第21話あかりの理想

 午後十一時。自動ドアの電源を切り、備品などの片づけにラストスパートをかける。ロングカクテルグラスを三本も割ってしまったため、あかりの両手は絆創膏色に染まっていた。それでも、あかりは鼻歌に合わせて腰を左右に振り水に触れ続けた。

 『休日前に、派手にやってくれたな。ま、気が緩んで外で羽目を外すよりはましか。君も接客に携わっているのだから、常に誰かが自分を見ているという自覚を持つこと』

 『はいっ!』

 男性先輩の放つ棘の意味を理解しようとせず、あかりは声を天に向けて投げた。

 『まさかお泊り会とはね……俺はてっきり、友達一人もいないと思っていたよ、君には。プライベートには興味ないから、勝手な想像だけど』

 あかりが髪を切ると、彼はいたずらをしかける子どものように笑うことが増えた。

 彼は仕事熱心であり、接客業に携わっているプライドがあるため、どのスタッフにもお客様にも愛想よく接する。逆に中途半端な気持ちで制服を着ていると、男女構わず無数の棘を放り投げる。勤続年数が長い相手だろうが、容赦しない。

 正社員のように生活を背負っているわけではないので、あかりは同じ制服を着ている、異なる立場の人間の気持ちが理解できない。決められた分だけ、決められた時間内で、決められたマニュアルで業務を遂行すればお金が手元に入る。

 世の中の日本人がなぜ、実家の父も含めて、なぜ疲弊した顔で会社から帰宅するのか。その心境を想像する機会もなく、ただ漠然と「大変」という文字が脳裏に浮かぶだけだった。

 『勝手なご想像でどうぞ。私にも友達がいますから~』

 あかりは鼻を鳴らし、洗浄した什器を決められた場所に片付けた。

 『じゃあ、お言葉に甘えて。俺の想像では、君には一人か二人の友人がいるってところかな。楽天的過ぎて、せいぜい見捨てられないよう気を配ることだな』

 彼は店舗の照明をすべて消し、制服姿のままパソコンを開いた。あかりが頬を膨らませている姿など、眼中にない。


 「……ってことがあったのよ! ウチの上司、酷くない? ね? まなみ」

 「ふーん?」

 二十四時間後、あかりはまなみの部屋にて、小声で部屋全体に膜を張る。

 隣室では、まなみの父親が眠っている。

 「ま、私は父を起こさないでくれただけでもありがたいと思っているけど? やっと睡眠薬を飲まないで眠れるようになったから」

 まなみはホットミルクの入ったマグカップに、チューブのはちみつを投入する。スプーンでくるくる回しながら少しずつ啜る。就寝前、まなみの父にも飲ませたものと同じだ。

 「それは……おじさんのことは気を遣っているつもりだけどさ。でも、まなみが冷血漢みたいな言い方をされたのが嫌なの。向こうがよっぽど冷血漢じゃないの」

 「ふーん?」

 まなみは、あかりに用意したホットココアにもはちみつを投入する。さらに甘くなるようまじないを口にしながら、自分のスプーンでかき混ぜる。

 「まなみ……」

 「あかりさぁ~」

 まなみはホットはちみつミルクを飲み終え、マグカップをテーブルに置く。

 「一度、インターンシップじゃなくて、ハローワークを介して職場体験に行ってみたら? それでさ、たまにはご両親に顔を出しに帰りなよ」

 「え? それって、まなみの学年ででしょ? どうして私が今?」

 そうだね、と聞き流す気はない。甘未を極めたものが苦手なあかりにとっては、ホットはちみつココアを飲まなくて済む口実が現れたから。

 「こっちは本気で言っているんだけど、あかり」

 「バレたか……」

 あかりは舌打ちする。まなみの声は珍しく地を這うように低い。

 「働くって? 生きるって? 自立するって? すべてを教えてくれるよ。社会人になる前に住まいを整える必要性もね」

 まなみは布団に身を埋める。あかりも並べて用意された布団に足を入れると、まなみがマグカップを指差す。ホットはちみつココアを一滴残らず飲ませる気でいる。

 「でもさー、どうせそれ、ゆうきさんの入れ知恵でしょ? 実際まなみは行ってみたの? その、職場体験ってやつを」

 あかりは涙目で飲みながら舌を出す。口内が乾燥しない限り、よほどのことでなければ飲めない甘さだった。

 「うん、お父さんとね。体験した職場は別々だったけど、終わったらお互いの話題が尽きなかったよ。それで私、理想の生活を見つけたんだ。ゆうき先生のおかげで」

 「インテリア、じゃなくて?」

 唾液で甘味を緩和しようと、頬の内側を伝う唾液を吸い寄せるあかり。

 まなみは頷く代わりに、照明のスイッチを指差す。あかりに消させると、あかりの布団をめくる。薄暗い視界の中に布団が入り、あかりは難なく潜ることができた。

 「ゆうき先生にとってはね、インテリアは自分自身を見つめるツールに過ぎないんだって。枝分かれしているその先は人それぞれで変わるみたい」

 「ツール? 生業なりわいにしているのに? 相変わらず変なことを言う人だね、ゆうきさん」

 まなみは布団で口元を押さえ、噛み締めるように笑う。

 「それ、ゆうき先生に直接言ってみたら? 『その言葉、そっくりそのまま返してあげるわ』って確実に言われるから」

 あかりに背を向け、まなみは三秒も立たないうちに寝息を立て始める。

 まなみの父が隣室で眠っていることもあり、あかりはそれ以上反論できなくなる。

 「理想って……私たち、まだ大学生じゃん……」

 あかりも背を向け、ダンゴムシのように足を折り、全身で弧を描く。

 そこから記憶が途切れ、あかりは深い眠りに入る。

 見た夢は覚えていない。強引に起こされた瞬間だけが翌日の正午までかすむことなくあかりに訴える。


 かつて見せつけられた、ゆうきの暗い影を抱える背中だった。


 脳裏から離れないゆうきは、幻の中で浮遊するあかりに一枚の紙を渡した。

 多方向に枝分かれした木だけが描かれた、文字が一つもない白い紙だった。

 

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