帝国軍人放浪紀
@Tito_66
第1話 戦場の雄
一四三二年、モエシア戦役。
素晴らしい。
「街からの反撃が沈黙しました。最後のひとおしと行きましょう」
ゼルジンスキーは双眼鏡を部下から奪うように取り上げ、報告を右耳で聴いた。
「ハラショー!実に素晴らしい。この戦役は終わりを告げそうだ」
またひとつ、またひとつの地域が、女帝陛下のもとに屈した。
なんと偉大な帝国!
なんと強大な陸軍!
「よろしい。諸君。前進だ。すべてを叩き壊せ。一つずつ家屋を破壊しろ。異端の教会もだ」
しかし、なぜこんな命令を出さねばならない。モエシアの綺麗な街並みをわざわざ壊すとは、坊主の言うことは分からん。
教会の破壊は、宗教系の支持基盤を持つ現帝国議会首相の意向だった。
領土拡張戦争を宗教戦争にすり替えることによって、大規模徴兵と徴税を可能にした点は、ゼルジンスキーにとっても有り難かったが、もともと宗教意識が薄い彼にとって首相はあまり好みではなかった。
「茶が入りました」
副官から差し出された真っ黒な液体を一息で胃に流し込む。黒茶だ。
「変わった味だね。産地はどこだい?」
「モエシア東部、占領した地域の徴発品です」
良い味だ。
ゼルジンスキーが黒茶を片手に、甥への手紙を書いていると、きらびやかな鐘の音が街から響いた。モエシア公国の沈黙だった。
ヴィクトル・ゼルジンスキー。
二十七歳、帝国陸軍大佐。
陸軍幼年学校を卒業後、陸軍大学校に入学。大学校を五番目の成績で卒業。その後は帝国の戦役すべてに参加。
彼と功績によって、ゼルジンスキー家の領土は以前の二倍へと増加した。
そんな俺だが。
今は船の上で吐き気と戦っている。
「まだ目的地にはつかないのか!」
「もう少しなんですがね」
水兵は呆れた顔で答える。
帝国旗を掲げる輸送船と軍艦が荒れる西海を進んでいく。
我々の目的地は教皇領。反帝国、反東側を打ち出した教皇に、我々は懲罰を加えに行く。
けれど、こんな天候とは聞いていないぞ!
西海は荒れ狂っている。船がひっくり返りそうな程だ。
甲板はまだマシだ。胃の中を空っぽにすれば立っていられる。
下の船室は酷い様子だろう。兵隊たちがげえげえとやっているに違いない。きっと地獄だ。
「どうです、海は良いもんでしょう?」
水兵の下士官がけろりとした顔でそう言う。
乗船直後は彼らの言葉遣いに慣れなかった。海軍は軍隊としての階級意識はあっても、貴族や平民といった階級意識は薄い。それを真に理解できたのはついこの間だ。
彼ら水兵の出身のほとんどは、イェーステヴォリ。もとは海賊の根拠地であったが、海賊の頭領が当時の皇帝から爵位を与えられたことで帝国へ帰属した土地だ。
そんなこともあり、水兵たちは農民たちよりも、明るい性格をしている。
「まったく。海は苦手だ。もう二度と船にはのらないよ」
そう言うと水兵は不貞腐れたような顔をして、「まだまだ揺れが足りませんか。なあに、もう少しで慣れます。そうすればきっと、船が好きになります」と言って笑うのだ。
それにしても大きい船だ。
重一等戦列艦〈パーヴェル〉。
私の乗る輸送船とは比べ物にならないほどの重武装。左右の船側に突き出た火砲はハリネズミのようで、巨大なマストにまとわる純白の帆は、ウラルよりも巨大に見えた。
何よりも力強そうなその船は、荒れる海原を何事もないように、けたててすすんでいる。
突如として、〈パーヴェル〉の船体が前後に割れた。水兵たちに動揺が走る。
そこにちらりと白い姿が見えた。
白鯨だ。
誰かがそう呟いた。
白鯨伝説。
西海にはいくつかの白鯨伝説がある。
そのうちのひとつに、白鯨は神の使いだとして信仰対象にしていた部族があった。
西海に浮かぶ小さな島に住んでいた彼らは、奇術を用いると噂された。
ある日、帝国の探検家がその島を訪れると、その島には誰も住んでおらず、残っていたのは、朽ち果てた住居だけだった。
彼らはいつの間にか消え去ってしまったのだ。
伝説によれば、白鯨は体長百メートルを超え、天災と同義である。それが姿を表すのは、災厄と繁栄の証であるとされた。
帝国の軍人、ヴィクトル・ゼルジンスキー大佐についての記述はここで止まる。
どの歴史書にも、彼を含めた教皇領派遣軍は西海に沈んだと書かれた。
最終的に、教皇領に到達したのは、藻屑となった〈パーヴェル〉の船体の一部だけだったからだ。
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