第八章 その3 天才ミュージアム
子供の頃、夏といえば長い長い夏休みで毎日が楽しかった。朝からラジオ体操で友達と出会い、いつもくたくたになるまで遊びまわっていたのがまるで昨日のように思い出される。
だが大人になった今、夏休みなんて子供と暇な大学生だけに許された儚い幻想なのだと痛いほど感じるようになってしまった。毎日毎日、炎天下の中自転車をこいで職場へ向かい、疲れた体を引きずって帰宅する。
だからこそ休みの日くらい、有意義に過ごしたい。
「まったく、人をすぐタクシー代わりに使いやがって」
ぶつくさとこぼしながらも自動車の運転席で軽快にハンドルをさばくのは従兄のてっちゃんだ。警察官である彼は今日ちょうど非番で、予定も無くて暇だったという。
「いいでしょ、お昼はうどん奢ってあげるから」
後ろの座席に腰かけていた私に、てっちゃんは「天ぷら山盛りにするからな」と悪態混じりに返す。
「じゃあ俺、レンコン乗っけたい」
助手席で便乗するのは高校生の弟だ。
「なんであんたのまで払わなきゃいけないのよ」
と今度は私が悪態をつくが、ちらりと隣に目を向ける。そこに座っていた悠里乃ちゃんは、ぼうっと外の景色を眺めていた。
学生も夏休身を満喫する7月下旬のこの日、私たち4人はてっちゃんのマイカーで船出市を飛び出した。
ひとつのテーマに絞った、マニアックな客層を狙った博物館。博物館の有効な生存戦略のひとつとしてシュウヤさんが土曜日に話してくれたことがずっと私の頭に残っていた。
そこでそういうものが無いかととりあえずネットで調べてみたところ、意外と近くで見つかったので、てっちゃんに頼んで車を出してもらったのだ。
「悠里乃ちゃん、大丈夫?」
ずっと口数が少ない従妹に声をかける。博物館でボランティア活動に励んでいる時はもっと明るい感じなのに、そうでない場面ではだいたいこんな感じなのだろうか。
「夏休みはみんな休みだから、まだ平気」
そして小さく返す。どうやら彼女にとっては人の多い観光地に出るよりも、平日昼間近所のスーパーに行く方が辛いようだ。
そんな妹の声が兄に届いているのかはわからないが、車は海を左手に東へ東へと走り続けた。
「着いたぞ」
1時間近くのドライブから解放され、車から飛び出した私たちを待ち構えていたのは真四角の建物。だが壁には木製の格子が張り巡らされ、昔ながらの伝統家屋の趣きを醸し出している、そんな不思議な建物だった。
ここは平賀源内記念館。香川県の生み出した偉人、平賀源内を扱った博物館だ。
県庁所在地である高松市の東隣、さぬき市の住宅街に位置するここの規模自体は船出市郷土博物館よりも小さい。だがそれでも入館者数は年間8000人を超えており、昨年度5000人と不甲斐なかったうちに比べると断然奮闘しているだろう。
館内は広々としている。決まった順路というものは無く、まるでショッピングセンターのようにテーマごとにブースが区切られている。2009年オープンという新しい時代ならではの見せ方だろう。
「江戸時代、日本人で最初に油絵を描いた人……」
悠里乃ちゃんが壁に掛けられた一枚の絵をじっと眺めながら呟く。赤いドレスを着て、カールをかけた黒髪の女性の油絵。1700年代の日本にこんな絵を描ける人がいたのかと驚くが、こんなのは博物学者であり芸術家であり浄瑠璃作家とマルチな才能を如何なく発揮した源内の偉業のほんの一部に過ぎない。
「映像展示もあるのか」
博物館の最奥には20人くらいなら入れそうな小さなシアタールームが設けられ、源内の生涯を紹介する見にビデオを上映している。こういう設備は全国色んな博物館で見ることができるが、製作になかなかの手間がかかるのでそう簡単には導入できない。新しく撮り直すのも大変なので、古いビデオを旧式の機械でずっと使い回しているような施設も珍しくない。
「エレキテルって、結局どういう原理なの?」
私はガラスケースに陳列された、真上に針金を突き出した飾り箱のような直方体を睨みつけながら隣の弟に尋ねた。
「ハンドルを回して静電気をわざと発生させてるんだよ。違う種類の物質同士をこすり合わせると、互いにマイナスの電気とプラスの電気を持つようになる。その大きさが限界まで達したら、空中放電するんだ」
すらすらと詰まることなく弟は答える。さすがは理系、なるほどよくわからん。
「針治療とかと同じ、健康のために使われたんだってね」
博物館から少し離れた所には平賀源内の生家も残されており、記念館と同じ共通券で入館することができる。そこには本草学者でもあった源内らしく、昔ながらの木造家屋には所狭しと漢方の原料である薬草が展示されていた。時代劇でしか見たことの無い薬箱が壁の一面を塞ぎ、薬効はわからなくとも圧倒されてしまう。さらに裏庭は薬草園となっており、古今東西多種多様な薬草が植えられている。
「こんなにグッズも作ってるんだ、売れるのかな?」
生家の一角には販売コーナーが備えられている。絵葉書や書籍、図録ならまだわかる。しかしTシャツやトートバッグなんて、買う人いるのかな?
「歴史ファンじゃないのか? こういうの好きな人は結構いるだろ?」
ショーケースに並べられた焼き物の皿を眺めながら、姉の質問に弟が答える。どうやら彼は源内焼という源内が指導して職人たちに作らせた焼き物に興味を持ったようだ。
そういえばうちの博物館には販売するグッズが無い。性格には昔は売店もあったみたいだが、あまりに元が取れないので撤退してしまったらしい。去年、事務所を掃除していたら、10年以上前の図録が何十冊も新品のまま段ボールに収められているのを見たことがあった。当時は特になんとも思わなかったが、今回想するとなんだか虚しくなってくるな。
一方で私はこの博物館のブレない方針に完全に打ちひしがれていた。平賀源内というこの地域ならではのコンテンツを前面に押し出し、歴史ファンの関心を惹きつけるよう工夫している。興味のある人にとっては、ここは聖地か天国のようなものだろう。
数は多くなくとも、ファンのハートをがっしりとキャッチする。あれもこれもと手を出しがちな総合博物館よりも、むしろこういった特定のテーマに絞った展示の方がむしろ人を呼ぶことができるのではないか?
「おおい、午後にもうひとつ回るんだろ。そろそろ行くぞ」
考え込んでいた私を引き戻したのはてっちゃんの声だった。薬草園をぐるっと一周して戻ってきたところで退屈の限界が来たのだろう、腕を大きく上げて欠伸をしていた。その隣では悠里乃ちゃんが壁のパネルを一字一句漏らさず読み込んでいる。
なるほど、これが興味ある人と無い人の差か。
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