第六章 その1 くんじょうミュージアム
爽やかな陽気の初夏はあっという間に過ぎ去り、代わりに本格的な熱気が南の空から押し寄せる。
急に蒸し暑くなって半袖のシャツで過ごすのが常態化する6月、雨の少ない香川県内の社寺では、豊作を願って雨乞の踊りを練習する子供たちの姿が各所で見られる。
しかし博物館にとって、この季節は厄介なことこの上ない。
「か、か……」
事務室の隣に設けられた給湯室。ここには流し台の他にガスコンロも用意され、昼ご飯にカップ麺ばかり食べている池田さんにとって熱いお湯はライフラインだ。
またここには冷蔵庫や小さな食器棚も置かれ、職員がお菓子やインスタントコーヒーなどを各自で備蓄している。だが、このような場所では時折、あってはならない悲劇が起こるのはどこのオフィスでも同じ。
「カビてる!」
雨の日の博物館、池田さんの野太い叫び声が事務室に響く。受付で頬杖をついていた私はびくっと跳び上がって振り返ったが、事務室の池田さんが指先で菓子パンだったものの入った袋をつまむように持っているのを見て、振り向くんじゃなかったと後悔した。
「誰だよ、ここに菓子パンずっと放置してた奴!?」
「私、お昼にパンは食べませんよ」
里美さんは目を向けることもなくさらっと否定し、パソコンをカタカタと打ち込み続けていた。そういえばそうだ、里美さんはいつも朝早くに起きて、子供と旦那、自分の計3人分のお弁当を用意しているらしい。仕事もバリバリできて毎日手作り弁当なんて、そのスペックの1割でも私に分けてくれないだろうか。
「私も違いますよー。だいたいいつからあったんですか、それ?」
自分に疑いの目が向けられる前に、私もさっさと否定する。
「期限見たら1か月前だ。まさか袋を貫通してカビの胞子が入ってきちまったのか?」
「そういう気持ち悪いこと言わないでくださいよ。私、今日のお昼メロンパンなのに」
こうもジメジメしていると、ささいなことでもイライラしてくる。空調は効いているはずなのに、肌の表面をつつーっと不快な汗の滴りが伝う。
こんな日はお客さんも博物館に行こうとは思わないのか、平日という要素も加わって今日の博物館は一段と閑古鳥が鳴いていた。
「やっぱり食堂は欲しいですね。毎日何か持ってくるのは意外と面倒でしょう」
そんな職員たちのくだらないやりとりを聞きながらアルミの弁当箱を広げていたのは、市民ボランティア代表の石塚さんだ。石塚さんも市職員として長く働いてきた身、職場での昼ごはん事情は様々な経験をしてきただろう。
「ですよね、お客さんからも食堂を作ってくれって声いただいていますし」
受付から私も会話に参加する。こんな大声でも誰にも怒られないのが、人のいない博物館の良いところだ。
「だけどそれはこっちが勝手には決められないからなぁ。ちゃんと入札の手続き踏んで、どこの業者が請け負うか決めないと」
池田さんはカビてぐちゃぐちゃになったパンが目につかないよう、ゴミ箱の奥に沈めながらぶつぶつと答えた。こういう思考を踏むあたり、池田さんも公務員としての考え方が身に付いているようだ。
官庁が業者に何らかの業務を委託する場合、必ず入札を行わねばならない。これは会計法や地方自治法でも定められている原則で、一職員の権限で覆すことはできない。しかしこの手順を踏むと公平性は保たれるが、業者が決まるまで短くとも2か月はかかってしまう。
「はあー、夏休み始まるまでに決まらないかなぁ。もうコンビニでもファミレスでもいいですから、6月の間に決めてもらいたいです」
私は悪態をつくように受付の机に突っ伏した。
「そういえばもう梅雨の季節か……そういえば渡辺さん、あれについては準備できてる?」
「はい、見積もりを審査して、もうすぐ決裁上げられます」
だが半分ふざけていた私とは違い、池田さんも里美さんも急に真面目モードで話し出す。
「あれって、何ですか?」
何か私、地雷踏んだかな? 不安をかき消すように尋ねる。
「
「展示品だけじゃないですよ、倉庫の中の収蔵品も全部。資料をカビや虫から守るためには、定期的に必要なの」
燻蒸。聞き慣れないこの単語が意味するのは、館内すべてを強力な薬剤で充満させる作業のことだ。
和紙や木材、布でできた収蔵品にとって、カビや虫は大の天敵。いくら保管に気を配っても、完全にそれらの侵入を防ぐことはできない。
そこで薬剤を使い、博物館の隅から隅までカビや虫を根絶するのがこの燻蒸の作業だ。例えるなら、超強力なバル〇ンと言えばイメージしやすいだろうか。
本来ならば年に1度、定期的に行うのが理想なのだが、うちは予算が少ないので2年に1回と頻度を減らしている。今年はちょうど燻蒸の年、私にとっても初めてのことだ。
「燻蒸の前後は博物館を閉めるから、ボランティアの皆さんにも手伝ってもらうわよ。石塚さん、お願いします」
里美さんがぺこりと頭を下げ、お弁当を食べていた石塚さんはぐっと親指を立てる。
「収蔵庫の箱の蓋、一旦全部開けるからね。相当面倒だし時間かかる作業だよ」
池田さんは以前に燻蒸作業の経験があるようで、少しばかり得意げに話していた。こういう何気ないところで、この人の子供っぽさが垣間見えるな。
「収蔵庫を、ねえ」
私はちらりと博物館の奥、収蔵庫に続く廊下に目を向けて呟いた。
閉鎖の危機に瀕するこの博物館だが、収蔵品は4万点以上とかなりある。展示室に置かれているのはほんの一部だ。
前の文箱みたいに、意外なお宝がまだ埋もれているかもしれない。そう思うと、しまったままにしておくのは、なんだか勿体ないなぁ。
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