第56話 君の心臓を食べたい
堂嶋さんとあたしの革靴が、静かに砂地を踏みしめる音とともにキャンプ場へと向かう。
煉瓦でつくった備え付けのかまどがあるが、そこからさらにはなれた、なるべく自然の景色が良いところを捜して陣取る。堂嶋さんが手際よくバーベキューコンロを設置して炭をおこす。
あたしがアウトドア用のテーブルとディレクターチェアを並べる。準備はほとんど無言のうちに行われる。レジャーを楽しむというよりは、儀式としての食事をする会場のセッティングを仕事としてこなしている感覚だ。
準備を整え、炭の火が落ち着くのを待つ間、魔法瓶のコーヒーをプラスティックのカップに注ぐ。堂嶋さんはいつもの通りブラックで飲むが、あたしは苦いコーヒーが言葉の通り苦手だ。プラスティックのコーヒーカップに持参してきたコンデンスミルクのチューブを絞り、かき混ぜる。コンデンスミルクはその名の通りミルクに砂糖を加えて練り合わせることで保存性を高めたものだ。常温では腐りやすいミルクやかさばる砂糖を持ち歩くことに比べるとはるかに勝手のいいコンデンスミルクはアウトドアの基本装備。
バーベキューコンロの中でぱちぱとぱちと音を立てて赤く燃える炭をじっと見つめながら、堂嶋さんは静かに語る。
「本当はね。娘の梨花に、ちゃんと母の心臓を食べさせたかったんだけどね」
あたしは黙ったまま、その言葉の続きを待った。
「実は、娘の梨花も、生まれつき心臓が悪いんだ……
妻は……自分と同じ病弱な娘が余計に愛おしかったようだ。まるで自分の分身を育てることで、自分の人生をもう一度繰り返そうとしているようだった。
人は……多かれ少なかれ、後悔の一つや二つはあるだろう。もし、人生をやり直せたらと思うことだってあるかもしれない。しかし、子供を育てる親というものは、自分の子供を育てながら、傍観者として小学校入学や卒業、成人式なんかをもう一度繰り返すことができる。それは……子供を持つ者にしかできない楽しみだろう……」
「堂嶋さんは……梨花ちゃんに対して、なにかをかわりに成し遂げてもらいたいとか、そういう期待があるんですか?」
「……さあ、それはどうかな。梨花は、おんなのこだから自分の替わりの何かを期待するのは難しいけれど、娘に妻の替わりを期待しているのは確かだ。できることなら病弱な妻の代わりに、娘と一緒に山を登りたいと願ってはいたんだが……それも無理のようだ。妻と同じで心臓のよわい娘に登山はできない……」
「だから……梨花ちゃんに心臓を食べさせたかったんですか?」
「だから?」
「ほら、昔の迷信であるじゃないですか。自分の体に悪いところがある人が、健常者のその部位を食べることで健康になるって話……」
「ずいぶんと古い話を持ってくるんだな。確かに中世の時代ではそういう虐殺もあったと言うが……」
「ひどい……迷信ですよね」
「まあ、単なる迷信とも言い難いけどね。肝臓が悪い人はレバーを食べるといいし、動物のペニスなんかが精力剤として使われたりなんかするのも、要するにその部位がその栄養素を豊富に含んでいるから、と言う理由で、実際に、わずかではあるが効果があるとも言えるだろう。
でも、うちの娘にはそれはあてはまらない。なぜなら妻の心臓は健常者の心臓ではないからね。もしかしたら食べることで病気が感染するかもしれない」
「そ、そう……なんですか?」
「嘘だよ。そんなことがないように当局が検査をしてからこちらに引き渡しているんだ。だから、病巣に感染している危険がある部分は取り除かれる」
それを聞いて、真希さんの心臓が切り刻まれてわずかな部位しか送られてこなかったことを思いだす。真希さんの心臓はそれほどまでに病巣に置かされていたのだろうか……
「でもね、人間の脳だけは絶対に食べてはいけない。これは、この仕事に就くにあたって何度も言われてきただろう?」
「はい。あたし、最初は人間の脳を食べないのは倫理的な理由だと思っていました」
「でも、そうじゃない。クールー病と言って、伝達性海綿状脳症やクロイツフェルト・ヤコブ病に似た、脳がスポンジ状になり、死に至る病気の原因となることから脳は食べてはいけないことになっている。以前に一時流行した狂牛病と言う病気もこれに近い症状だ。現時点で世界では豚やサルの脳を食べる文化もあるが、もしかするとこれらの文化には同じようなリスクが伴っているかもしれない。
かつてヨーロッパを中心に反映していた古代人、ネアンデルタール人にはカニバリズム、いわゆる食人習慣があったらしい。儀式的な意味合いが強く、頭がい骨を割って脳を食べていたそうだが、ネアンデルタール人絶滅はこのことが原因ではないかという説もある。
〝人間の想いを食べる〟と言う意味では、脳を食べることが最もそれに近い行為なのかもしれないが、その行為自体を神が許さないのかもしれない。そうなれば、ひとの心を食べるという意味で心臓を食べるのが一番なのだろう……」
言い終わって、コンロの炭の火が落ち着いてきていることを確認した堂嶋さんは静かに網の上にブロシェットを乗せる。熱い炭にあおられて、串に刺さった心臓肉がキュッと縮む。炎によって熱せられた熱い金属の串が、貫通する心臓肉の中央に熱をつたえる。その光景を見つめていたせいだろうか、あたしの心臓の中央が熱くなる。炎で熱く熱せられた金属の串が心の真ん中を貫き通すように、心の真ん中がキュッと縮んでしまうようだ。
そしてあたしと堂嶋さんは、焼きあがったばかりのブロシェットに食らいつく。串から外すことなく、熱くなった金属串でやけどをしないように軍手をはめたままの手で一人一本の串を持ち、その中心部分が最高に熱いうちに、熱いままで自分の体の中へと取り込む。それが弔い。
真希さんが、あたしにどういう想いを託したのか、今となってはもうわからない。死人に口なしで、もはやそのことを直接聞くことはできないだろう。
しかし、あたしなりの考えでその意思を継ぎたいと思っている。それは真希さん委託されたからだとかそういうことではない。きっと、あたし自身がずっとそうなることを望んでいたに違いない。真希さんはきっと、そのことに気付き、あたし自身に気付かせようとしたのではないかと思っている。
堂嶋さんはどう思っているのだろう?
おそらく堂嶋さんは、これから先もずっと永遠に真希さんのことを愛し続けるのだろう。
死人に朽ち無し。美しい気持ちで離ればなれになった二人の想いがこの先衰えることはないのだろう。
しかし……
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