第三章 その6 悶々ミュージアム
「おおシュウヤ君、今日はぱっちり元気そうだね」
「昨日はご迷惑おかけしました」
シュウヤさんは申し訳なさそうに頭を下げるが、館長は「いいよいいよ、健康が一番だ」と笑い飛ばす。
昨日一日使い物にならなかったシュウヤさんも、今日はすっかりぴんぴんしていた。やはり疲れた時には、まずはぐっすり寝るのが一番だ。
だがすっかりいつもの調子を取り戻したシュウヤさんに対し、昨日ほとんど眠れなかった私は目の下の熊を何重にもした化粧で隠していた。
覗き見えてしまった、松岡市長とシュウヤさんの関係。
そんなの、聞けるわけないでしょ。
思うにシュウヤさんは大切な何かをひた隠している、そこを無闇につつくのは絶対に良くない。気にはなるが、知らぬが仏とも言うように、平然を装うのがベストな気がする。
でもやっぱり……胸の奥がどうもそわそわして落ち着かず、私は里美さんにも謝るシュウヤさんの横顔をちらりと見た。
昨日、帰宅した私は改めて松岡市長の略歴を市のホームページで調べた。
船出市に生まれ、経済界の名門である神戸大学経済学部に進学。卒業後は地元の信用金庫に就職し、最終的には理事長にまで上り詰める。
このように華々しい経歴の持ち主だが、家族については妻と成人した子供がいる、と書いてあるだけでほとんど触れられていない。趣味の野球観戦とか今はどうでもいいから。
市長とシュウヤさんは、一体どういう関係なのだろう?
「そこで当時の高松藩主は、この文箱を塩田開発に従事した家来に与えまして――」
開館時間を迎えてお客さんが次々と入館すると、人気の展示の前には早速人だかりが形成される。
そんな来館者を前に高らかに解説するシュウヤさんの姿は、心底楽しそうだった。まるでこれをするために生まれてきたとでも言いたげに。
「質問……いいですか?」
そんな来館者の集団の中、小柄な人影がもじもじと手を挙げる。どうにもこもり気味の不明瞭な声、その発言主はニット帽を深くかぶった、小柄な女の子だった。
「船出の町が塩づくりで栄えたことはわかりましたが、ではなぜ高松藩はこの土地を選んだのですか? 海があれば塩なんてどこでも作れそうなのに」
「それは塩田と言っても単に海水を茹でればいい、てものじゃないからだよ。瀬戸内海は海が穏やかで荒れることは少ないし、海岸線は平坦な砂地が多い。その特徴をうまく利用して、画期的な製塩法を17世紀の半ばに開発したのが大きかったんだ」
「入浜式塩田ですか?」
「そう、堤防を作って海水面よりも低い場所に塩田を整え、潮位の差で海水を引き入れる製法だね。人力で海水を運ぶ必要もないから、効率よく大量の塩を作れるんだ」
周りのお客さんが呆気に取られている中で、女の子とシュウヤさんの会話は盛り上がっていた。まさに二人の世界、歴史に詳しい者だけが生き残れる空間だ。
いわゆる歴女ってやつかな?
友達にもいたな、ゲームがきっかけで戦国武将が好きになった子が。そういやあの子、歴史の先生になるんだって香川大の教育学部に入学したんだっけ。今、何してんだろ?
久々に浮かんだ友人のことを思い返していたその時、入り口の自動ドアがゆっくりと開くと、突如よく知った顔の男が飛び込んできたのだった。
「てっちゃん、どうしたの?」
思わぬ場所での遭遇に私は口を押さえ驚いた。
息を切らし、激しく肩を上下させるのは従兄のてっちゃんだ。興奮しているのか、目も若干血走っている。
「あずさ、妹を見なかったか!?」
そして吠えるように尋ねるてっちゃん。ロビーでくつろいでいたお爺さんもびくっと跳ね上がる。
「妹って、悠里乃ちゃん?」
だが私にとってはそんなことよりも、ここで従妹―悠里乃ちゃん――の話題が出てきた方がよほどの不意打ちだった。
てっちゃんの妹である悠里乃ちゃんはいわゆる不登校だ。今年、通信制高校の2年生になったが、あまり学校には行けてないらしい。
「見てないけど……何かあったの?」
「ああ、悠里乃のヤツ、今日は引っ張ってでも学校に連れて行こうと思ったら、いつの間にかいなくなりやがった。スマホのGPSで居場所調べたら、なんと博物館にいるって出てさ」
話しながらてっちゃんは自分のスマホの画面を見せつける。たしかに、表示された地図のアプリはこの博物館を示していた。
「本当だ、全然気付かなかった」
「この狭い館内だ、見つけ出して学校にぶち込んでやる」
乱暴だなぁ。
と、そんな時に展示室から楽しそうに話す声が聞こえ、足音とともにふたつの人影がロビーに現れる。
「ねえ、もっと教えて」
先ほどのニット帽の女の子とシュウヤさんだった。先生に教えを乞う生徒のように、女の子は目を輝かせてシュウヤさんの顔を覗き込んでいる。
「ああ、香川ではお雑煮に餡餅を――ん、どうかしたの?」
得意げに知識を披露していたシュウヤさんだが、さすがの彼でも女の子の顔がムンクの『叫び』のようにぐにゃりと曲がったのには気付いたようだ。
「悠里乃!」
てっちゃんが怒鳴る。
「兄……さん!?」
女の子は顔を真っ青に一変させ、ぶるぶると震えだした。
「お前、学校も行かずいつもいつもフラフラしやがって! 今日と言う今日は許さん!」
ぶんぶんと大腕を振り回すてっちゃんに、怯えてシュウヤさんの背中に隠れる妹。
「てっちゃん、落ち着いて!」
せめてここでの騒ぎはやめて!
私はてっちゃんの背中に回ると、てっちゃんの鍛えられた胸に腕を回してしがみついた。だが警察官として日々鍛えているてっちゃんにとって私のような女の力では制止にもならない。ずんずんと一歩一歩、ロビーの床を踏んで妹に詰め寄る。
「お兄さん、ちょっと落ち着きましょう!」
事態を察知したシュウヤさんも声を張り上げるが、てっちゃんは「うるさい!」と聞く耳も持たない。
「なんだなんだ、騒がしいな」
ついに事務室から館長も登場する。のんびり展示を眺めるはずの博物館で突如起こった乱闘騒ぎに、お客さんも職員も一斉にロビーに駆けつけたのだった。
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