クロノスの神狩

辻野深由


「はぁ…………、はぁ…………っ、はぁ…………っ!」


 満月の光が静謐せいひつに浮かぶ、夜も更けた新宿にて。

 ビル群の隙間を縫うように逃げ回る男が顔面を蒼白に、宵闇よいやみ疾駆しっくしていた。


「く、くそっ! なんで、こんな目に…………この、俺が………遭わなきゃ、なんねぇんだ…………っ!」


 追われている理由は明白で、けれど誰にも漏れるはずのない秘匿事項だった。


 互いに悪意を前提とした取引。なればこそ、相手が男のことを警察に漏らした可能性は万に一つもあり得ない。


 どこから情報が漏洩ろうえいしたのか、その経路を思い浮かべるも、男はその出所さえ見当をつけられるような立場にないことに思いあたり愕然がくぜんとする。ましてこの状況では、後の祭りとなってしまった事項に思考を割くことすら惜しい。


 とにもかくにも、逃げおおせなければならない。

 捕まれば、これまで行いすべてが水泡すいほうと帰してしまうのだから。


「はぁ…………、っ、……ま、撒いたかっ!?」


 隘路あいろが交差する一角で男は背後を振り返った。追ってくる気配はない。化物じみた得体の知れなさをまとったあの子どもは、追跡には不向きな革靴を履いていた。アスファルトの上を走ればどうしたって足音が目立つ。それが聞こえないのならば逃げ切れたはず――、


「逃亡劇は楽しかったか?」


 ひぅ、と声が漏れた。喉が引きり、か細い悲鳴がこだまする。


 無理もない生理反応だった。

 黒ずくめの少年が、予兆すら感じさせずに、こうして眼前で屹立きつりつしていたのならば。


「ば、馬鹿な……っ!?」


 男はたたらを踏みながら戦慄せんりつに目を見開く。

 いつ、どうやって現れた? 数瞬すうしゅん前までは周囲に人の気配すらなかったというのに。


「て、てめぇ……何者だっ!?」

「……はぁ、またその質問かよ」


 再三の誰何すいかに、年端もいかぬ少年は呆れたように嘆息してみせる。


「何度も言っているだろう。俺は『抑止力よくしりょく』。お前らのような薄汚い犯罪者を捕まえるのが仕事なんだよ。そう自己紹介した途端に逃走を図ったってことは、悪事に手を染めた覚えがあるんだろ?」

「…………っ」


 事実だった。

 隠し通すつもりでいたのが、反射的に逃げ出してしまったのが災いのはじまりだ。

 だが。よくよく冷静になって熟考じゅっこうすれば、明らかにおかしなことがある。


「……嘘を抜かせ。役所が年端としはもいかねぇ餓鬼がきに仕事なんか回すかよ」


 大原則として、未成年の就業は禁止されている。

 ましてこんな深夜の東で法律に少し触れた程度の存在を追い詰めるなんてこと、十五歳そこらの餓鬼が仕事として担えるはずもない。


「あれだな。さてはお前、最近流行のオヤジ狩りってやつだろ」

「はンっ……馬鹿も休み休み言えよ」


 根も葉もない言いがかりに、少年は顔をしかめ、鼻で笑ってみせた。


「……禁止薬物の服用で頭おかしくなった犯罪者にたかってどうすんだよ。つうか、さっさと潔く捕まってくんねぇの? 足掻いたって無駄なんだからさ」

「てめぇがどこのどいつでどんな神格じんかくだか知らねぇが、いまの俺様をどうこうできると思ったら大間違いだっての――神格じんかく開放っ!」


 男が叫ぶと同時。

 右手の甲に刻まれた紋様もんようが妖しく発光しだす。


 次いでその腕を虚空こくうすべらせると、光芒こうぼうをなぞるようにして巨大な二股ふたまたの槍が出現。

 全長二メートルはあろう一条の槍の矛先は、月光を受けて鈍銀にぶぎんたたえる。


「どうだいどうだいっ!? 俺様にかかればこんなもんよっ! 怖じ気づいたろっ!? いまだったら見逃してやってもいいんだぜぇ? 俺の神格はギリシャ神話でも特に偉大なそれだからなぁ! てめぇみたいな餓鬼が相手だと、手が滑って殺しちまうかもなぁ?」


 気が強くなった男は凶器を少年に突きつけ、勝ち誇った顔で少年を睨み付ける。


(……こんな所で捕まるわけにはいかねぇ。いっそ死んだほうがマシってもんだぜ)


 落ちこぼれた人生だったが、神話でも語られる神の力はこの身体にいまも健在だ。

上手く使いこなせれば三十路を越えたこれからの人生で華やかな道を歩んでいける。

そのために、少しだけ薬に頼っただけのこと。


 それを、こんな餓鬼に違法と言われて引き下がれるわけもない。

 人生の岐路きろに立たされた大人の意地というものを知らしめてやらねばならない。


「…………はっ」

 ――なんて。



 大層立派な気構えを見せつけられて。

「…………は、はは、あははははははははははははははははははははははははははっ!」


 少年は嘲笑ちょうしょうを堪えきれずに抱腹ほうふくし、

「な、なにがおかしいっ!」

「いや、いやいや、すまない。頓狂とんきょうな威勢を張られて笑いをこらえきれなかったんだ。あんた、神格じんかくは確かポセイドン、その武器はトリアイナだろ?」


 槍に向かいぴしりと指を差して、そう指摘する。


「だっ、だったらなんだ!?」

「気が大きくなって威張り散らしてるみたぇだけどなぁ……そんなん話にならねぇよ! なるわけがねぇだろ! ビビるわけねぇだろーがっ!!」

「っ!?」


「禁止薬物の服用と満月の加護を受けてすら三股にならねぇ時点で、あんたの神格発現率は三割を切ってる。本来そいつは三叉戟さんさげきであって初めて水神ポセイドンの権能を行使できるようになる代物だ。有能な神格保有者が扱えば、空気中の水分すら自由自在。どこでも溺死や窒息死を引き起こせるんだよ。そういうもんだってこと、知ってたか? ……なんだかきょとんとしてるなぁ。そりゃあそうか。あの程度で威張り散らしてるんだから当然かっ! はははっ!」


