで、疑惑は確信へとつながりました」

 フォスターは表情をなくし、ただ無言であった。ルロイは二つのものを外套へしまい込み、代わりに今度は用意していた証書を外套から取り出し、自らの質問文を読み上げる。

「真実の神ウェルスの名のもとに問う。汝、ウィリアム・フォスターは森に巣くいし異形のものであるか?」

 厳かなプロバティオを告げるルロイの声を、フォスターは確かに聞いた。

フォスターのそれまでの張りつめた無表情が遂に崩れ去った。その口元が、諦観ていかん嘲弄ちょうろうがない交ぜになった不思議な感情で歪んでいた。

「大した勘と嗅覚だ。人間にしておくには惜しいくらいには……な」

 フォスターがかっと目を見開き、犬歯をむき出しにして唸る。

「質問に答えよう。そう我は人にあらず!」

 言い終えるやフォスターの頭が歪み、狼男が頭をもたげる。

「しかし、森に巣くいしとは心外だな。その言葉貴様ら人間に返してやろう」

 ギャリックとフランツが反射的に得物えものに手をかける。ルロイは二人を手で制し、更にプロバティオで問いかける。

「汝は自ら神であることを否定するか?」

 フランツがいる手前、ボドの契約の事まで触れるわけには行かなかったが、ボドが狼男と契約をするに至った錯誤さくごの理由について触れなければならなかった。目の前の獣人が神でないことさえ証明できれば、真実の神ウェルスの御名とレッジョの法の支配の名において契約も取り消すことができるはずだ。

「……答えはいなだ」

 長く意味深な沈黙の後、狼男は答えた。

「証書が赤く光らない」

 ルロイの手にあるウェルス証書はただの紙切れのまま光らずにいた。狼男は嘘をついていない。

「ルロイよ、御託はもういいぜぇ。今度こそ、ブッた斬ってやらぁ」

 ついに我慢しきれなくなったギャリックが、勇み出る。

「無駄だ!貴様の剣など食らったところで我は倒せぬ」

 冷たく言い放つ狼男に、ギャリックは半壊した皮鎧を自ら引きちぎってその残骸を投げ捨てる。まだ血の染み込んだ包帯で覆われた上半身を無防備にさらけ出す。

「なんで、脱ぐんだ!?」

「その方がたぎるからに決まってんだろうが!」

 フランツの詰問きつもんに、野暮天やぼてんめとギャリックの狂気が張り付いた笑顔で返す。

「すでに深い傷を負っているのに、もう一撃食らったらおしまいですよ」

「この救いがたい痴れ者めが、今度こそ冥土へ送ってくれる!」

ルロイの心配も、狼男の嘲りも耳に入らぬとばかり、ギャリックはダガー二振りを両の手に持ち、その刃をクロスさせて威嚇いかくする。

 狼男は、はじめギャリックのトチ狂った覇気に警戒の念をにじませていたがもはやただの策のない蛮勇と認識してか、両の爪を逆立て余裕さえ浮かべ、ギャリックへと躍り出た。

「イヒャッハー!!」

「無駄だと言おうが」

 ギャリックの二つのダガーと狼男の爪がそれぞれバインドする。

力ではやはり狼男に分が上がるのか、人狼の長い爪が短刀の鋼へとギリギリと食い込んでゆく。

このままでは先ほどの戦闘同様、剣身が折れるか砕けるか。

いずれにせよギャリックに勝ち目はない。

苦悶くもんの表情でギャリックは後ずさる。それに合わせて狼男が前のめりに一歩にじり迫った時――――

「ヒャハ、掛ったな間抜けがぁ!」

 ギャリックは、爪が食い込んだダガーを持った両手首を外側へと捻った。僅かの隙とは言え、一歩ギャリックへと肉薄する事へ気が反れた人狼は上半身のバランスを崩してしまった。

狼男はそのまま、ダガーに食い込んだ爪ごとギャリックの腕の動きに引っ張られ、両の前腕が外側へとひねられた。必然、無防備な胴体をさらすことになる。

勝負は一瞬であった。

「ぶっ殺しィィイイ!!」

ギャリックは両の手からダガーを素早く手放し、包帯でくるまれた上半身に手を突っ込んだかと思いや、何かをつかんだ右手を狼男の腹へと押し込んだ。

「これはっ、銀!」

「それも聖別せいべつされている一級品よぉ」

 狼男が鮮血と共に苦悶くもんの唸り声を上げ、ギャリックは獰猛どうもうな笑みで磨かれ本来の白い鋼を取り戻した銀のナイフを頼もしく一瞥いちべつする。

 銀は金同様錆びることはないが、硫化りゅうかして黒ずむことはある。

前回の戦闘で狼男が怯んだ理由を、神殿型のダンジョンで見つけたというギャリックの黒ずんだナイフとどうにかつなげて考えられたのもリーゼからの受け売りであたったが、今回その知識のおかげで狼男を追い詰めることができた。ナイフが聖なる力で聖別されていることも、黒ずみが落ちるにつれナイフの複雑な文様は聖印であると容易に分かった。

 ギャリックの作戦も見事であった。本命の銀ナイフは狼男に悟られぬよう包帯の中に隠し上半身の防具をかなぐり捨てる演技で狼男にただの自棄やけになった猪武者いのししむしゃと認識させ油断を誘ったのだ。

