柑橘の色

稲野村人

第1話 柑橘

 十年前のあの日、教室で、私は柑橘の色を見た。

 放課後、他の生徒が帰った後の教室で、あの子は甘美な香りを振り撒いていた。机を端に寄せ、教室の中央で優雅に舞っていた。窓からは、傾いた陽の光がスポットライトのように差していて、教室は彼女のステージになっていた。私は唯一の観客だった。

 昼間の喧騒とはかけ離れ、甘い柑橘の香りで満たされた静かな空間。

 そこで私は恋をした。



 中学を卒業して、進学したのは女子校。特に希望していたわけではなかったが、何故だか平和そうなイメージがあった。入学前に一度だけ見学へ行き、そのままなんとなく進学を決めた。親や先生にはそれっぽい理由を話したので、すんなりと認めてくれた。昔から外面だけは良い。

 入学して二ヶ月ほど経ったが、今のところは平和だ。クラスメイトもみんな仲が良く、居心地は良い。男子もいない分、気兼ねなく話せるようだった。

 当たり前だが、みんな中学生ではなく高校生だ。子供よりも大人に近くなり、既に未成年とは思えないような風貌の子もいる。

 化粧やメイクをしている子も多い。校則では禁止されているが、黙認している先生もいる。反対に厳しく注意する先生もいて、その先生の授業がある日はすっぴん率が跳ね上がる。


 そんなクラスの中でも、一際輝いて見える女の子がいる。

夏樹柑奈なつきかんなさん」

 夏樹柑奈、というらしい。夏樹さんは私の前の席で、出席を取る先生に透き通った声で返事をした。右手を少し上げるだけで、仄かに柑橘系の香りが動いたのが鼻でわかった。

羽月結はづきゆいさん」

 私は真面目そうな声で返事をした。今日も欠席者はいない。いつまでこの出席率を保てるのだろうか。

 出席を取り終わると、先生はプリントを配り始めた。どうやらアンケートらしい。上から内容を読むと、学校生活は楽しいか、悩みはないか、不安なことはないかなど無難な質問ばかり書かれていた。適当に終わらせようと、私は机の奥に置かれた筆箱を開けた。すると、急に夏樹さんがこちらに振り返った。


「ごめん! シャーペン貸してくれる?」

 透き通った黒い長髪が揺れた。夏樹さんは、申し訳なさそうに上目遣いでこちらを見つめている。

 私は、彼女の瞳に映った私を見つめていた。

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