 一息でそう言うと、

 あろうことか少年は槍の射程圏内へと自ら踏み入っていく。


「拍子抜けする水神の槍を見る限り、あんたは水を支配下に置けない。そうだろ?」

「ぐっ……」

「つまり、そこらの中学生高校生のほうがよっっっぽど強いだろ! はははははっ!」

「……――ッ!! 言わせておけば、言いたい放題口にしやがって!!」


 こうも愚弄ぐろうされたのは、もう思い出せないほど昔の学生時代以来だ。

落ちこぼれの烙印レッテルを貼られ、それでも自分は神格を宿した特別な存在なのだと。


 一般人とは違うのだと。


 そう信じ、すがってきたものを。


 まさか、年端もいかない餓鬼に足蹴あしげにされるだなんて。


「黙れ……」


 餓鬼の戯言だと、聞き流すことなど到底できるはずがなくて。


「黙れ黙れ黙れぇっ!」


 ガガガガガッ!! と、大型のドリルで鉱物こうぶつえぐるような異音いおんが炸裂する。


 怒り狂った男が激昂に任せて幾槍いくそうもの刺突しとつを繰り出したのだ。


 神格じんかくを宿した一撃は鉄筋コンクリートで塗り固められたビルの外壁を容易たやす穿うがち風穴をぶちあける。亜音速で放たれる槍撃そうげきに絡まる空気は隘路あいろで逃げ場をなくし、野天やてんへ立ち上っては強烈な竜巻を生んで、ビル壁に刻むは幾重にも連なる烈風れっぷう爪痕つめあと


 一突でも身体に命中すれば皮膚も筋肉も、どころか骨までも容易く破砕はさいし、たちまち水疱すいほうが血管を侵食しんしょくする。まさしく、穿った獲物を確殺する必殺のそれ。


 だが。


「まさか、それが本気なのか?」

「くそったれがっ!」

「おいおいおいおい、もっと本気でかかってこいよ!?」


 少年は別段恐れる素振りも見せない。

 素人の剣の修行に特別稽古をつける玄人くろうとさながらに、危なげなくさばいては、叱咤しったするように男をあおる。


「ほらほらどうした? 薬盛ってハイになってそれはねぇだろ、なぁ?」

「くそ、くそっ、くそくそくそがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」


 もはや常人の視力では残像を捉えることすら不可能な刺突の驟雨しゅううを、やはり少年は造作もなくかわす。


 眼前で展開される光景を上手く飲み込めない男の攻撃は更に苛烈かれつを増していく。

 だが、いくら彼らが常人とは一線を画する運動能力を有していても、青天井なわけではない。


 処理能力の限界を超えた肉体は悲鳴をあげ、次第にてのひらや皮膚は鬱血うっけつ、血管は破裂し、月光の届かない暗がりを赤黒く染め上げていく。


 肉体の稼働限界を超える猛攻はそう長くは続かない。

 大前提として、無理と無茶を継続できる造りにはなっていないのだ。人間の身体は。


「が、はっ!?」

 身体的負担が許容を超えた刹那せつな、男は盛大に喀血かっけつし、両膝をふるわせてその場にくずおれた。神格開放状態を保てなくなり、不完全な一条のトリアイナは音もなく白銀はくぎんの粒子となって霧散むさんしていく。


「……はン」


 アスファルトに飛び散った血反吐を革靴で踏みつけながら、少年は地べたにうずくまった男を鼻で笑って睥睨へいげいした。


「ヤク切れで自滅かい。路頭に迷うしかないクズにはお似合いの末路だな。あんたにヤクをくれてやったのはどこのどいつだ? 正直に吐けば減免の余地はあるぞ?」

「……知らねぇ」

「シラを切るなら、こっちもやれることをやるまでだけどな――神格開放」


 少年がぶっきらぼうに唱え、雑な素振りで手首を捻る。

 昏倒間近の男と同じような所作で虚空から一挺いっていの大鎌を取り出す。鈍銀に光る鎌刃に刻まれた鋸歯状波きょしじょうは出鱈目でたらめで、斬る、というよりは削るために加工されているようだった。


「ふっ――」


 その先端が、一切の躊躇いっさいなく、男の水月へ振り下ろされ。

 刃渡りだけで一メートルを超える大鎌が、音もなく身体を貫く。


「が――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」


 未だかつて味わったことのない壮絶な痛覚に、男が絶叫ぜっきょうする。人影もない路地裏ろじうらに響いた悲鳴はむなしく暗渠あんきょに紛れ、救援など望めるはずもない。


「こいつは神格を削る特殊な作りでな。俺の意のままに、肉体でも、神格でも、精神でもなんでも削れるもんで、拷問には打って付けの便利な代物だ。死ぬことはないからいつまでも遊んでいられるぞ? この苦痛から解放されたけりゃ、さっさと吐いたほうがいいぜ?」

「だから知らないって言って――が、ああああっ!」

「そうか、まだ遊び足りなかったか」

「だ、だから本当に俺様は覚えてな――あっ、があああああああああああっ――!」

「そんなにおしゃべりしたくないかい。けど、残念だがいつまでも遊んでいられる余裕はないんだ」

「や、やめ、覚えないって何度言えば――いぎいいいいいいあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!?」


 咆哮ほうこうのような悲鳴が、男がその日耳にした最後の音だった。

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