第37話 将来の夢

 食事が終わり、団らんが始まるころになり、あたしもそろそろ帰る準備をしなければと思っていたころ、ママはおもむろに「今日は泊まっていくんだろ?」と切り出す。あたしが帰るつもりだということを言い出すよりも早く、壁の古い時計を眺めながら「もう、バスはないよ」と言う。

 まだ時間は夕方8時前だ。いくらなんでもそんなことはと思いながらも、たしかにあの街並みのすたれようではそれも仕方のないことかもしれないと感じた。「おじゃまじゃなければ」と言って子供たちと一緒にお風呂に入り、小さな子供を寝かせつける。数年前の高校生時代にもここで同じようなことはしていたが、その頃は自分が〝姉〟だという認識だった。しかし、今こうして社会人になって同じことをすると、なぜか自分が〝母親〟になったような気がする。結婚もしていなければ、今まで恋人のひとりですら作ったことがないというのに。

 小さな子を寝かせつけて、ママの部屋に向かう。あたしの寝る部屋はないので、そこにママが布団を用意してくれているらしかった。

 部屋へと入ったあたしをママはにんまりと笑いながら手招きをした。

「アンタももう、大人になったんだろ」

 そう言うママの手にはかわいらしい焼酎の瓶が握られている。夜になるとママが一人でこっそり、部屋で晩酌をしていることは以前から知っていた。いつもひとりで静かにグラスを傾けるしぐさを、あたしは少し離れた場所からなんとなく眺めていたのだ。

 ママはうれしそうだった。今夜は晩酌の相手がいるのだ。18歳になると自立するというルールのあるこの孤児院ではママの晩酌の相手はいつになっても現れない。だからあたしは格好の餌食と言うわけだ。もしかすると本当はあの時、まだバスはあったのかもしれない。けれども晩酌の相手欲しさにママが嘘をついたというのは十分に考えられることだ。ママの性格ならばよくわかっている。なにせあたしはママの娘なのだから。

 『胡麻祥酎 紅乙女』ママの手に持っている焼酎の銘柄だ。麦と米麹をベースに、その名の通りごまを加えて蒸留しているらしい。二つ並べたグラスにそれぞれ半分の高さまで焼酎を注ぎ、電気ポットで沸かしたお湯を注ぐ。沸騰したてのお湯は少し熱すぎだ。焼酎の湯割りには適さないかもしれないが、そんなことはどうでもいい。熱い湯を注ぐと、あたり一面に胡麻の香気がふわっと広がる。猫舌なあたしはふうっ、ふうっと息を吹きかけて冷ます。そのたび胡麻の香りが辺りを包む。熱い湯割りを恐れながらにすするように飲む。胡麻独特の香りが広がる。麦焼酎では味わえないクセががある。

「クセの強いお酒ですね」

「まるでわたしみたいだろ?」 

 そういえばどこかで聞いたことのあるような言葉だ。酒飲みの人間と言うやつはどうしてこんなにに自分の性格と酒の味とを結びつけたがるのだろう。

「もう少し、飲みやすいのはない? あたしには少し強すぎるかもしれない」

「なあに、馴れてしまえばどうってことないさ。大体さ、『このお酒、飲みやすくっておいしーい。まるで水みたいに飲めちゃうー』(少し馬鹿にしたように若い子の声色を真似て言う)なんてやつはさ。水を飲んでりゃいいんだよ」

 なんて極論なんだろう。

 しばらく昔話をしながら、あたしはのみにくい焼酎を舐めた。ママは顔を赤らめてうなだれる。少し酔いが回ってきているようだ。それでもなんだか楽しそうに見える。

実はずっと、こうして晩酌に付き合ってくれる相手が欲しかったんじゃないだろうか。ちいママは、ここでこうしてママの晩酌を相手していたんだろうかなどと感慨にふける。

すっかり酔っぱらったママは、うなだれてうつむいたまま、静かに話す。

「香里奈、あのねえ……あんたには言っておくよ……」さっきまでの陽気なテンションより、ワントーン落としたような口調、あたしに向かって話すというよりは、うつむいてそのまま地面に言葉を転がり落とすような言い方。あたしが聞いてなければ聞いていないでその方が都合がいいみたいに、はっきりとした言葉にはならない、言いよどんだような口調でママは言った。

「わたしねえ。どうやら癌が出来ちまっているらしい……もってあと半年くらいなんだとよ……」

 あたしはこういう時、どんな言葉をかけてやればいいのかを知らない。たとえ知っていたところでそれを上手に話すだけの自信もない。

「もうこんだけ生きりゃあ思い残すこともないんだけどね。残されたあの子たちがどうなるのかを考えると少しね……」

 実質ママにはたくさんの子供はいるが、血を受けた実の子がいるわけではない。ママの死後、この園がどうなるのかはわからない。それに園を残すことが出来ても肝心の里親がいなければ子供たちは路頭に迷うだけだ。

 それだけじゃない。血縁関係者のいないママにはまた別の問題も残される。あたしは職業柄、そのことが気になった。

「ねえ……ママの遺体は誰が食べることになるの? このままだと、誰にも食べてもらえなくなっちゃうじゃない」

 その言葉に、ママは少し眉をしかめた。しかし、あたしはそんなことを気にもせずに、言葉を続けてしまった。

「少し前に仕事であったお客さんなんだけど、血縁関係のない子だけど、食べる権利を認められている子もいたわ。養子縁組が成立していればその子に食べる権利が与えられるのよ。あたし、思うんだけどママはここの園の子たち、みんなに食べてもらうべきなんじゃないかと思うの。調理はもちろんあたしがするわ。だから……」

 ママは必死にしゃべるあたしに唇に、自分の人差し指を立てて添える。口角は上がっているが、眼は笑っていない。その笑っていない眼には覚えがあった。


 あれはあたしが中学生のころ、人肉が食べたいあまりに将来人肉調理師になりたいと言った時のことだ。何の悪意もなく、ただただあたしは人肉を食べてみたいという言葉をママの前で語っていると、ママは突然眼光をとがらせ、

「そうかい、そんなに人肉を食べたけりゃあとっととどっかへいって人間を捕まえて食べりゃあいいさ」

 と言われた。あたしはママの突然の冷たさに戸惑い、どうすればいいのかもわからなくなり、おそらく怒りに任せてママに対して何か暴言を吐いたように思う。今となっては何を言ったかなんて覚えていない。

ただ、おそらくその頃からママとあたしの仲は悪くなったんだと思う。それからほとんど口を利かなくなり、中学を卒業すると全寮制の高校に進学し、調理学校へと進んだ。

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