第25話あかり、5th ステップ

 さかのぼること一ヶ月。蝉の命を懸けた嘶きが最高潮に達した頃だった。


 「ここまでよく頑張ったわね、あかりさん」

 死角にも塵ひとつなく、窓には濁り水の塊が一つもない。フローリングは入念に磨かれ、日光を反射している。

 ゆうきとあかりの滴る汗二粒も虹色に変色している。

 「それにしても、私の部屋って収納力抜群の物件だったなんて。今までこの魅力を台無しにしていたなんてショックすぎる」

 あかりの賃貸はクローゼットが標準体型の女性が四人入るほどで、ハンガーラックが内蔵されている。独り暮らし向けにしては上等な物件だった。

 「そうね。でも、それだけじゃないはずよ」

 ゆうきはポロシャツに重ねるよう、ハンドタオルを両肩にかけている。あかりの部屋に入ると同時に洗面台を借りたので、ハンドタオルにファンデーションが付着する心配がない。眉すら描かれていない。

 「どういうことですか? 麿まろ眉、じゃなくてゆうきさん」

 あかりは両手で唇を覆うが、ゆうきの耳にしっかりと届いてしまった。汗まみれのハンドタオルで叩かれる。

 「あなた自身の成長と独自性よ。今まで気づかなかったことが手に取るように分かるんじゃない? 今のあなたであれば」

 「さ、さぁ? それより汗を振り撒くのやめてくださいよ。せっかく掃除したのに、汗が乾いた跡が残ったらすべてが台無しじゃないですか」

 「じゃあ、掃除すればいいじゃない。ただし私が帰ってからね」

 ゆうきとあかりは体を張って攻防を続ける。

 ゆうきが十年ほど先に人生を歩み始めたが、二人の精神年齢はほぼ変わらない。親友のまなみがこの場にいれば、あかりに告げるだろう。敬愛するゆうきに聞こえないように。

 「掃除します。しますから、早く最後のステップを教えてください。この日のために、人のよだれまみれのぬいぐるみまで洗濯したんじゃないですか。私が」

 「出た、あかりさんのせっかち」

 ゆうきはポロシャツのボタンを第三まで外す。あかりの部屋にはエアコンが設置されているが、エアコンの空気が苦手なゆうきのために扇風機を使用している。

 暑がりのゆうきは背中に獣の大きな足跡を作り、裾縛りのハーフパンツを面積の限界まで膝を通過させている。

 一方あかりはTシャツに綿のショートパンツという完全なルームウェアを身に付けているため、ゆうきほど暑さを感じていない。

 「ま、あかりさんの急かす癖はそのうち治るでしょ。それじゃあ、発表するわよ、心の準備はいいかしら?」

 あかりは無言の眼差しでゆうきの眼光を貫く。ゆっくり入刀され、ゆうきはついに最後のステップを口にする。

 「名付けて! 『Only One のカワイイ×リラックス部屋まであと一日! 家具の配置スタート』よ! あかりさん、この日のために打ち合わせした資料の内容、覚えているかしら?」

 ゆうきはバッグからタブレットを取り出し、画像保存アプリを起動する。

 同じくあかりもスマホとノートを取り出し、十通りほど書き出した部屋の配置図が空気に触れる。

 「これまで、何度もLINEでやりとりさせてもらったわね。移動効率の良さ、居心地の良さ、衛生面、見た目の癒し効果……どれか一つが欠けたら満足しない。本当に納得する案に辿り着くまで長かったわね」

 「それを一日と言わず、一時間で完成させましょう、ゆうきさん」

 あかりはマスクとバンダナを装着し、レジ袋から軍手を拾う。

 自分の手にはめた後、ゆうきにも対の軍手を差し出す。

 「前後撤回。あなたのせっかちは一生治らなさそうね」

 ゆうきは苦々しい声ではなく、風鈴のような涼しげで柔らかい響きで言う。


 そして一時間後、あかりとゆうきの理想の部屋が完成する。

 「うわぁー! これが紙に書いたあのレイアウトかぁ! やっと実現したわ!」

 「おめでとう、あかりさん!」

 ゆうきは喝采を贈る。あかりの甲高い声はマスクの中で反響し、うっすらと涙のシミができている。

 「これで叶うわね。まなみさんご一家との食事会。それに、あなたのご両親も堂々と呼べるじゃない。ここまで頑張ったのは、あなたの力があったからよ」

 「ゆうきさん……そんな、私一人のじゃないのに……」

 ゆうきはあかりの言葉を受け入れ、首を左右に振る。

 「そうね、確かにあなたを後押ししたのはまなみさんやあなたを応援してくれる人の力よ。でも、それをエネルギーにして行動を示したのは、紛れもなくあなた一人の力よ。十分、誇れるわ」

 両手で顔を覆うあかりの頭部を、ゆうきは綿毛に触れるように手を乗せる。

 あかりが泣き止むまで、互いが憎まれ口を叩かなかった。


 日照のピークが過ぎ、買出しに出る主婦の笑い声が微かに聞こえ始める頃。

 「すみません、長居させちゃって」

 「いいのよ、あかりさん。それよりね、私今のあなたにどうしても言いたいことがあるの。聞いてもらえる?」

 あかりは頷く。背筋が伸びるのは、大学の入学式以来だ。

 「あなたは、無理してフェミニンに着飾る必要はない。あなたの生来の気配り、優しさであなたは十分にフェミニンよ。服装はカジュアルに変えても、女性特有の柔らかい物腰は隠せないくらい。あなたは中身も十分魅力的だから、そのままでいいの。背伸びする必要はないわ。キラキラ女子さん」

 「え……?」

 ゆうきはあかりの肩に手を置き、玄関の扉を開く。

 「ゆうきさん、待って! 私、まだ――していない!」


 あかりのスマホが、何回も震えた。

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