第40話 ベジタリアン


玄関を入って通路の奥、ダイニングと一体になった広めのリビングのカウンターテーブルに肘をついたまま、シャンパンのグラスを傾ける堂嶋さんはあたしの格好を見るなり、思わず息をのんで目を丸くした。それは新調したドレス姿のあたしがあまりにも魅力的で……と言うわけではなさそうだ。ドレスアップしているあたしに対し、堂嶋さんは黒いポロシャツとジーンズというえらくカジュアルな格好だった。

シャンパンのグラスを持ったまま、微動だにしない堂嶋さんの隣のカウンター席に腰を下ろす奥さんはその旦那さんの耳元で「あなたがちゃんと説明しないからよ」とつぶやく。

「あはははは」と照れたように笑う堂島さんが説明をする。「実は今から行く料理店は高級レストランなんかじゃないんだ。どうも噂で、人肉を提供しているという噂の焼肉屋があってね、僕らはそれを調査に行く。そのお店は人肉を取り扱う資格を持っていないし、当然人肉調理師も常駐していないお店だ。もし、本当に人肉を提供しているのならば当然違法行為で、摘発しなければならないだろう。それにもし、それが正規のルートを経由していない人肉を使っているとなればそのルートの先に大きな闇市場が絡んでいるかもしれない」

「闇市場? どういうことですか?」

「つまり、政府が管理していない人肉を使用しているかもしれないということは、どこかで食肉用としての人身売買が行われているということだよ。そうなればこれは大きな人権問題だ。だからなるべく目立たないようにした方がいい。特に……そんなに派手な服装はちょっと……」

 それならそうと、もっと早くに言っておいてほしかった。こんな時に堂嶋さんの朴訥な性格が恨めしくなる。

「ねえ、こっちにいらっしゃい」と、奥さんがあたしの手をとった。冷えた魚のようにとても冷たくて、絹のようにしなやかで、シフォンケーキのようにしっとりした手だ。あたしをリビングの隣の部屋へと連れて行く。そこは奥さんの衣裳部屋で、あたしはそこで奥さんの普段着を借りて着替えることにしたのだ。幸い身長も同じくらいで都合がよかった。カジュアルなシャツとパンツを借りてきた。丈もちょうどぴったりだったが、どういうわけかウエストだけが少し苦しい。でもそこはお腹を無理に引っ込めて無理矢理にはくことにした。くるしくて穿けないなんて、プライドが邪魔して言えるわけがない。自前のドレスは折りたたんで紙袋に入れて渡してくれた。

 

 ダイニングに戻り、まだ予約の時間まで時間があるからと、カウンター席へと座った。堂嶋さんを挟んで、左側が奥さん。右側にあたしだ。

「あの、今日は奥さんもご一緒されるんですか?」

「ううん、わたしは今日はご遠慮させていただくわ。だから二人で楽しんできて。それに子供も寝ているから、誰かがここには残らなきゃいけないでしょ」

 奥さんは堂嶋さんの隣でシャンパングラスを片手につまらなそうにつぶやいた。子供がいるという事実をさらりと流す。それについてあたしがなにかを質問する間を与えないほどに堂嶋さんが言葉をつなぐ。

「それに妻は、人肉を食べるのが苦手でね」

「そう、なんですか……」

「だって人肉ってね、なんだかいやじゃない? 牧瀬さんはそんなこと考えたことない?」

「あ、あたしは別に……」

「わたしも別にね、家族の肉なら食べられないこともないのよ。だって身内だからいまさらっていうのはあるし……でも、あったこともない他人の肉となるとなんだか気持ち悪いかなって思うのよ」

「あ、ああ。ま、まあ、妻はその……少し潔癖なところがあるんだ……少し」

「でも、ベジタリアンなんかよりはぜんぜんまともでしょ? だってベジタリアンの人は肉なら何でも食べないっていうくらいなんだから……

 ほら、ベジタリアンのひとってさ、すぐにかわいそうだとか生き物を食べるなんてっていうでしょ? でも、あれっておかしいと思わない? だって植物だってみんな生きているのよ。それなのに食べてはいけないのは動物だけだなんて、命を平等に扱っていないのとおんなじことでしょう?」

 たしかにそれはひとつあると思った。植物でも動物でも命の価値が同じであるというのならば、植物だけを食べていいなんて言うのは道理にかなっていない。つまり、りんごをひとつ齧るのと、人間を一人食べることは、業の深さは同じと言うことだ。だからすべての生き物は生きるために食べるというすべての行為に対し、その業をかぶって行かなくてはならないはずだ。ベジタリアンと言う考え方は、植物をいのちから除外することによって、その業から抜け出そうとする行為にも見える。

しかしそれを言うならば、どうせ一つの命を食べるという業を背負うのなら、小さなりんごをひとつ齧るより、一人の人間を食べることの方が、過食部分の多さと言う点で、効率が良い。一つの命で賄える食料が全然違うわけだ。その場合、一人の人間が成長するまでに必要な食糧、即ち命の量まで計算に入れてはならない。そんなことをしていてはきりがないだろう。それに、命を食べることに嫌悪するというのなら、畢竟答えはおのずと知れてくる。さっさと自分を食料として献体することだ。これ以上命を食べる必要もなく、自分の命で多くの食料が得られ、それが次の命へとつながっていく。

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