第八章 その1 ギスギスミュージアム
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
閉館後、営業の男性が頭を下げに来た。オープン初日にあんな怒号をまき散らしてしまったのでは、華々しい門出に水を差してしまったばかりか博物館のイメージ悪化にも影響すると踏んだのだろう。
「いいえ、お気になさらず」
すっかり萎んでしまった男性に、里美さんが優しく声をかける。私はカウンターのパンフレットを補充しながらも、二人のやりとりに聞き耳を立てていた。
怒鳴られたのはバイトだったのだろう。閉店からしばらくして、私と同い年くらいの女の子がずーんと沈んだ様子で帰宅していったのは見ていて痛々しかった。初日にあんなにきつく絞られて、次もちゃんと出勤できるか心配だ。
心配のタネは他にもある。怒鳴り声が聞こえた瞬間から店内の空気も冷え切ってしまい、お客さんの笑い声も一切無くなってしまった。姿は見えなくとも厨房のピリピリとした空気が食堂全体まで溢れ出ていた。
「料理長には私の方からも注意をしました。今後は同じような事態を起こさないよう、監督を強化していく予定です」
男性は釈明する。会社として問題の再発防止策を提示するのは当然であろうが、説明の長さに辟易していた私は「あの、すみません」と会話に割り込んだ。
「失礼を覚悟でお聞きしますが、料理長ってどういった方なのですか? 私、少し前に料理長のお店で食べたことがあるのですが、あんなに美味しい料理を作れるなんて、心の底からすごいって思いました。そんな凄い人が、どうして博物館にいるのかなって疑問に思ってしまって」
尋ねる私を里美さんも私を咎める様子は無かった。その理由は推し量るしかないが、ふなで食品側が監督を強化するということは料理長独自の良さを損ないかねないとの危惧が、私と同様に多少なりはあっただろう。
営業さんはしばし口を噤む。しかし食堂の方に目を移すと、「ここだけの話なのですが」と声のトーンを落とした。
「料理長の腕は確かです、弊社は彼の腕を見込んで中途採用をしました。実績を積めば料理長に指名した専用店も作ると。ですが会社が急遽カンカン亭の事業に乗り出すことになって、彼が抜擢されたために自分の店を出す話が流れてしまったのです。延期ということになっていますが、実際のところ期限は定まっていません」
話を聞きながら、私は身体から力が抜けていく気分だった。料理長にとってはこの博物館食堂での勤務は不本意といったところだろう。ふなで食品にとっては自治体の信用を得られる大きなチャンス、最高の布陣で事業に挑みたいと意気込んでいただろうが、そのために料理長には約束を反故にされたようなものに映ったかもしれない。
「ご存知の通り、料理長は本格的なフランス料理を専門としていますし、本人もそういった料理が提供できる店を目指しています。ですが会社が作りたいのは地元の食材を多くの人に食べてもらうため、価格帯を抑えたレストラン。このギャップに料理長は常に悩んでいました」
営業の男性はさらに付け加える。
なんだか悠里乃ちゃんを思い出すなぁ。マスコットキャラで博物館が話題になって、不機嫌にしていた数少ない人物。それだけ博物館に対する想いも強いのだろうが、多数派から見ればどうしてそんなことを気にするのかとしか思われないだろう。
「それは料理長も辛いところでしょうね。ところで今、料理長は?」
「明日の仕込みのためにとまだ残っています」
まさか私たちももう仕事を終えようとしているのに。聞いていた里美さんもふうと悲し気なため息を吐く。
「朝早くから魚市場にも行くのですよね? 料理に関しては妥協を許さないのね」
「はい、彼は誰よりも熱心です。ただ、だからこそ葛藤が積み重なっているというのが、傍目からもわかるのがいたたまれなくて。不慣れなスタッフや学生バイトにも一級のクオリティを求めるために、厨房はまるで落ち着きません」
この価格帯でそこまでのものを要求されてしまっては、働く側もたまらないだろうな。もちろん安いからと言って手抜きしてもかまわないという意味ではないが、家格相応のサービスというか妥協すべき不文律のようなものは私たち客側も備えている。
そんな時、『閉店』の看板が掛けられていたカンカン亭のガラス扉が押し開けられる。中から出てきたのはひとりの男性だった。
「霧島さん、もう終わったのですか?」
営業の男性が私たちとの話を中断して声をかけると、霧島と呼ばれた男性は頭をかきながらぶっきらぼうに「いいえ」と答えた。
この霧島という男性こそが問題の料理長のようだ。見た目は40歳前後、見るからに気難しそうな職人といった風貌だった。
そんな彼はロビーの自販機でスポーツドリンクを買い、それを手に取るとすたすたと食堂に戻っていく。
「仕込みはもうしばらくかかりそうですか?」
「ええ、ソース煮込んでますんで」
営業の男性の質問にも、霧島料理長は淡々とだけ答える。仕事中はあまり談笑しないタイプなのかもしれない。
「あの、霧島さん」
気が付けば私は声をかけていた。霧島さんが立ち止まり、営業の男性も絶句する。
どうしてかはうまく応えられない。ただこの時、私は料理長に対して不思議なまでの既視感を覚えていたのだ。
「毎朝魚市場に行くのって、本当ですか?」
料理長は即座に「はい」とだけ答える。
誰よりも遅くまで残って、朝早くから魚市場に行くのか。ちょっと私には真似できそうにないな。
「明日は何をメニューにする予定で?」
「港に上がる魚は日によって違うから、どれとは言えません。ですが今が旬のキスやマナガツオがあれば、選ぶかもしれませんね」
料理長がこちらを向いて答えた。相変わらず気難しそうな顔つきだが、その眼は少しばかりにやけているようにも見えた。
あまり親しみが無い人も多いかもしれないが、マナガツオは瀬戸内海の名産だ。特に白味噌をからめた西京焼きは絶品の一言、甘い味噌が上品な白身を包み込んで何杯でもご飯が進んでしまう。
「では、明日も楽しみにしていますね」
私はにこりと笑って返した。料理長は「どうも」とだけ言うと、煮込んでいるソースが気になるのかさっさと店の中に戻ってしまった。
「あずさちゃん、明日も行くの?」
帰宅直前の事務室にて、スマホを手にした里美さんが不安げに尋ねる。
「はい、もちろん」
私はバッグを手に机から立ち上がりながら答えた。そんな私を見て池田さんはコーラを手に笑いを堪えるように茶化す。
「へえ、まさかああいうのがタイプだったなんて驚いた」
「そういうのじゃないです」
まるで中学生のような池田さんに、私は静かに突っ込んだ。反応が思ったよりもシリアスだったためか、池田さんは面食らったように黙り込んでしまった。
「言い表しづらいのですが……放っておけないんですよ、ああいう一途な人」
どうしてかはわからない。ただ私はあの料理長のことを嫌いにはなれなかった。
色々と不都合な条件が付きつけられているのに、なおも自分のやり方を曲げることはない。意固地とも言える不便な生き方だが、それに口を出すのは野暮と思えて仕方がなかったのだ。
ちなみに私の好きなタイプは穏和でおおらかな典型的O型の男性なので、皆様も決して誤解しないように。
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