 狼男はなおも呻きながら、何か懇願こんがんするように舌を動かしながら地面へと力なく倒れていった。

「死んだか?」

 しばらくの沈黙の後、それまで事態を静観していたフランツがおずおずと歩み寄る。

 半開きになった狼男の口から自らの血にまみれた長い舌がだらりと垂れている。ギラつき獰猛どうもうだった双眸そうぼうは、精彩せいさいを欠いたように濁り自身から流れ溜まった血だまりを力なく眺めている。

 もはや、決着はついたのだった。

高揚したように、フランツはレイピアを地面へと突き刺す。

「勝った……ふはは、ざまぁないな、邪魔者の邪神めが。これで参事会の村の土地買収も滞りなく進む。つまり、ワシの輝かしい立身出世も今この瞬間なったわけだ!」

 もはや、力なく森に伏せる亡骸を見下ろし、フランツは芝居がかった調子で今度はその背後で見守っていたルロイとギャリックに両手を広げ喜びを宣言してみせる。


 それが、彼の最期の言葉であったことは、ある意味幸福であったと言えよう


「我が森を荒す人間め……」

 地の底からとどろ獄卒ごくそつの如き執念が、死せる肉体を蘇らせたのだ。

 まるで、森の怒りが奇跡の結晶となって偉大な戦士の肉体を付き動かした瞬間であった。

 断末魔と共にフランツの首が狼男の牙によって引き裂かれる。

 赤黒い鮮血が宙を舞い、周囲の木々と草花の瑞々しい緑に毒々しい赤を塗り付ける。

「欲深き者よ、あの世でこの森を征服した夢にでも溺れるがよい」

 ルロイも、それまで闘争本能に酔いしれていたギャリックさえも目を張っていた。最後の力を振り絞った悪あがき。そう形容するにはあまりにも鬼気迫るものがあった。

静謐せいひつなる無言の中、木々の騒めき以外に聞こえる音と言えば、狼男の高揚し獣じみた荒い息と、はかないい野望に酔いしれた哀れな犠牲者の体がプツリと地面に倒れこむ音だけであった。

「遂に仕留めた。森を侵食する薄汚い人間が」

 狼男の気高き怨嗟えんさの籠ったうめき声が森に響き渡る。

 が、そう言い終えるや狼男は痛ましく血を吐き片膝を地面に着くのだった。狼男はルロイとギャリックを一瞥いちべつすると深く諦観ていかんしたように、深く目を閉じた。

「案ずるな、人間。我ももう限界だ」

「あなたはもしや……」

 狼男の姿に、思わず息を飲んでいたルロイは初めて畏れをもって言葉を継いだ。

「確信しましたよ、あなたはかつて確かにこの森の神であった。それがどういう訳か衰退してしまって。今や魔獣と化してしまった。それでもかつて神だったその魂の矜持きょうじが最後の意地を現したんだ。でなければ、あの時の証書の質問で嘘ではないことの証明が付かない」

「ふふ、だといいがな……」

 満身創痍まんしんそういであるはずの狼男は、穏やか目を見開き微笑んでいた。

その顔には、死にゆく者が抱く絶望も怨嗟えんさもなく、満ち足りた余裕すら浮かべていた。

 ルロイは徐に狼男へ歩み寄り、ボドから授かった樹皮の証文を広げて見せる。

「ふっ、その証文の内容か……」

 誇り高き狼男は、ルロイの言いたいことなどすでにお見通しだった。

「この地の地力を回復させるために必要な家畜の量。もっとも我が書ける文字はそれだけだったのでな。農夫ボドの願いは森によってじき聞き届けられる。すでに十分この森は命をすすった」

 ところどころむせながら、狼男はフランツの死体に目をやる。この森で死んだ者は、死と再生その循環のことわりに回帰してゆく。それは狼男自身でさえ変わりのないことであろう。狼男は自身の体を見て深く息を吐き出す。息は既に絶え絶えだったが、狼男は血を吐きながら喉を鳴らし末期の言葉を紡いでゆく。

「もはや、自分が何者なのか我には分からん。フォスターなのか、森神なのか、モンスターなのかも……しかし、もはやそれすらもういい。我は勝ったのだ……」

 もはや、かすれた声ともつかぬ弱弱しい音が人狼の口元を伝わり何かをささやいていた。ルロイはこの時、確かに心の声が聞こえた気がしたのだった。

「農夫ボドは、確かにあなたを神として信じていましたよ」

「まだ、そんな人間がいてくれてよかった……」

 そして、今度こそ真の静寂が森の暗緑色の内臓の隅々にまで響き渡る。

 森が喪に服している。

 夕暮れ時の暗く染まった森の中でルロイとギャリックはただただ祈るように黒く染まってゆく森そのものに魅入られていた。

「とんでもない敵とやりあっちまったな」

 どれだけそうしていたか分からないほどの沈黙を破ったのは、ギャリックのつぶやきであった。ルロイは軽く頷き狼男のむくろに別れを告げ、そして背を向けた。

今となっては、一足先に自由になった戦士のために冥福めいふくを祈る。

何故なら、自分もまた、命ある限り自分の戦いの最中に戻るのだから。

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