第3話 久しぶりの原稿取り
わあぁぁ……
パシフィックオーシャンビュー東京って、
ビリオネア御用達の5つ星ホテルやん。
私なんか、ここに立っとるだけで場違いな感じが
するんやけど……こんな高級ホテルで缶詰なんて
さすが、ベストセラー作家様やわ……。
自動ドアからフロント・ロビーに入った所で、
ホテルマンさんに声をかけられた。
「小鳥遊様、でいらっしゃいますね。こちらへ
どうぞ、伊武様がお待ちです」
えっ ―― 伊武?
あ、そっか。
ホテルには本名で宿泊なさってるんや。
そりゃそうやな、素姓が容易に知れてしもたら、
原稿なんてゆっくり書けへんもん。
「は、はい……」
そのホテルマンさんと2人でエレベーターに
乗ったんだけどそのエレベーター、
なんか……何処がどうとは上手く説明出来んのや
けど違和感があって、思いっきし落ち着かなくて、
”チーン”と小さい音がして、エレベーターの
ボックスが止まり、扉が開いた頃やっと、
違和感に気付いた。
このエレベーター、普通ならあるハズの
回数表示板に数字が書いてなかった。
「如何なさいましたか? 小鳥遊様」
「あ ―― すみません、ぼうっとしてました」
「こちらへどうぞ」
「はい」
こんなだだっ広いフロアーに客室は2戸のみ。
国賓クラスの賓客や世界の名だたる大富豪が
その顧客リストに名を連ねる……
お金持ちの ――
それも、半端じゃないお金持ちの為の
スーパーエグゼクティブフロアー。
2戸ある客室は双方とも、
庶民なら目の玉が飛び出しちゃう位の金額だけど、
どちらの客室からもオーシャンフロントで一望
出来る東京湾に向かって右側の客室の方が
ややお値段が張る……一説には、一泊200万円
だとか。
私をここまで案内してくれたホテルマンさんは、
その右側の客室のドアを静かにノックした。
やがて室内から男の人の柔らかな声 ――
『―― はい』
「小鳥遊様をお連れ致しました」
中側からドアが開いて ――
応対に出てきた人は男性。
年は50代の前半位。
中世の執事(バトラー)を彷彿とさせる出で立ち。
まるで昔の映画から抜け出てきた、みたいだ。
「いらっしゃいませ。ようこそお出で下さいました。
中へどうぞ」
ここで私の先導役はホテルマンさんから、
このバトラーさんへバトンタッチ。
「はい……」
さて、この部屋の主・夢美乃碧羽大先生は ――
贅の限りを尽くしたようなリビングの、
日当たりの良い窓辺にあるアールデコ調の
シンプルなテーブルに着き、優雅にお食事の
真っ最中であった。
が、何故に、中学生が着るようなジャージ
上下姿なんだ?
それに、髪の毛はボサボサで無精ひげも
伸びてる。
言っちゃあ悪いが何処からどう見ても、
ベストセラー作家様には……。
「―― う~ん、いい香りだ……」
注目の夢美乃先生がそう呟き、
私も部屋一杯に漂っている芳しい紅茶の香りに
気が付いた。
見れば片隅の小テーブルでさっきのバトラーさんが
ちゃんと茶葉から紅茶を淹れている。
(それ)に、しても何なんだ?
この優雅なお食事風景は……。
連載3本と単発を2本も抱え、締め切りに追われる
人気作家さんの修羅場には見えない……
この時になって初めて先生が私に視線を向けた。
「……ん?」
「あ ―― は、初めまして。
私、嵯峨野書房の小鳥遊と申します」
先生へ自分の名刺を差し出す。
(うわぁぁ――本物の夢美乃碧羽が私の名刺
受け取ったぁぁぁ!!)
「……たかなし かずは……フッ……」
何気に軽くいなされたって感じだけど……
これくらいで凹んでいては、編集者は務まらない。
「神谷の代理でお約束の原稿を頂きに参りました」
「……今日はハーブティーか」
「はい、このところ、お仕事続きでお疲れのご様子
でしたので、疲労回復効果のあるレモングラスに
してみました」
と、淹れたお茶を先生の元へ運んで、
もうひとつのカップを先生の向かい側へ置いた。
「さ、宜しかったら小鳥遊様もこちらへどうぞ」
バトラーさんが薦めてくれた。
「あ ―― はい、ありがとうございます。えっと、
あの……」
「あ、申し遅れました。私、当ホテルの専属バトラー
サービスを担当しております、市川と申します。
では、ごゆっくり ――」
と、市川さんは出て行った。
残った私は先生との会話の間がもたず、
「……本当にいい香りですね。いただきます」
市川さんが淹れてくれたハーブティーを
ひと口飲んだ。
「ふわぁぁ―― 美味しい……」
何だか私ときたら、このホテルに来てから
感動のしっ放しだけど。
このハーブティーは、口に含んだ途端
爽やかなレモングラスの清涼感が口一杯に広がって
マジ美味しかった。
向かい側に座っている先生が ――
「このパンケーキもどうだい?」
「は? そ、そんな……」
「カリカリベーコンは? ベークドポテトもまた
絶品で ――」
思わず生唾を”ごくり”と呑み込む私。
と、同時にお腹のムシが ”キュルルル ――”
私は赤面。
先生はそれまでのアンニュイな雰囲気とは180度
変わって、明るく笑い飛ばし、
「さ、遠慮なんかせず、召し上がれ」
「……では、いただきます」
流石、5つ星ホテル!
外はカリッと香ばしく、
中はフワフワのパンケーキは文句のつけ処なし。
先生お薦めのベーコンとベークドポテトも
お代わりしたいくらい、美味しかった。
あっという間に完食。
「ふぅ――っ、美味しかったぁ。しあわせ……」
「……しあわせ、か……」
やばっ ―― 目の前のごちそうに目が眩んで
つい、主様の存在を忘れていた。
それにコレってそもそも、先生の食事だったハズ。
「あ ―― 私としたことが……」
「……その言葉、いいよね」
「……は?」
「”しあわせ” ―― たったひと言で全てを
表している」
「??あ、あの、申し訳ございませんでした。
先生の分まで平らげてしまって……」
「いいや、大した事はない。見事な食いっぷりに
見惚れていたよ」
そんな風に言われ、余計赤面。
あぁ、もう―― 初対面で何たる失態!
原稿なんて貰えんかも……。
等と考えていると、
中腰の姿勢になって、
何故か私の方へ身を屈めてきた先生の端正な
お顔がゆっくり ――
それは、あまりにも唐突だったため、
実感すらないキスだった。
「ごちそうさま……さて、書くか」
先生は片隅のライティングデスクに移動した。
「5000文字程度のエッセイだったね?」
「―― は? はぁ……」
原稿執筆は僅か10分程で終わった。
先生がパソコンからプリントアウトした
生原稿を受け取り、ひと通りチェック。
「……校正は?」
「はい……結構です。必要、ありません」
「では、お帰りはあちら」
「……失礼致します」
はじめてのおつかい、ならぬ ――
久しぶりの原稿取りは、こうして無事終わった。
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